光は走馬燈のように現れては消えていった。けれど、音は耳にべったりとこびりついたまま離れなかった。

 ライブハウスを飛び出して駅に向かった時も。ホームで電車を待っていたときも。電車の中でうつむいていたときも。駅から出て家に帰る途中も、ずっと。僕の頭の中では、姉さんの歌声が響いていた。


 もう大丈夫だから……

 うまくやってくから……


 声が離れない。

 かき消したくて、僕は走った。耳が空を裂いて、風鳴りの音だけを響かせた。それでも無駄だった。どれだけ風が強く吹き付けようとも、どれだけ心臓の音がうるさくなろうとも、姉さんの歌声が頭から消えなかった。

 当然のことだけれど、帰ってきたとき家には誰もいなかった。母さんはパートだし、もちろん姉さんが帰ってきているはずもない。僕だけが逃げ出したのだ。

 僕は靴を玄関に脱ぎ捨てると、一目散に自分の部屋に向かった。そして床にモッズコートを放り投げて、ベッドに潜った。布団をかぶって耳を覆った。声が聞こえないように。歌が聞こえてこないように。

 それでも、姉さんの歌が脳裏に響いていた。


 もう大丈夫だから……

 うまくやってくから……


 ――やめてくれ

 僕はすべてから逃げたくなって、耳も目も、口もなにもかもを塞いだ。それからすぐに闇はやってきたけれど、沈黙が訪れるのはずいぶんとあとのことだった。


     *


 僕は胎児だ。姉の膣内で体をまるめ、羊水のなかに漂う胎児だ。その姿は、さながら湯沸かし器の中で踊る紅茶の茶葉。あるいは、無重力のなか吐き気とともに回転運動を続ける船外活動中の宇宙飛行士。僕は、姉の膣内なかに孕んだ胎児だった。

 僕と姉は、一本の管をもとにしてつながっている。姉の腹の中で、僕はおなかに管を繋がれたことで、姉と感覚を共有していた。さながら映画館のスクリーンに映る映像のように。コンピュータが描き出す数式のように。もし姉がハチミツを舐めれば、僕はおなかで「あまい」と感じるし、もしアルコールを摂取しようものならば、僕はおなかからじんわりと酔いを得ていく。僕と姉の関係というのは、そういうもの。姉と胎児の関係とはそういうものだった。

 姉は身ごもった弟に子守歌を聴かせるため、毎夜ギターを引っ張り出しては、優しげな歌を歌った。彼女はイヤホンをつけて密やかにリズムをとりながら、タバコをゆっくりを吸うみたいに静かに歌い上げた。すーはー、すーはー、と。僕は胎内でそれにハミングした。すーはー、すーはー、と。

 それは心地の良いひとときだ。姉の胎内はあたたかく、それでいて時に涼しい。初夏のじんわりとした暑さのなかで、扇風機の風にあたるみたいに。

 僕は、メープル色をした水のなかで、アンプに増幅されたような姉の感覚を共有した。へその緒を通じて流れてくる感覚。花模様が見える。色とりどりの花々。姉の胎内は、常にそのような華やかさと彩り、においに包まれていた。心地よく、僕は時々クラリと頭をもたげては、眠りに落ちてしまう。

 あるとき、それは電子レンジがチンと音を鳴らして訪れた。その音の直後に、僕は何かに押し出されるようにして、煙のなかに向かっていった。白い煙の中だ。ひとたびそこにはいると、僕は自分がどこに居るのか見失ってしまった。ただ、すくなくとも姉の胎内ではないということだけはわかった。

 目は見えなかった。

 音は聞こえた。

 ペンが紙の上を滑る音。それから、涅槃のように静かな吐息を漏らす姉の声。姉は僕の名前は呼んでは、艶めかしげな声をあげた。

 僕は、姉の膣からついに取り出されたのだ。

 外の世界を見たのは、それが初めてだった。最初は煙のようにすべてが白んで見えたけれど、そのうち目も慣れて、いろいろなものが見えるようになった。

 僕という胎児は、女王のようなテカテカのハイヒールを履いた、まるで理科の教師のように白衣をまとった女に預けられた。どうやら外の世界では、彼女が舵を握っているらしい。

