「……たしかに、『シスターズ・ルーム』よりアップテンポで、シンプルな曲だが……」

「なんでタイトルが『イカロス』なんすか? イカロスって、結局墜ちてたんじゃ?」

 初めてのギグを控えた練習日、僕らはレンタルスタジオにいた。そしてその日初めて円さんと保志さんは『イカロス』を目にした。

 シスターズ・ルームの二つ目の曲。その完成度の高さに二人とも驚いていたが、それよりも気を惹いたのはタイトルだった。

 イカロス。

 でも、その名前にしたことに関して、僕に深い意図はなかった。ただたまたま思いついた言葉がそれだったから、そうなっただけのことだ。

「どう? 結構カンタンで、でもノリのいい曲でしょ?」

 姉さんがそう言って、サビのフレーズを弾いてみせる。カンタンなコードの羅列――と姉さんは言っていたが――で、そこに僕の歌が入る。

「いいな、やってみよう」と円さん。

「少し急ぎ足な感じでいいっすかね?」

 保志さんがビートを刻み始めた。

 それに合わせて、姉さんが首を縦に振る。右足でリズムを刻んだ。

「じゃあ、合わせてみよう」


     *


 それから何週間かして、ついにその日が来た。九月の下旬。姉さんの大学が始まる直前、の金曜日のことだった。

 午後六時。僕らは、円さん家のワゴン車に楽器を詰め込んで出発。駅前商店街にあるバー・セヴンに向かった。そこが保志さんのバイト先だった。

 駅前の商店街は、むかしから僕もよく使っていた。今は寂れたアーケード街だけれど、むかしは模型屋や駄菓子屋が軒を連ねていた。もっとも、今では八百屋と菓子の卸問屋ぐらいしかない。

 バー・セヴンは、そんなシャッター街にひっそりと立つ隠れ家的な店だった。隠れ家という表現は的を射ていると思う。なにせ十六年近くこの町に住んでいる僕でさえ、そんな店があるとは知らなかったのだから。未成年がバーを知っているのもどうかとけれど。

 六時時半前には荷物と一緒に到着。開始は七時半とのことで、それまでに軽いリハーサルを行う予定だ。

 初めて会場となるバーを見たとき、僕は踏み入れてはならない場所に入ったような背徳感を覚えた。だけど、それは前に姉の大学に行ったときのような感覚ではなかった。もっと別の感じ。現に姉さんもまた恐る恐る足を進ませていたのだから。

 店内に慣れた様子で入ったのは、やはりバイト先ということで保志さん。続いて冷静な円さんという感じだった。

 木製のカウンターテーブルに、背の高いイス。ボックス席が三つあり、そしてスタンディングの席が二つほどあった。雰囲気としては、バーというよりブリティッシュパブに近いとは円さんの談だ。

 暗い店内には暖色系の照明がゆらめくように照っていて、その中では姉の姿がいつもより二歳ぐらい大人びて見えた。でも姉さんの行動は相変わらずだった。

 ドラムセットを用意して、ギターとベースをアンプにつないだ。それからスタンドマイクを用意する。配置はいつもどおりだった。僕が一番前。左右対照的に姉さんと円さんが並び、後ろには保志さんのドラムが控える。

 バスドラムの表面には、ダクトテープを貼り付けて、その上から『SISTER‘S ROOM』と太い文字が書かれている。姉さんが書いた文字だから、太く荒々しくても、どこか可愛げな印象があった。ピンク色のマッキーの太字で書かれたそれは、僕らシスターズ・ルームのロゴマークだった。


 バーというのは、そう早い時間から客が来るものではないらしい。居酒屋なら早ければ六時過ぎにも混んでいるイメージがあるけど、どうにもこの店はそうではないらしい。それはメニューを見ればわかることで、飲み物が軒並み千円近いあたり、つまりそういうことなのだと僕にはわかった。きっと二十歳をすぎても、僕にはそうそう行けない店だろう。

「今日はありがとうございます。急な頼みですが、引き受けてくれて本当に助かっています」

 準備を終えた僕らにそう声をかけたのは、このバーのマスターだった。白いものが目立つグレーの髪に、ワイシャツにスラックス姿。首もとには赤い蝶ネクタイが映えていた。俗に言うナイスミドルというのは、きっとこういう人のことを言うのだろう。

「マスター、これでボーナス期待していいっすよね?」とドラムセットから保志さんが這い出て来た。

「出演料という名目で支払いますよ。せっかく出ていただくんですから……。三曲ほど演奏していただきたいんですが、それで大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」と姉さん。「あ、でも結成して一ヶ月ちょいなんで、へたっぴでも文句つけないでくださいね」

