第6話 顔に難あり奇襲に手なし


 山に生い茂る草木の間を走る道を、荒也達四人は黙々と歩き進めていく。

 太陽は高く、気温も上がっていたが、広葉樹の葉が大きな影を辺りに落としている上、高所ゆえの冷たい風が通り抜けていくので四人の足取りは軽い。

 頭上の見通しも底抜けに良い。

 土肌がむき出しの斜面を一列になって進むうち、先頭に立っていたアーシーが右前方に見えてきたものを指差して荒也に示した。

「あれがヒジャとナバンの国境です」

 荒也がアーシーの指差す方向を追って目を凝らす。

 道の片隅、背の低い雑草の生い茂る中にこぶし一つ分高い石の柱がそこにあった。

 荒也達に向いた面には、ヒジャと彫られている。

「ああ、これ見た事あるな。国境石って奴か」

「そうです。ほら、あちらにも」

 アーシーが左前方を指すと、荒也はそちらにも目を向けた。

 山の斜面の凹凸によってできた茂みの影の中に、ひっそりと先ほどと同じ石が隠れるようにある。

「つまり国境石同士の間を超えれば、俺達はナバンに入れるんだな」

「ええ。ナバンではジルトールの手の者が多いでしょうから、ここから先は私達が大手を振って歩ける場所でありません。代理様は、くれぐれもフードを脱がないよう注意してくださいね」

 あいよ、と荒也は返事をして、フードを目深に被り直した。

 それでようやく、真下から覗かなければ顔が見えない程度には顔が隠れる。

 それから少し経った頃、ククリマが荒也を追い抜き、アーシーの隣に並んで尋ねた。

「ねぇねぇアーシーさん、お腹空かない?そろそろお昼だよ」

「そうは言うけどククリマちゃん、国境だよ?どこの国でも、国境っていうのは偉い人や地元の人にじっと睨まれている場所なの。だからさっさと通り抜けて、町や村に降りましょう」

