第16話 三成決起

 佐和山に急ぎ帰り着いた使者は、三成に正家からの書状を渡した。

「殿、家康が無事に伊賀道を抜け、今頃は三河につく頃かと思われます」

「やはり捕まらなんだか。いずれ会津は攻められよう。兼続殿にその旨知らせを届けよ。また、時機を伺い、西にも狼煙を上げると。その時こそ徳川を封じこめる時」

「御意」


 霧隠は仲間から家康の足跡を追うことに成功した。そして、関宿につく手前の山間部で襲撃する手筈も整った。

 が、又しても服部半蔵に見破られてしまった。


 陽が大きく傾く夕暮れは森林地帯だけに薄暗く、闇に潜む忍びの者を見つけられる手段は常人にはない。だが、相手は熟練の忍び衆であれば、見破る方法は簡単だ。かすかな虫の声の変化に敏感であるのもそうだ。

 漆黒の夜になる前に安全な宿場に入るのが筋であった。日没まで一刻もない。行足は当然早くなり、油断も生じる。そこが狙い目だった。敵は夜襲撃されるのが怖いはず。しかし、こちらも、家康の顔が確認できなければ、討ち漏らすのだ。徳川軍は三千人もいるのだ。

 霧隠は、耳をすませて家康一行が通るのを待っていた。あと、半刻もしないうちに、通るはずであった。

 だが、霧隠はかすかな物音を耳にした。伏せて襲撃を待ち構える甲賀衆は十人ほどいた。皆、優秀な者ばかりで、物音一つさせず、付近に潜んでいる。自分もその所在がわからないほどだ。


 風が空を切る音がした。それは手裏剣が飛ぶ音だった。

「!」

 霧隠は、自分に飛んできた手裏剣を枯れ木で受けていた。だが、数人がやられたようだ。「半蔵か!邪魔立てするな」

 霧隠は、その存在を認めた方向に手裏剣を投げたが、手応えはなかった。素早く移動していたのだ。

(わしの手裏剣を避けるとは、やはり半蔵)

「われら守るのが役目」

 半蔵とおもしき声だった。低く響いた声だった。

 こうなっては、家康襲撃は諦めざるを得なかった。


「ピー」と口笛を吹いた。退却の合図であった。何事もなかったように静寂が訪れた。

 半蔵はあえてこのことを家康には知らせずにいた。家康は時には臆病でもあるのだ。

半蔵は霧隠を追わなかった。家康を守ることは達成したからだ。付近を調べると、仲間が一人やられていた。甲賀者と思われる死骸も2つあった。


 家康は19日関地蔵、20日四日市に入り、そこで船に乗り換え、佐久島にて田中兵部少輔の饗膳と受け、21日篠島に寄り、三河の吉田城主池田輝政の饗膳を受け、白須賀にて上陸して、翌23日、懐かしの浜松城に入り、堀尾吉晴の饗応をうけた。24日に島田に入り山内一豊の饗膳を受け、25日駿河に泊まった。26日三島に泊まり、27日に箱根を越え、小田原で泊まり、28日藤沢泊まり、29日には鎌倉鶴岡八幡宮に参詣し、戦勝を祈願した。月があけ1日、金沢につき、江戸はもうそこだった。2日には品川まで、子秀忠が迎えに出て、親子揃って江戸城に入城した。