「そこは了承しています。もとはといえば、ちゃんと代役も用意していなかった私に落ち度がありますから」

「緊急事態と聞きました。それなら仕方ないことです」

 今度は円さんが言った。彼女の敬語は、姉の口調よりもいっそう大人びていた。円さんには、もはやプロのベーシストの貫禄すらある。

「こちらとしても、できる限りの演奏はさせていただきます」

「はい。よろしくお願いします。それでは、そろそろお客様もいらっしゃると思うので」

 そう言ったとたん、入り口のドアを誰かが開いた。熟年の夫婦だった。丸顔のおばあさんが、小太りのおじいさんの手を取って店内へ。ドアベルがカランコロンと小気味のいい音を鳴らした。

 マスターは、「いらっしゃいませ」と口にしてカウンターへ。

 いっぽう僕らは、初のギグに向けての準備に戻った。


 午後七時半前。

 驚いたことに、たった一時間のうちに店は満席になった。カウンターには常連とおぼしきスーツ姿の男性が三人腰をおろし、ボックス席は熟年夫婦と大学生風のグループで埋まっていた。スタンディングのテーブルも、仕事帰りらしい男女が四人立ち尽くしている。

 僕はその光景を目にしたとき、胸の動悸が止まらなくなったのに気づいた。どくん、どくんと拍動する心臓。焦燥が僕の中のメトロノームを急かした。唇も勝手に震えだして、思うように声が出なくなった。喉の奥で門が塞がったようだ。

 そんなふうに呆然としていると、後ろで姉さんがギターを下ろした。アンプを介してかすかに弦の震える音がした。僕はその音に反応して、振り返った。

「雄貴、大丈夫?」

 姉さんは、わざわざそれを言うために一度ギターを下ろしたのだ。

 僕は何も言えなかった。

「ま、わたしの弟なら大丈夫よね。ところでさ雄貴、ライブMCってやる?」

「えっ?」

 突然の質問に、喉の門番が虚を突かれた。

「ほらほら、よく曲との合間にMCが入るじゃない? わたしさ、あれやりたかったの。やってもいい? 雄貴がやりたいって言うなら、譲るけど」

「僕ならべつにいいよ。そういう役目は、きっと姉さんの方が似合うはずだから」

「そう? じゃあ、みんなもそれでいい?」

 言って、姉さんは再び振り返って、アンプに立てかけたギターを手に取った。

「かまわんぞ」と円さん。

「いいっすよ」と保志さん。

 誰も異論はない。いつだってシスターズ・ルームは、姉さんの思いつきで始まる。僕はそれについて行くだけなんだ。

「じゃあ、そろそろかな?」

 姉さんがポケットからスマホを取り出し、時刻を確認した。開演まであと二分を切っていた。

 カウンターの向こうでマスターが静かにうなずいている。それは、ゴーサインと同義だった。もう始めてもいいと、彼の瞳は言っている。

「じゃあ始めよっか。それじゃあ、初めはオアシスからこの曲です」

 保志さんがスティックでリズムを取る。そして次の瞬間、姉さんの右手がピックとともに振り下ろされた。

 それは、オアシスの『ライラ』だった。


     ♪


 ――ヘイ、ライラ。

 と、果たして僕は何度その名を口にしたのだろうか。緊張で沸騰した頭は僕から理性を奪い、熱狂のうちへの突き落としていった。観客は数えるほどしかいない。しかし、それでも僕は興奮を覚えていた。

 『ライラ』が終わったところで、姉さんが僕の代わりにマイクをとった。宣言通りのライブMCだ。姉さんはノリノリだった。

「今日はどうもありがとうございます。はじめまして、わたしたちは『シスターズ・ルーム』です」

 歓声。

 カウンターに座る初老の男性が静かに拍手。続けざまにボックス席の老夫婦が朗らかな笑みを送った。奥のスタンディング席では酔った男女が指笛を鳴らしている。

 姉さんはその声に応えるように手を振った。すると姉さんの笑みに大学生風の男が微笑み返した。僕は少しだけイヤな気分になった。

「実はわたしたち、今年結成したばかりで、今日が初めてのライブなんです。なんで、結構緊張してたりしてます。えへへ……でも、一度こういうライブMCってやってみたかったんです! 特にメンバー紹介やってみたかったんですよ。やっていいですか?」