女王は、彼女と同じく白衣をまとった者たちに命令を告げては、心底退屈そうな吐息を漏らしつつ、何かを命じ続けた。

 爆竹の仕込まれたウィスキー。モールス信号を打つ制服姿の水兵。女王に預けられた僕は、寝台の上で爆発を遂げるものをいくつも見た。

 そのうち胎児である僕は、何か息苦しさを感じ始めた。全身に駆け回る悪寒。肉じゃがを作るつもりがナスを入れて夏野菜カレーになっている。僕は苦しさの中に気の滅入るのを覚えた。

 そのうちタンバリンの音がシャンシャンと響いて、子守歌がどこからともなく聞こえてきた。

 僕は苦しさの元凶を探して、粗暴にも手当たり次第に周囲をまさぐりまわった。ほどなくして判明したのは、へその緒の存在だった。へその緒が、僕の首を締め付けていた。苦しみの正体とは、姉と僕との関係を証明する一本の管であったのだ。

 僕は子守歌のするほうに行きたくて、身をゴロンと転がした。けれど体は思うように動かず、ただ苦しさが増大するだけ。

 もう一度、ゴロンと転がってみる。

 また苦しくなった。

 僕はそのまま、一心不乱に子守歌のするほう。姉の膣のあるほう。管が伸びる方へと体を転がしていった。だけど、一回転するたびに管は僕に巻き付いて、なおさら僕を苦しめた。

 思えば、単純なことだったのだ。

 雨が降っていれば、傘をさせばいい。

 風邪をひけば、薬を飲めばいい。

 そこに唇が待っているのなら、口づけすればいい。

 巻き付いた管が痛むなら、ほどくか、切ってしまえばよかったのだ。

 ゴロゴロ転がっていくうち、下着に秘された姉の股が現れた。そこには一分の隙もなく、レモンのような鮮やかな黄色があるだけだった。僕はギターピックを片手にチョイチョイとレモンを弾いてやろうとしたけど、姉はスマホをいじるのに夢中の女子高生みたく無反応だった。

 僕はいま一度姉の胎内に戻ろうとしたけれど、それは叶わなかった。なぜなら、姉の膣内はガムのように伸びるゴムと、ノリのいい応援団、それからベッドの上に横たわるタオルケットたちに阻まれていたのだから。

 それに何より、僕は姉の胎内から出てそこそこの時間が経っていたのだろう。もはや、僕の顔は、頭は、体は、姉の胎内に戻るには大きすぎた。僕は成長しすぎていて、姉の中に戻るには大きすぎた……。僕らは、ギグわるには遅すぎたんだ。

 僕は絶望に近い落胆とともに、息苦しさと寂寥感を覚え、その場に倒れ伏せった。

 ――へその緒を切っていればよかったのだ。


     *


 吐き気がすべてを飲み込もうとしたとき、僕は目を覚ました。

 体を跳ね起こすと、そこには薄暗い自分の部屋があった。一面の銀世界でも、姉の胎内でもない。自分の――泉雄貴の部屋だ。

 全身汗でぐっしょりで、瞳からは涙がこぼれていた。頬を伝って唇までしずくが垂れてきている。涙はそこで涎と混じり合い、顎へと水路を掘って、最後には枕に流れついたらしい。水色の枕カバーは、濡れて濃紺に変色していた。

 ――夢だったんだ。

 僕は頭をもたげながら、ついさっきまで見ていた奇妙な夢のことを思った。

 現実味のない、おかしな話だった。舞結姉さんが僕を身ごもる、なんて絶対にあり得ない話だ。だけどなぜだろうか。あの夢を、僕はひどくリアルなものとして受け止めていた。現実にそこにあるものとして。まるで僕が経験してきたことそのもののようにさえ感じ取れた。奇妙な感覚だった。

 ベッドから身を起こして、ゆっくりと床に足をつけた。寝起きだからか、足下は微妙に覚束ない。すぐに平衡感覚は戻ったけれど、夢の中のような浮ついた感覚はそのままだった。