 アーシーは諭すように言うと、辺りを警戒するように周りを見回し始めた。

 その様子に、荒也は怪訝な顔をして周囲に目を向ける。

「睨まれる、っていっても、誰もいなさそうだがなぁ……」

「あんた、もう忘れたの?ジルトールのスパイが身を隠して私等を監視してたでしょ」

 最後尾にいたエリザに言われて、荒也は思い出す。

「ああ、あのアホ……、あれ、名前なんだったっけ?」

「忍び足のロウフェムよ。同じ先人か、あるいは別の技を持つ誰かの顔をしたスパイがジルトールにまだいるかもしれないでしょ」

「お、おお、そうだな。でも俺が知りたいのはそっちじゃなくて……」

「ああ、本人の名前?いいでしょ別に。また会う事があれば聞いたら?」

 エリザは自分の興味のない話を一方的に切ると、肩にかけていた短弓を手に取った。

「え、また誰かいたのか?」

「分からない。一応用心してるってだけ」

 そう言って、エリザもアーシーと同様に周りを見回し始めた。

 荒也が前に意識を戻すと、すでに国境石の間を通り過ぎ、上り坂となっている山道の頂点を登りきろうとしているのに気付いた。

 それまで山に隠れて見えていなかった、向こう側の様子が眼前に広がる。

 山に囲まれた広大な平地の麓には、水田に似た緑の絨毯が広がっていた。

 陽光を受けて、草葉の間に見える水面が控えめに光を放っている。

 水田の間を縫うように川や道が幾筋も走っており、木造の民家も見受けられる。

 いかにも山村といった趣の光景は荒也にとっては懐かしさすら感じられる景色であり、思わず感嘆の声が漏れた。

「おお……」

「ここからが、ナバンです」

「え、ジャパン?」

「ナバンです。どこですかそこは……」

 アーシーにあきれられ、荒也はあいまいに笑う。

「そっか。そりゃそうだよな……」

「……?さあ、降りますよ」

 アーシーの先導で、一行は歩みを進め、斜面を下る道へと差し掛かっていった。


 山道を下っていく四人の姿を、茂みの中からじっと見ている者がいた。

 地に倒れるようにして息を殺し、双眼鏡のレンズ越しに四人を睨む。

「あいつ等、ついにヒジャを出たか。まぁいい、俺もかえってやりやすくなってきた。ナバンでなら増援も期待できるからな」

 そうマックジョイが胸中で一人ごちた時、彼の腰の上に載せられていたものが鳥の声に似た奇妙な音を立てた。

 その音に気付いた彼は、慌ててそれに手を伸ばし、つかんだ部分を取り外して耳に当てる。

「ハッ、こちら偵察員第117号、どうぞ」

 定例的な応答を返した後、耳に当てたものから彼の知る声が上がった。

 本国にいる、通信員のものだ。

「こちら本陣。報告は受けた。監視対象第4号を脅威と確認。実験隊の出動が決定された」

 形式に則った発言の内容を理解した瞬間、マックジョイの顔色が変わった。

「じ、実験隊!?何名?」

「一人だ。実験隊第7号、コードネーム『ドルイド』。騎士団の一時預かりとして扱う。偵察員は全員監視を徹底、しかる後報告せよ。これは国王からの命令である」

 そこまでで、耳から上がる声はぷつんという音を最後に途絶えた。

 間の抜けた規則的な音が代わりに上がり続けるが、その音はマックジョイの意識の外にあった。

「……実験隊が、出てくる、だと?」

 そう一人ごち、彼は耳に当てていた受話器を腰の上に置いていた鞄型の携帯電話の本体に戻した。

「四人目からの国外実践投入、か。……見られるのを幸運だというべきなのかな、俺は」

 マックジョイは四人の姿を目で追いながら、ぽつりと呟く。

「……実験隊、か。得体のしれない連中だが、気の毒な奴等とも言える。俺だったら、絶対になりたくはないな」

 そう一人ごちると、彼は再び双眼鏡で荒也達を視界に収めた。


 荒也達四人が水田の隙間を縫うように続く道を歩き続けていると、農夫の姿が目に付くようになる。

 手拭いを頭に巻いた老人が四人に気付き、目元の汗を拭いながら彼らに話しかけた。

「あんた等、ヒジャから来たのか?」

 単純な好奇心から来たらしいその問いかけに、アーシーが答える。

「はい、修行の行脚の途中でして。こちらの方々は、同行させてくださっている楽団の皆さんです」

 あらかじめ用意された口裏に合わせ、荒也達はぺこりと頭を下げる。

「ははぁ、楽団ですか。酒場なら、麓の町にありますよ」

「そうなんですか、ありがとうございます。酒場の様子はご存知ないですか?」

 アーシーがそう尋ねた途端、老人が明らかに不機嫌な顔になった。

「傭兵連中がたむろするようになってね、居辛くなって通えなくなったよ。あそこの梅酒が旨かったんだがなぁ……」

「梅酒!?」

 ぱっと、荒也の顔が明るくなった。

「梅酒があるんですか?」

「え、ええ。お好きなので?」

「や、まだ飲めないんですが、馴染みがありまして。食べるものは何があるんです?」

 やおら明るくなった荒也の様子に農夫は戸惑いながら応じた。