 いよいよ、会津征伐が始まる時が迫っていた。


 大阪より家康に従い江戸に入ったものは、井伊直政(上野高崎)、本多忠勝(上野大多喜)、長子忠政、二子忠朝、榊原康政(上野館林)、大久保忠常(相模小田原)、大久保忠佐ただすけ(上総茂原)、平岩親吉(上野厩橋)、酒井家次(下総臼井)、酒井忠世(武蔵川越)、大須賀忠政(上総久留里)、奥平信昌(上野小幡)、その子家昌、本多康重(上野白井)、石川康通(上総鳴渡)、小笠原秀政(下総古河)、高力忠房こうりきただふさ(武蔵岩槻)、菅沼忠政(忠利(上野吉井)の養嗣子)、内藤信成(伊豆韮山)、松平家乗いえのり(上野那波)、松平家清(武蔵八幡山)、本多正純まさずみ(相模玉縄、正信長子)、阿部正次(武蔵鳩ヶ谷、阿部正勝長子)、弟正吉、青山忠成(江戸町奉行)、子忠俊、本多康俊(下総小笹)、天野康景(江戸町奉行)、戸田一西かずあき(武蔵鯨井)、その子氏鉄うじかね らおよそ三千人ほどあった。

(カッコ内は所領)

 また、諸国より集まってきた諸大名、武将の顔ぶれは、浅野幸長よしなが(甲斐府中)、福島政則(尾張清洲)、弟正頼(伊勢長島)、子正之、黒田長政(豊前中津)、蜂須賀豊雄とよお(阿波徳島、家政の長子)、池田輝政(三河吉田)、弟長吉、細川忠興ただおき(丹後宮津)、子忠隆ただたか、子忠利ただとし生駒一正いこまかずまさ(讃岐高松、親正の子)、中村一忠かずただ(駿河府中、一氏の子)、一栄かずひで(一氏の弟)、堀尾忠氏(遠江浜松)、加藤嘉明(伊予松前)、田中吉政(三河岡崎)、子長顕ながあき、京極高知たかとも(信濃飯田)、筒井定次(伊賀上野)、藤堂高虎(伊予板島)、養子高吉、寺澤広高(肥前唐津)、石川康長(信濃松本)、山内一豊(遠江掛川)、小出秀家(和泉岸和田小出秀政の次男)、富田信高(伊勢安濃津)、真田昌幸(信濃上田)、長子信幸(上野沼田)、次子幸村、一柳直盛(尾張黒田)、金森長近(飛騨高山)、子可重よししげ、古田重勝(伊勢松坂)、弟重治、九鬼守隆(志摩鳥羽)、徳永寿昌としまさ(美濃高松)、子昌重、稲葉道通いなばみちとお(伊勢岩手)、本多正武、有馬則頼のりより(播磨三木)、子豊氏とようじ(遠江横須賀)、桑山元晴(紀伊和歌山桑山重晴の次子)、一橋長勝(美濃岩尾)、織田有楽、子長孝、津田信成(山城三牧)、子正秀、分部光嘉わけべみつよし(伊勢上野)、亀井茲矩かめいこれのり(因幡鹿野)、西尾光政(美濃曽根)、北条氏勝(下総岩富)、北条氏盛(河内狭山)、保科正光(下総多古)、水野勝成(三河刈谷)、天野景俊、河村助右衛門、山城秀宗、佐藤堅忠、佐久間政実、石河貞政、赤井忠泰、岡田助佐衛門、中村忠勝、大島光義、三好為三ためかず、三好慶清よしきよ、長谷川重成、兼松正吉、船越景直、池田知政、子弥右衛門、平野長元、佐々行政、佐々長成、落合新八、堀田重氏、森宗兵衛、中村又蔵、野勢宗左衛門、清水小八郎、柘植正俊、佐久間安政、弟勝之、鈴木重愛しげちか、溝口源太郎、堀田権八、間野久右衛門、戸川達安さとやす(宇喜多秀家家臣)、宇喜多正親(宇喜多秀家家臣)、伊丹意頓いとん、村越兵庫頭、別所治直、松倉重政、神保相茂じんぽすけもち、秋山光匡みつただ、野尻彦太郎、仙石少弐しょうに、水野清忠、山田修理亮、岡田善同ぜんどう、荒尾平左衛門、山名膳高、山岡景友、施薬院宗伯ら 総兵数5万8千8百人に及んでいた。顔ぶれの中には故秀吉の直参もいた。このことから、当然、豊臣家に対するものではなく、あくまで上杉討伐の旗揚げで東征してきたのである。