 部屋の明かりをつけると、それと時を同じくしてスマートフォンが揺れた。ピロン、と小さく通知音を鳴らして、画面を光らせる。スマホは、床に投げ捨てられたモッズコートの中にあった。

 僕はコートのポケットからそれを取り出して、通知欄を確認した。迷惑メールを受信しただけだった。

 ――なんだよ。

 そう思って、画面の電源を落とそうとした。だけど、通知はそれだけではなかったのだ。

 二時間ほど前に奏純さんからLINEの通知が来ている。彼女が送ってきたのは、動画だった。それにあわせて『すごい、これホントなの?』とテキストが送ってきている。

 僕はすぐにパスワードを解除して、LINEを開いた。そして奏純さんが送ってきた動画を見た。

 画面に触れて再生を開始すると、まもなくそこにはステージが映し出された。オーバーチュアのステージだ。壇上にはシスターズ・ルームの三人。僕を除いたメンバーたちが立っていた。

 映像は『マイ・グッド・ラック・ソングス』の途中から始まった。ラストのサビからアウトロに入るところだ。姉さんが「もう大丈夫だから。うまくやってくから」と一度だけ歌ってから、アウトロへ。非常に静かで、淡白な終わりかただった。もともと『マイ・グッド・ラック・ソングス』自体、そんなに盛り上がるタイプの曲ではない。どちらかと言えば、ライブをしめやかに締めくくる曲といったところだろう。

 そうして演奏を終えたところで、客席から歓声があがった。それから司会の男性がステージ脇から出てきた。

「ありがとうございました、シスターズ・ルームでした」

 男がそう言って、姉さんたちに壇上からはけるように目配せする。

 だけど姉さんは、その場を降りなかった。その代わりにマイクに向かって言ったのだ。

「実はみなさんにお知らせがあります」

 会場にどよめきが起こる。

 司会の男性が焦ったような顔をした。額の汗を拭い、彼はマイクを離して何かを口にする。しかし奏純さんの映像では、その音声までは拾えていなかった。

 そのときの姉さんの目は、煌めいた好奇心の瞳でも、僕を諫める時の深い黒色の瞳でもなかった。その目は、僕を引っ張っていくときの、あの頑固な姉さんの目。なにを言っても通じない、あの目つきだった。

 姉さんはそれから、深く息を吸ってから、言った。

「わたしたちシスターズ・ルームは、このライブを最後に解散します」

 その直後のことだった。

 姉さんは肩からさげたギターを外したかと思えば、ネックを持って思い切り床に叩きつけたのだ。アンプが繋がれたままだったため、ギターはハウリングのような甲高い叫び声をあげてから、粉々になった。エピフォン・カジノを形作っていた木材は、ただの木片となってそこらじゅうに弾け飛んでいった。弦はバヨーンと間抜けな音を鳴らして引きちぎれ、ボディは真ん中から真っ二つに。一瞬でギターがただのゴミに変わってしまったのだ。

 ほんの一瞬の出来事に客席は呆気にとられていた。撮影者の奏純さんも「えっ?」という言葉を漏らしてからは、なにも口にしていない。

 本当に、一瞬のことだった。

 一瞬のうちにすべてが弾けて、すべてが消えたのだ。夢のように。シャボンのように。

 そして、姉さんのギターが破裂してまもなく動画は終わった。


 動画を見て呆然としていたとき、誰かが玄関を開けた。

「ただいまー」

 姉さんの声だった。

 姉さんはそのまま階段とドタドタと駆け上がって、それから一目散に僕の部屋のドアをノックした。二回、コンコンと。

 そのとき、僕はいったい姉さんにどんな顔をすればいいかと思った。僕はライブから逃げ出し、挙句姉さんはギターを壊してバンドを解散させた。そんな状態で、いったい何を話せというのだ?

 しかし、その考えは杞憂に終わった。

「雄貴、入っていい? ちょっと付き合って欲しいんだけど」

 ――ちょっと付き合って欲しい。

 その言葉に、僕は応じずには居られなかった。いつもの姉さんが帰ってきたような気がしたからだ。

 僕が答えると、姉さんはいつものように部屋に入ってきた。だけど今日、このときは何かが違った気がした。

 姉さんはその手にペシャンコになったギターケースを持っていた。


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