第31話 秀忠軍 上田城攻め
一方、宇都宮に陣を構えていた秀忠は8月24日陣をはらい小山から中山道を経由して美濃国へ向かう道筋を選択していた。家康が江戸城を出立した日に秀忠は軽井沢の地に達していた。そして、翌月2日に小諸に到着した秀忠軍は本陣を置いた。
最初の目標は上田城の真田父子を屈服させることであった。十倍以上の兵力差がある戦いなど、だれが望むことかと秀忠は考えていた。真田など無視して通過すればよいと考えればそれでよかった。しかし、行きがけの駄賃でちょっと矢合わせをすればよし、見過ごしては通過できなかった。真田がごときに徳川が何もせずに通過するのは許せない自負もあった。過去に真田との戦いで痛手を受けたことへの仕返しの思いもあった。昌幸もその心を読んでいた。必ずや秀忠は戦いを望んでくると信じていた。しかし徳川でも家康が来るのと秀忠が来るのとでは戦うすべが違った。戦う相手が秀忠であれば心理を読むすべは、昌幸のほうが数段も上であった。若年と経験が少ない分、血気にはやりやすいところをつつけば良いのだ。
8月5日付にて、三成より昌幸宛の書簡が発せられた。
「
一、
一、拙者儀、先づ尾州表へ、岐阜中納言殿と申し談じ、人数出し候、福島佐太只今
八月五日 三 成
眞田房州
同 豆州
同 左衛門佐
人々御中
三口へ之御人数備之覚
伊勢口
一 四万千五百人 安芸中納言殿 (毛利輝元)
右之内一万人 息 藤七殿 (秀就)付これ在り
右三万余は、輝元自身召連れ出馬
一 一万八千人 秀 家 (宇喜多)
一 八千人 筑前中納言殿 (小早川秀秋)
一 二千百人 土佐侍従 (長宗我部盛親)
一 千人 大津宰相 (京極高次)
一 三千九百人 立花左近 (宗茂)
一 千人 久留米侍従 (毛利秀包)
一 五百人 筑紫主水 (広門)
一 九千八百人 龍造寺 (高房及び鍋島勝茂の兵を含む)
一 千二百人 脇坂中書 (安治)
一 三百人 堀内安房守 (氏善)
一 四百人 羽柴下総守 (瀧川雄利)
城加番
一 四百人 山崎右京 (定勝)
一 三百七十人 蒔田権之助 (広定)
一 三百九十人 中居式部少輔 (直澄)
一 千人 長束大蔵大輔 (正家)
以上七万九千八百六十人
美濃口
一 六千七百人 石田治部少輔 (三成)
一 五千三百人 岐阜中納言一手 (秀信)
一 千四百人 羽柴右京 (稲葉貞通)
稲葉彦六 (典通)
一 五千人 羽柴兵庫頭 (島津義弘)
一 二千九百人 小西摂津守 (行長)
一 四千人 同与力衆四人
一 四百人 稲葉甲斐守 (通重)
以上弍万五千七百人
北関口
一 千二百人 大谷刑部少輔 (吉継)
一 三千人 若狭少将 (木下勝俊)
同宮内少輔 (木下利房)
一 五千人 丹羽七頭衆 (小野木公郷等)
一 二千五百人 但馬二頭衆 (小出、斎村)
一 七百人 木下山城守 (頼継)
一 八百人 播磨姫路衆 (木下家定)
一 二千人 越前東郷衆 (長谷川守知)
一 五百人 戸田武蔵守 (重政)
一 五百人 福原右馬允 (長堯)
一 三百人 溝口彦三郎
一 五百人 寺西下野守 (清行)
一 三百人 上田主水 (重安)
一 五百人 奥山雅楽頭 (正之)
一 二千五百人 小川土佐守 (祐忠)
同左馬之允
一 一千人 生駒雅楽 (親世)
但主煩故家老名代人数召連れ候
一 二千人 蜂須賀阿波守 (家政)主煩故家老名代
一 六千人 青山紀伊守 (一矩)
一 八百人 青木修理 (宗勝)
以上三万百人
勢多橋東番衆
一 千廿人 太田飛騨守 (一吉)
同美作守 (一成)
一 四百五人 垣見和泉守 (一直)
一 四百五人 熊谷内蔵丞 (直盛)
一 六百人 秋月長門守 (種長)