「ええと、山菜を揚げたものに、おでん。あと、煎餅もいけますな」

「ほほう、煎餅が」

 荒也の上機嫌な様子に、他の三人が顔を見合わせる。

「ど、どうしたの?」

 ククリマが恐る恐る尋ねると、荒也は我に返って彼女を向いた。

「お、おお。いやな、どうもこの国、俺のいた国に似たトコが多そうでな。ちょうど故郷の味が恋しくなった所だ」

 荒也は老人に礼を言うと、先行して速足で歩き始めた。

「この先だろ?急ごうぜ」

 歩みを止めない彼を、三人は慌てて追いかけていった。


 ジルトールは島国であり、海に囲まれている。

 その海につながる川がナバンの山奥から流れており、ナバンの中心を通る一際大きな川をダンマ川と呼ぶ。

 そのダンマ川の通る町や村では川岸に何台もの舟が泊められており、ある者は漁に、またある者は運輸にそれらを用いている。

 舟はナバンに住む多くの者にとって、生活に欠かす事の出来ない足なのである。

 そのダンマ川の中流、民家のまばらな山村の中を、一隻の舟が上っていた。

 その舟を見る者は、誰もいない。

 オールを漕ぐのは二人のジルトール兵であるが、もう一人舟に乗っている。

 それは濡れたように黒い外套を羽織った人影で、被った黒いフードによって顔は完全に覆い隠されている。

 やがて舟は石ころの転がる川べりで泊められ、兵士の一人がフードの人物に声をかけた。

「『ドルイド』、到着しました」

 そう呼ばれたフードの人物はゆっくりと立ち上がり、先ほどの兵士に声をかけた。

「『ドルイド』、か。ベルジェという名があるんですが、実験隊を名前で呼ぶのがそんなに嫌ですかな?」

 陰気な声で言うフードの人物が、その眼でじっと兵士を見た。

「い、いえ、そんなつもりは……」

「私は一番まともでしょう?……まぁいいです。せめて他のかわいそうな方々は名前で呼んであげてくださいな。最も、会う機会があれば、ですが」

 ベルジェと名乗ったフードの人物は舟を降り、兵士から離れて山の方へと歩いて行った。

 兵士達は彼の後姿が見えなくなるまで見送っていたが、ようやくベルジェが見えなくなった頃、二人は舟の上で揃ってふうぅ、と息をついた。

「気味の悪い野郎だったな」

「ああ。国王は何を考えてあんな連中を作ったんだか」

「俺達からすれば、あんな連中、顔も見たくないっつの」

「違いねぇ」

 緊張から解放され、二人は思いのままを言い合う。

「さあ、とっとと帰ろうぜ。化け物とはおさらばだ」

「ああ、いい気分だ。……ん?」

 兵士の一人が、ふと川べりに沿うように群生する茂みの中に視線を向ける。

 見えたものが何か、よく見ようとして目を細める。

 次の瞬間、その顔がさっと青くなった。

 相棒のただならぬ様子に気付いたもう一人の兵士が、彼に尋ねる。

「おい、どうした?」

「あ、あれ……!」

 震える手で指差された先にあるものを、もう一人の兵士が見る。

 茂みに紛れて、奇妙な花があった。

 非対称な形状で、花弁のようなものは分厚く、その中心はくぼんで穴のようになっている。

 曲線で構成された花弁はたった一枚、上端は円形に膨らむように広がっているのに対し、下端はすぼまっている。

 肌に似た色をしたそれは、花というよりもむしろ……

「み、耳……!?」

「耳だ、耳だぞあれ!」

 兵士達が動揺し、裏返った声を上げる。

 直後、耳の花の根本が下から盛り上がり、積み重なった枯草や土くれを蹴散らして何本もの細いものが飛び出した。

 鋭い切っ先を持つ何本ものそれは、矢のような速さで兵士達へ殺到し、兵士達を刺し貫いた。

 のどや胸、腹を射抜かれた兵士達は声を上げる間もなく後ろへのけぞり、血の弧を描きながら舟から転がり落ちた。

 兵士達を貫いた細いものは空中でしなり、びゅるるっ、と音を立てながら元の場所へ吸い込まれるように戻っていく。

 漕ぐ者を失った舟はやがて静かに前進を始め、河口へと流されていった。

「……雉も鳴かずば撃たれまい。花に耳あり……、とは思わなんだか」

 その呟きは、遠ざかるベルジェの口からこぼれたものだった。

 その手には三枚のカードが握られていた。

 耳の描かれた『聞く』カード、つららのような三角錐の描かれた『尖る』カード、そして彼自身を表す鼻のカードだ。

 その後彼は手にした三枚のカードを腰の小箱にしまい、ゆっくりと歩き始めた。


 煙の昇る網の上で、平たい白い乾いたものがいくつも並ぶ。

 控えめな火に炙られながら、表面にわずかな膨らみや焦げができていく。

 それらが次々と店主の手でひっくり返され、焦げ目のついたそれらの表面に、刷毛でどろりとした茶色いたれが塗り付けられていく。

 白いものの表面に薄く溜まったたれは、火と煙の熱気によってじう、じうと音を立てながら干上がっていき、香ばしい匂いを上げながら白いものを光沢のかかった茶色に彩っていった。

