第5話 家康の懐柔策

 慶長3年の師走から早くも家康が怪しい動きを見せ始めていた。つい数ヶ月前に起請文による誓詞を交わしていたにも拘らず、行動を開始した。


 まずは、島津義久に接近していた。家康は薩摩眼科医流干りゅうかんを紹介者として義久に会った。11月20日義久は家康の邸宅を訪問した。12月6日今度は家康が先の答礼として島津邸を訪れた。また、11月25日に増田長盛邸に赴き、26日には長宗我部盛親に会い、


12月3日には新荘直頼に、9日には長岡幽斎、17日は有馬則頼邸に赴いていた。


 三成の密偵は、家康の行動を報告していた。三成は、秀吉が亡くなった以後、家康の監視を厳重に命じていたのである。


(このまま捨てておくわけにはいかぬ)


 三成は、島津家に対し、何故家康と懇意にするのかと、義弘、忠恒を介して、その詰問した。義久は往来を認めた上で、それは家康から種子島の鉄砲を所望されたまでのことで、なんら別心あるわけではない。そのような話は聞きもしないし、言うことはないと潔白を称した。


「内府様へ参り候事、11月10日使者流干と申す仁承り候、度々斟酌たびたびしんしゃく申し候へども、強いて仰せられ候間、柏原殿へ尋ね申し参り候、別条候儀差し支え申さず、亦承らず候事、(中略)種子島鉄砲御所望候事、亦ここ許にて鉄砲御つたへ候事、此の儀に付き度々御使い給わり候事、血判を以て誓詞上置の条、今に少も別心これなく候、この旨是非御糺明大望に存じ候事

    慶長4年正月3日

                               龍伯判

      又八郎殿

      兵庫頭殿  

                        

 との覚書きを交付した。


 家康にとっては、島津家との挨拶をして懇意を得るという行為であるから、その理由は義久が適当に考えてくれればよかっただけのことである。


 家康はまた、各大名との婚姻にも手を伸ばしていた。


 伊達政宗の娘を、家康の第6子忠輝にめとり、姪松平康成の女を養女として福島政則の子正之に嫁がせ、小笠原秀政の女を養女として、蜂須賀家政の子至鎮のりしげに配すと約束していた。


 三成は、大老の一人である毛利輝元と親密度を増していた。輝元は三成を茶会に招待していた。


「治部殿、先ごろの徳川殿の所業、いかが思われる」

「毛利殿も感じられるか。故太閤殿下が逝去されてからというもの、不穏な動きを聞いております。誓書に記した約束ことを違い、諸大名に近づき、ややもすれば姻戚関係を結ぼうとしております」

「一度、五奉行の名目で糾弾する必要があろう」

「御意」

「家康公の腹には天下の二文字があろう。ここはなんとしても企みを阻止し、秀頼殿を二人で元服されるまで盛り立てねば、故太閤殿の恩義に報われん」

「家康公の専横は、何としても止めなければなりませぬ」

「治部殿、何かあれば必ず力を貸そう」

「はっ」

 

 また、三成は前田利家、宇喜多秀家らの大老や奉行衆にも働きかけて、家康に対する詰問状をつきつけた。


 慶長4年正月19日、生駒一正と僧承兌しょうたいが家康の屋敷を訪れ詰問に及んだ。


「太閤殿下が諸大名同士が勝手に婚姻を結んではならぬという命令を下していたにもかかわらず、御法度を承知の上で、なんら我らにご相談なく、御一人にて仰せつけられること甚だ理由なきことと存ずる。六男忠輝と伊達政宗の娘を婚約させたのは言語道断である」


だが、家康は、平然として言い放った。


「縁組についてはすでに媒酌人から届けがあったものと思っており、それは迂闊であった。御法度のこと老境に至ればとかく物事を忘れてしまう」と逃げるばかりか、

「さては、今そのようなことを持ち出されるのは、某を五大老の座から引きずりおろそうとする陰謀ではないか」

と反論したのである。


「内府殿、そのように申されても。こちらとしては、太閤殿下の遺言から外れているのではと懸念がござる。その存念を聞きに参ったまでのこと。ただ迂闊であったと思われるのであれば、今後は気をつけていただきたい」

「あいわかった。これよりはきちんと大老と奉行らに言上いたそう」


 三成は生駒一正から、成り行きを聞いていた。


「治部少輔殿、お役に立てず誠に申し訳ない。内府は全く悪いとは思っておらぬ。太閤殿下に対する誓詞のことをお忘れか、と尋ねても、そうであったかのうと誤魔化しているばかりにて、埒があきませんでした」

「もう、よい」

(古狸め、よくも淡々と言えるものだ)