一 八百人 相良左兵衛佐 (頼房)
一 八百人 高橋右近 (元種)
一 五百人 伊藤豊後 (伊東祐兵)
一 三百六十人 竹中伊豆守 (隆重)
一 千五百人 中川修理 (秀成)
一 五百廿人 木村弥市右衛門 (秀望)
以上 六千九百十人
大阪御留守居 千五百人
御小姓衆 八千三百人御馬廻
御弓鉄砲衆 五千九百人
備前備後 六千七百人
輝元衆 一万人
徳善院(玄以) 千人
増田右衛門尉(長盛)三千人
此外七千人伊賀在番
以上四万弐千四百人
都合拾八万四千九百七拾人也
この西軍に味方した人数書をみると、相当の人数が集まったように見える。さぞ、昌幸は頼もしく思ったであろう。同じものが、多分直江の元にも送られたと推測できるが、残っていないので、渡らなかったかもしれない。この中には、東軍に行った者も含まれ、人数も過大に記されている者もいる。しかし、これを見たなら、東軍に勝てると思うのは無理のないところだ。
三成は翌6日にも昌幸に書簡を送っている。内容はこうだ。
「貴殿に信濃一国を与えるからよろしくその措置をなし、国中に服せざる者いたなら成敗せよ。中でも森忠政は格別に遺恨ある者で、幼少の秀頼公を言い掠めて新地を取ったからである。家康は景勝、義宣を敵にしたまま僅かに3、4万の人数で分国15城を抱え、20日も西に攻め上がることできようか。東海道筋の諸将がいかに家康についていても、20年来の太閤殿下の恩を、ここ一年の家康の懇切にて、秀頼公をなおざりにし、大阪にある妻子を見殺しにできるのか。その分別もなく上方へ来るとしても、尾張三河間にて討ち取ってしまうでしょう。誠に天の与えたるものです。貴殿は、関東へ袴を着けて乱入すればよろしいかと。こちらは仕置のために尾張まで出て、秀信と評定するつもりですから、気遣いなさいますな。尾張へは吉川と恵瓊が1万ほどの兵を連れ、正家と出発しまし云々」と三成の戦略を語っている。
上田城を守るのは、真田昌幸と幸村の兵はおよそ三千ばかりしかなく、農村から臨時に入った農兵はおよそ千人ぐらいではなかろうか。かたや、徳川秀忠の軍勢は精鋭三万八千にも及ぶ大部隊である。十分の一の兵力差では、まともに戦って勝てるはずもなかった。たとえ百戦錬磨の昌幸といえども、策を労せずして勝てるはずもない。昌幸は過去の戦いで、信州の小国家をいかに存続させていくか、あらゆる手段を行使して生き延びてきた。そして、大勝はしないが、負けない戦いをしてきた。今度も、どう戦うか、考え抜いた。ようは、秀忠軍を上方への到着を遅らせればいいのだ。そうすれば、家康本隊と三成との戦いで、三成の勝利の公算が大きくなるのだ。三成方が勝利すれば、秀忠軍は自ずと撤退していくしかないのだ。それまで、この城を守るのみであった。
再び三つ葉葵の旗と六文銭の旗が近づきつつあった。
秀忠は陣中に真田信之を伺候させた。
「正信、このまま上田に何も手をかけずに通りすぎることは徳川家の名誉を傷つけることになる。だが、無駄な日を費やすわけにもまいらぬ。ここはいかがいたそう」
「まずはこの信之に安房守の説得を試みさせ恭順させたうえ、西に向かわれたらいかがかと存しますが」
「安房守がそうやすやすと恭順に応じるだろうか?なかなかの食わせ者と聞く」
「殿、安房守もこの大軍を目前にしては戦う気も失せるものと思われまする。信之殿を使者におくれば迷うことなく開城いたすでしょう」
と牧野康成が言った。
「はっ、必ずこのお役目見事果たしまする」
信之は言葉にしたものの父昌幸が簡単に開城するとは思えなかった。
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