 再び歓声。例の大学生風の男が声を上げた。それはきっと「いいよ」の合図だった。

「ではでは、まずはドラム担当! 保志賢人!」

 ドラムソロ。後ろで保志さんが叩きまくる。落雷のような爆音が響きわたり、男性の飲んでいたウィスキーに波紋を浮かばせた。

「いやぁー、かっこいいですねぇ。彼はわたしと同級生なんですよー。では次に、ベース担当。わたしの幼なじみで、千鳥楽器店の一人娘! 千鳥円!」

 続けざまに円さんのベースソロ。

 それは、『ザ・オックス』という曲だった。円さんが自慢げに何度も弾いていたので、僕も覚えている。とてつもない速弾きはプロ顔負けで、観客もみな魅入っていた。実際、僕も円さんの演奏は贔屓目に見なくても、純粋にすごいと思っていた。

「いやぁー、すごいですね! 円ちゃんとは小学生からの幼なじみで、むかしからいろんな楽器を弾けたんです。英才教育のたまものですね!」

 拍手喝采。円さんのベースソロは、そのテクニックも相まって観客の心を鷲掴みにした。

 それからしばらくして拍手が止んだ。そして、その代わりにしばし沈黙が訪れた。姉さんは何も口にせず、お客さんも黙ったままでいる。

 僕は姉さんに「どうしたの?」と問おうとした。

 するとそのとき、カウンターにあったウィスキーの氷が溶けて、カコンと小さな音が響いた。

「あっ、忘れてました! 次はわたし、ギターの泉舞結です!」

 姉さんは思いだしたように言って、それから得意げに『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を弾いた。焦っていたのか、少し音がこもっていた。どうにも指先でうまく弦を押さえられてないみたいだった。濁った煙が、波紋を起こしたウィスキーにかかりはじめたようだった。

 それから姉さんは、コホンと咳払い一つした。

「えーっと、失礼しました。続いてはボーカル、泉雄貴! 実はわたしの弟なんですよ。かわいい弟でしょ?」

 ――それは言い過ぎだし、恥ずかしいよ。

 内心そう思ったけれど、さすがにマイクの前ではそうは口にしなかった。

「まあ、わたしの話はこれぐらいにしたほうがいいですよね。ということで、次の曲です。これからはわたしたちのオリジナル曲を二曲続けて聞いてもらいます。ではまず、『イカロス』」

 姉さんの声の、その直後だった。

 姉さんがギターをミュートにさせてかき鳴らす。それとまったく同じタイミングで、保志さんがスティックを叩いた。

 カッ、カッ、カッ……

 そうしてリズムをとってから、姉さんが何度も試していたお気に入りのリフが響いた。

 ――翼を得て、そして失ったモノ。

 イカロス。


     ♪


 午前七時 キミが鳴らしたギターの音

 合わせ歌った ボクの声

 キミが弾くのをやめなくて

 明けてしまった土曜夜


 学期終わりの真夏の日

 楽器背負ってきた友達と

 子供の頃むかしみたいに

 ただ楽しくて時が過ぎたんだ


 キミが弾いて 曲が産まれ

 キミを見つめ 言葉ができて

 キミはすすみ ボクはついていく

 You just play. And I'll sing for you.


     ♪


 『イカロス』から、続けざまに『シスターズ・ルーム』を歌った。終わったときには、僕は何がなんだかよく分かっていなかった。でも、ただ楽しかった。お客さんが拍手をして僕らを迎えている。姉さんがマイクを取って「ありがとうございます、シスターズ・ルームでした!」と声を張り上げている。本当に夢のようだった。


 そうしてシスターズ・ルームの初ライブは、まさかの盛況のうちに終わった。春休みにギターを始め、初夏の五月に思いつきで始まったロックバンド。それが夏休みのうちに急成長し、いまや人前に立って歌うまでになっていた。それは確かに急場凌ぎのための代役にしか過ぎなかったけれど、でも、それでも僕らは演奏したのだ。観衆の前で、ロックバンドとして。

 夢が地続きのまま現実に食い込んでいるような、そんな感覚だった。姉さんの音と僕の声が溶け合うとか、それどころの騒ぎではない。バー・セヴンにあったミニライブ用の大型アンプは、普段の姉さんの音を何倍にも増幅し、濃縮し、放出した。それが耳を介して僕の脳髄へと侵蝕して、声として吐き出された。まさにそんな感覚だった。

 こうして僕らの初ライブは終わった。本当に夢のようで、気づいたらすべてが終わっているような感覚だった。

 ただ、僕の耳には『イカロス』の最後の部分が残響となって鳴り続けていた。嵐のような爆音と、そのなかに見える一条の光。それが僕の耳を貫いたように。


     ♪

さっき出会ったばかりの人も

ずっと昔から知ってた友も

関係ない 今このときは

光みたいに ただ過ぎていく


キミが弾いて ボクが聞いて

キミが弾いて ボクが歌って

キミはそこに ボクのそばにいて

 You just play. And I'll sing for you.