 三成は搦め手から攻めてみるかと思った。


 埒が明かぬ三成らは、今度は伊達、徳川の結婚の仲介者たる今井宗薫を呼び出して、問い正したが、


「吾は町人の身ゆえ、武家の法度など全く知らぬこと、存ぜぬことでございます」

と言ったので、今度は伊達正宗に問い正した。


「この縁組は宗勲の才覚にて取り持ってもらったもの、予は関知せざること」

まったく程よく、あしらわれたのである。


 また、政則に対し、詰め寄ると


「内府公との縁組は、御意のままであり、これからも秀頼公の御為にもよかろうと思って婚姻を結んだのでござる。応じて何か不都合なことでもあろうか。わが政則は秀頼公とは親戚の間柄、内府と親しくなるは、秀頼公の御為となし、むしろこちらより縁談の話を持ちかけたまでのことでござる」

 

 と返答したのだった。


 三成は、馬鹿にされた返答ばかりで、苦虫をかみしめるように思慮していた。

(このままでなるものか、太閤殿下、必ずや秀頼公をお守りいたします)


 この時、秀頼は前田利家らとともに大坂城に移り、家康派だけが伏見に残っていた。このまま情勢を放っておけば、家康と反家康との衝突が起こりうることは明白となっていた。利家もこのままでは捨て置けぬと腰をあげようとしていた。生駒、中村、堀尾の三中老は家康と大老、奉行の間を走り回ってなんとか調停に持ち込もうとした。そして、双方が誓詞をとり交わすことで、なんとか衝突する回避が防止できたのである。さすがに家康も孤立無援になっては自分の政権奪取に不利と考えたのか、一旦は和睦する形で誓書を差し出して、平穏をとりつくろうとした。ただ、それは紙切れでのことで形式に過ぎなかった。

 一時的にせよ、触発の危機は回避された。

 

     敬白霊社上巻起請文前書之事

一、今度縁辺の儀に付いて御理おことわり申し入れ候処、早速御同心畏れ入り候、然れば向後御遺憾御座なきの旨、各忝なく候の条、前廉に相かわらず、入魂仕るべき事

一、太閤様御置目、十人連判誓詞の筋目、いよいよ相違あるべからず、若し失念も候て、誰々身上に於ても、相違これあらば、十人の内、聞きつけ次第、一人二人にても、互いに異見申すべく候、其の上同心これなきに於ては、残り衆中一同に異見申すべき事

一、この度双方の入魂の通り、申す仁これありとて、其の者に対し、遺恨をふくみ、存分これあるべからず候、但し御法度御置目を背き申すに於ては、十人として穿鑿せんさくを遂げ、罪科に処せらるべき事

右の条々若し相背くに於ては、忝くも此の霊社上巻起請文御罰、各深厚に罷り蒙るべき者なり、仍て前書き件の如し

    慶長4己亥年2月5日

                        長束大蔵大輔入道

                        石田治部少輔入道

                        増田右衛門尉入道

                        浅野弾正少弼入道

                        徳  善  院

                        輝      元

                        景      勝

                        秀      家

                        利      家

   内大臣殿 


これに対し、家康からの誓詞は次の通り交わされた。


      敬白霊社上巻起請文前書の事

一、この度縁辺の儀に付いて御理の通り、承り届け候、然る上は向後遺恨に存ぜず候間、前編相替らず、諸事入魂せしむべき事

一、太閤様御置目、十人連判誓詞の筋目、いよいよ相違あるべからず候、若し失念も候て、誰々身上に於ても、相違これあらば、十人の内、聞きつけ次第に、一人二人にても、互に異見申すべく候、其の上同心之なきに於ては、残り衆中一同に、異見申すべく候事、

一、この度双方入魂の通り、申す仁これありとて、其の者に対し、遺恨をふくみ、存分これあるべからず候、但し御法度御置目に背き申すに於ては、十人として穿鑿を遂げ、罪科に処せらるべき事

右条々若し相背くに於ては、忝くも此の霊社上巻起請文御罰、深厚に罷り蒙るべき者なり、仍て前書き件の如し    

     慶長4己亥年2月5日

                         家     康

   加賀大納言殿

   備前中納言殿

   会津中納言殿

   安芸中納言殿

   徳善院入道殿

   浅野弾正少弼殿

   増田右衛門尉殿

   石田治部少輔殿

   長束大蔵大輔殿


 しかし、起請文というのは、戦国時代の騒乱の時代には数えられないほどの起請文を各大名間でとりかわされている代物だ。それぞれの不戦の誓いや、お互いの争いを中断するものとし利用されたが、破るに等しい請文であったことはわかる。ただ、一旦行動を止めるものとして存在したとも言っていい。一旦は約束すると言って置きながら、少しでも都合の悪いことが起これば、破談する。安心できない、安心のための請文であった。罰するのは、神仏であり、死があるのみであった。

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