第24話 小山での軍議

 家康は7月22日岩槻にて、京極高次が大津から発した書状を受け取っていた。家康は高次の人質山田良利に密旨を授けて、大津に返した。


 家康に従っていた豊臣恩顧の武将の元へは、大阪より家康の弾劾状が届き始めていた。


 武将たちはほとんどはそれを見て、直ちに家康に対して上方謀反を報じているが、中には密書自体を開封せず、そのまま家康に呈す武将もいた。23日には大方、三成、大谷が共謀して兵を挙げたことは東軍の間では明らかになっていた。


 家康は23日付けにて、山形の最上義光にあてて、会津への出陣を止めて、後命を待つよう書状を届けている。


急度きっと申し入れ候、治部少輔、刑部少輔才覚を以て、方々ほうぼう触状を廻すに付て、雑説を申し候條、御働きの儀、先途せんど御無用にせしめ候、此方より重ねて様子申し入れべく候、大阪の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方と一行に付き、三奉行の書状披見の為これを進め候、恐惶謹言。

  七月廿三日

                            家 康

   出 羽 侍 従殿 


 7月24日、家康は下野小山の本陣に到着した。家康の心はもうすでに上杉討伐から石田三成討伐へと移っていた。諸将へは、石田三成と大谷吉継とが逆心をはかり決起したので直ちに成敗に赴くべしと、秀頼公とは全く関係がないことを表明し、あくまで二人の謀反人を成敗することを宣伝した。


 小山には諸大名が集まっていた。家康にとってそれは頼もしく見え、また、これからの新たな戦いの決起を告げる時となった。


「皆、よう集まってくれ申した。会津征伐に江戸から出立した中、先刻三成が挙兵したことを聞き及んだ。このことは捨て置けぬ所業である。直ちに、会津征伐を取りやめ、西に向かい、三成を成敗いたす所存。ただ、三成は毛利輝元を総帥にまつりあげ、秀頼公を後ろ盾にしておる。諸将の妻子は人質として大坂城にとらえられておるゆえ、去就は自由である」

 家康は身の振り方は各武将にゆだねた。諸将のうち真っ先に先陣をきって言葉を発したのは福島正則であった。

「秀頼公のためにならぬ奸臣三成を討ち果たすためならば、家康殿とともに戦いたい。秀頼公は騙されておるだけなのじゃ。これは、豊臣との戦いではない。三成とわれわれの戦いだ」

 と力強く言いまわした。その言葉とともに、あちこちの武将から、「そうだ」「三成討つべし」の言葉が飛び交った。家康は心の中でほくそ笑むでいたが、眼光はうるみ諸将の言葉に勇気づけられた如く次の言葉を発した。


「皆よう言うてくれた。今こそ三成を討ち果たすべく西上すべし」

「おう!」

「先鋒はさあ、福島正成殿がよろしかろう、是非頼み申そう」

「やあありがたき幸せにござる。先鋒を賜ったからには、一番槍をもって、三成が御首必ず頂戴いたす」

 とは、後世の美化する出来事であったかもしれない。

 諸将の一部は25日以前には陣払いをして、西に向かっていたのだ。

 白峰殉氏は、論著の中で疑問を呈している。

「家康や東下した諸将が発給した書状には、小山評定に関する言及が全くないことや、家康が諸将に対して7月25日に小山へ招集することを命じた書状が本来ならば数多く残っていてもよさそうなものであるが、家康が7月25日に小山へ来るように命じた諸将宛の書状は一通も残っていないのである。つまり、一次史料では、小山評定は、その存在が確認できず、はなはだ疑わしい“非歴史的事実”になってしまうのである」

(別府大学大学院研究紀要No.14「フィクションとしての小山評定:家康神話創出の一事例」より)


 家康は諸将の動向の様子を静観していたのかもしれない。謀反が起こりうることは、江戸出立したおり、早くも増田長盛から注進が入っており、続々と届けられる報告は、確信へとなっただけである。その数日には、諸将へも自分の弾劾状が届いているはず。自分に忠義を尽くすかどうかが、問題なのだ。会津攻めの段取りは江戸で済んでいる。小山での軍議はあえて必要ない。上方への進軍に対しての軍議など、あえていらぬ。重臣に任せて置けば良いのだ。そして、重臣の井伊直政、本多忠勝はただ上方石田、大谷二人の逆徒を告げ、直ちに西上すると告げたれば、こと足りるのだった。


 その一端は細川忠興が分国豊後国杵築の城代松井康之に宛てた書状からもわかる。


急度申し候、石田治部輝元申し談じ、色立て候由、上方より内府へ追々御注進候、如此くこれあるべしとかねて申したる事に候、其の外残衆悉く一味同心の由に付き、定めて内府早速御上洛これあるべく候、然れば即時に御勝手たるべく候、この状参著次第、松井と一正、番子迄残らず召連れ、丹後へこさるべく候、自然の時は松倉をもすて、女子をつれ、宮津へ越され然るべきように、すまさるべく候、頼み入れ候、四郎右其の他の者共の儀は、其の国のていを見合わせ、なるべく木付(杵築)に君候て、其の上は如水居城にうつるべく候、如水と兼ねて申し合わせおき候、この状は丹後より姫路辺へ遣し、舟にて届け候へと申し付け候

内府は江戸を、今日廿一日御立ち候、我らは昨日うつ宮まで越しこれある事に候、さだめてひっくり返し、上方へ御はたらきたるべきと存じ候、謹言。

  七月廿一日

                            忠興

  松 井殿  

  四 郎殿

  市 正殿 

 

忠興は、宇都宮に来着していたが、上方へとって返して、家康のために手柄を立てることを言っているのだ。


 諸将は、急ぎ西上を開始した。向かうのは、清洲城であった。

結局、会津征伐組で三成の陣営に走ったのは、真田昌幸と美濃岩村城主田丸忠昌の二人だけであった。


 東海道筋の諸大名は、山内一豊が小山での軍議の席上において、わが掛川の城と兵糧を家康に進上せんとしたことに端を発し、我も我もと、持ち城を家康に差し出す形となり、家康としては願ってもない結果となった。家康は、小山の陣を払うと江戸城に戻っていき、次への布石を考えていた。

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