 You just play. And I'll sing for you.

 You just play. And I'll sing for you.

 I'll sing for you...


     ♪


 ライブが終わってから、店は静かな雰囲気に戻った。

 それから僕らが楽器をバンに運び込んだところで、マスターに呼びかけられた。

「せっかくだし、一杯おごらせてくれないか」

 そんな彼の計らいで僕らはボックス席に座らせてもらい、飲み物を一つおごってもらうことになったのだ。もちろん、僕はノンアルコールのソフトドリンク。ジンジャーエールだった。

 ただ、保志さんはビールだった。町ではここでしか飲めない海外のものらしい。彼は実は一年浪人して大学に入っており、今年の五月に誕生日を迎えていたのだという。だから、保志さんだけはお酒だった。

 もちろん、姉さんと円さんは未成年だ。保志さんとマスターは「ちょっとぐらいは……」と言葉を濁していたが、円さんは、

「あたしには運転手という大役がある」

 と言って断り、姉さんは

「じゃあノンアルコールカクテルで!」

 と大声で答えた。

 僕はそのとき、姉さんはやっぱり姉さんなのだと改めて実感した気がした。もし姉さんが二十歳を過ぎて、お酒に手を出して酔い始めたようなら……僕は少し、距離感を覚えてしまうかもしれない。もちろんお正月に親戚のおじさんからビールをちょっともらうのは別だ。姉さんが自発的に、すすんでお酒を飲み始めたら……。そのとき、僕はどう感じるのだろう。

 琥珀色をした自家製のジンジャーエールと、スカイブルーの美しいノンアルコールカクテルが二つ。そして黄金色をしたビールが一つテーブルに運ばれてきた。

 僕らはそれで乾杯し、ライブの成功をその場で祝った。そのときの感覚は、まるで大人の世界に足を踏み入れたような背徳感があった。


 それからは、円さんの運転で家に戻った。途中で保志さんのアパートに寄って酔っぱらいを介抱し――たった一杯でベロベロだった――続いて僕らの家に着いた。

 ギターを背負った姉さんと夜十時過ぎに帰宅するというのは、何とも不思議な感覚だ。ジンジャーエールにはアルコールは入っていないのに、一歩踏み出すたびに視界が揺れ動くような気がした。疲れからか、それとも興奮からか。鼓動は高鳴り、視界は揺れ動いた。

 僕は姉さんより先に風呂に入り、それからすぐにベッドに入った。翌日学校はなかったけれど、疲れでヘトヘト。はやく布団に潜り込みたかった。

 しかし、いざベッドのなかに入ってみると、これがなかなか寝付けない。たしかに身体が疲れているのはわかる。全身に鉛を吊したみたいな重さがあって、関節は錆びた鉄のよう。まぶたには鉄アレイでも貼り付いているみたいで、どうやっても開けられそうにない。でも、眠れなかったのだ。

 目を閉じたまま、布団をかぶって、ベッドの上で静かにしていた。それが何時間続いていたかはわからない。たぶん一時間程度だろう。聴覚だけはやけに冴えていて、窓の向こうから聞こえる虫の音と、それから脳内で割れんばかりのロックミュージックが響いていた。僕らの曲、『イカロス』だ。

 しばらくして、一階から聞こえていたシャワーの音が途切れた。それから階段を上がる音が響いた。姉さんだ。

 姉さんは、僕の部屋の前で踏みとどまった。僕には、足音だけでそれがわかった。

 ――なにしてるんだろう、姉さん。

 ふとそう思ったとき、僕の部屋の扉がギィッと音を立てて開いた。僕は薄目を開けて何が起きているか見ようとした。でも重いまぶたはそれを許してくれず、辛うじて黒い影が見えただけだった。パジャマ姿の姉さんだ。

 姉さんはベッドサイドに立つと、何か言葉を漏らした。それはとても小さい声だったけれど、僕には確かに聞こえていた。

「がんばったね」

 たしかに姉さんはそう言った。

 そして姉さんは、僕の額を優しく撫でてから、自分の部屋に戻っていった。

 風呂上がりの姉さんの手は、いつもよりずっと暖かかった。

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