 家康が江戸城に入った7月2日、石田三成の居城佐和山に大谷吉継が訪ねている。大谷は三成の居城を通り過ぎ、垂井宿で休みをとっていた。三成は旧友に是非とも相談したいことがあった、吉継が江戸に行く前に会って話したいことがあった。


「吉継を至急呼んで参れ」

「はっ」

 三成からの使者は急いで大谷の宿所に飛び込んできたのである。

 吉継は長年の盟友でもある三成からの呼び出しに、お側衆のみ連れて、垂井から佐和山城に向かった。


「治部殿、一瞥以来でござる」

「刑部殿、息災であったか」

「おう元気ぞ、だが、少し足の自由がきかぬがのう。ところで、此度のお召しはなに用ぞ。某は、内府の上杉討伐の軍令で、東下しておるところでござるが」

「まさしくその事が発端でござる」


三成の眼光の鋭さが増した。口調も少し激しい強さがあった。


「此度の家康公の会津征伐はまさに徳川の天下をほしいままにする挙動である。何故五大老の一人上杉景勝殿が豊臣家に弓引くものでござろう。会津へ転封となり、領地の普請を行なうは、主の務めにござる。豊臣に忠節を尽くすものならば、徳川の意のままに動くのは非なるものでござる。このまま捨ておけば豊臣家の意向は全くなく、向後家康の天下を認めるものでござる。もうここでじっとしてはおれぬ。今兵を挙げ豊臣家のために家康と刃を交えようと思い立った。是非に盟友刑部殿にも豊臣家のために三成に力を貸してもらいたい」


 吉継は神妙に三成の一言一句を聞いていたが、話が進むにつれその内容に顔面蒼白になっていく自分を感じていた。今即断を求められても頭の中は混乱していた。


「治部殿のご存念とくとわかり申した。しかし、今は時期早々と存じます。今旗を揚げればそれこそ家康の思う壺。某は反対仕る。というのも、このまま兵を挙げても、内府と治部殿との争いと写るは必定、豊臣恩顧の武将たりといえど、治部殿の味方につくはおそらく皆無。家康の味方につくは是でござる」

「いや、今こそ旗を揚げるべきときである。このことは会津中納言殿もご納得しておる」

「はや、会津殿と話はついておるのか。そういうことでござったか。しかし、治部殿、軽挙なお振る舞いは慎まれるが肝心かと」

「直江殿に密会した際、万一内府が、前田殿のように無理難題を会津に申してきたおりは、わが上杉は徳川に屈せず、其の際はお互いに旗揚げし、東西より挟撃すれば、勝ち目は十分にござる。ただし、異心を抱くものおらねばのこと、これだけは気をつけて采配すべしとまで話しておる」

「だが、治部殿、まだそこもとに賛同する者などないではないか。どうじる者を集めた上え旗揚げするのが本筋でござろう」

「まず手始めは、治部殿に本意を伝えてからと」

「ええぃ!知らぬことじゃ。今日の話し聞かなかったことにいたそう」


 吉継はその言葉を少し強い口調で言うと、城を出て、宿営先の垂井に向かっていた。三成は吉継を味方の陣営に加えれなったことを悔やんだがいたしかなかった。盟友の一人をはずして陣容を考えなくてはならなかった。三成は、安国寺恵瓊と増田長盛らを佐和山に呼びよせていた。


 増田長盛は、五奉行の一人であり、近江浅井郡増田の出身で、秀吉が長浜にいたころ仕えた。秀吉政権以降、奉行として政務を担当したが、家康の行為に反対し、三成に味方する。安国寺恵瓊は、もともと毛利家の外交僧であり、毛利と秀吉の講和を進めるうちに、秀吉に傾倒し、家臣となる。家康の上杉討伐のため、東下するが、三成の挙兵の密書を受け取り佐和山城へと矛先を変えた。だが、長盛の心は家康に通じていた。三成の蜂起は、長盛から家康に真っ先に届けられたのだ。

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