「おっほほぉ、これだよこの匂い、あぁなんとも日本的……」

 カウンターの席で焼ける甘いたれの匂いを嗅ぎながら、荒也はうっとりした顔で呟いた。

 その隣に座っていたククリマが、不思議そうに彼に尋ねる。

「これそんなに美味しいの?」

「味はまだ分からんが、見た目は俺の知ってる食べ物にそっくりだ。まぁようはおやつだな」

 おやつ、と聞いてククリマの顔が明るくなる。

 その隣でアーシーとエリザは、今いち理解していない様子で揃って首を捻った。

「パンの方がおいしいんじゃないの?」

 一番離れた席に座るエリザの呟きに、荒也が胡乱な目を向ける。

「俺は米が恋しいんだよ、日本人なんだ」

「何よ、ニホン人って」

 あきれたように言うエリザの隣で、アーシーが少し悩んだ素振りを見せた後、荒也の反応をうかがうようにそっと指を二本立てて見せる。

「それじゃないです」

 答えを聞いた彼女は、立てた指をそっと戻した。

 荒也達の前で、煎餅を焼いていた痩身の店主が口を開く。

「この辺は麦よりも米がよく育つんだ。水に事欠かないからな。ただ、取れすぎる時なんかはなかなか減らないんで、食い方にも工夫がいるって訳だ」

 言いながら細い節くれだった手で網の上から焼けた煎餅を次々と拾い上げ、冷えた皿の上に並べていく。

 がらんがらんと、焼きあがった煎餅が重なり合って音を立てた。

「ほら、ナバン煎餅だ」

 焼きあがったばかりの煎餅の積まれた皿を差し出され、荒也は上機嫌でそれを受け取った。

「へへっ、どうも」

 渡された皿を、彼は一列に並ぶ四人の中で中心に位置するククリマとアーシーの前に置く。

 一番上に積まれた煎餅を一枚手に取ると、伸ばしていた手を引きすぐさま口に運んだ。

 咥えられた煎餅に歯が食い込んだ直後、ばきんと大きな音を立てて煎餅が割れた。

 音に驚いた三人が荒也を見るが、荒也本人はお構いなしに咀嚼を続ける。

 口を閉じていてもなお聞こえるぼりん、ぼりんという音が続き、その音に三人はなおも目を丸くしたままだった。

 口の中のものを飲み込み終わった荒也が、感慨深げに呟く。

「まさか煎餅でここまで感動できる日がくるとはなぁ」

 悦に入ったようなその一言に、店主が変なものを見る顔になる。

「なんだ兄ちゃん、そんなに気に入ったのか?」

「いやぁ異邦人なもんでして。里の味に似てるんですよ」

 そう答えて、荒也は別の煎餅をつまみ上げる。

「しかしちょっと辛い気もしますね」

「酒飲みが多いからな、唐辛子をちょいと入れてるんだ」

 言われて、荒也はここが酒場である事を思い出した。

 振り返ってみれば、数人の客があちこちの机で杯を傾けているのが見て取れた。

 傭兵らしき者もいたが、明らかに地元の農夫と思しき者も多かった。

 まだ日の高い時刻だというのに、あちこちで酔いから語調の荒くなった話し声が上がっている。

「道理でちょっと居辛い訳だ」

「私達全員未成年ですからね……」

 最年長のアーシーが物憂げに呟くと、店主はおや、と声を上げた。

「そうだったのかい?危ない危ない、とっときの酒を出す所だったよ」

 店主はそう言って、酒瓶を持ち上げかけていた手を戻した。

「……やっぱり、そう見えるんですね」

「い、いやいや、そんなつもりじゃなくてだね……」

 アーシーが落ち込み、店主が慌てて弁明しようとする。

 荒也は関わるのが面倒そうだと感じ、さっと二人から目を逸らして店内を見回した。

 ヒジャで入った酒場はどれも石造りのものだったが、ナバンのこの酒場は木造であり、漆喰の塗られた壁は混ぜられた土の色でうっすら茶色く黄ばんで見える。

 造りのどこを見ても、荒也の知る古い日本家屋によく似ていた。

「俺ここに住みそう」

 懐かしみすら感じ、思わずそう呟く。

 それを聞きつけ、エリザが荒也に尋ねた。

「そんなにここ、気に入ったの?」

 間の二人をよけるように机に身を乗り出す彼女に、荒也はああと頷いてみせる。

「こういう家に住んだ事はないんだが、なんて言うのかな。郷愁の念って奴かなぁ、そういう、我が家が恋しいって感覚がさっきから刺激されてしまうんだ。分かるか?」

 同意を求める荒也に、エリザが目を細める。

「……そう、よかったね」

 その反応に、荒也は疑問を抱く。

 エリザの返事が、そっけなく突き放すようなものとは思えなかったからだ。

 優しい、と形容するのにも違和感がある。

 むしろ先ほどからの荒也をうらやましがるような、しかしどこか沈んだ感情の見え隠れする反応だった。

「なんか嫌な事でもあったのか?」

 荒也は気になり、素直に疑問を投げかける。

 これを受け、エリザは眉根に皺を寄せた。

「……別に。そっちには関係ないでしょ」

 初対面の頃のように突き放した言い方をした後、エリザは視線を逸らし、煎餅を手に取りあてつけのようにバリンと噛み砕いた。

 咀嚼を続け黙り込む彼女に荒也は追及する気が失せ、自らも面白くなさそうにエリザから視線を逸らし、別の煎餅を噛み砕いた。

 二人の咀嚼が続き、次第にカウンター席一帯の沈黙が気まずいものになる。

 それを破ろうと、ククリマが思いついたように店主に尋ねた。

「ねえおじさん、ジルトールまでの道で、危ない人達の集まってる場所って知ってる?」

 店主はこれ幸いと、表情を明るくして彼女に答えた。

「おお、そうだな。嬢ちゃん達がジルトールの連中に絡まれたら大変だ、おっちゃんが知ってる限りの事を教えてやる。地図あるかい?」

 落ち込んでいたアーシーがはっと我に返り、慌てて地図を取り出してカウンターの上に広げた。

 地図の左上には海に囲まれたジルトールが、海を挟んで紙面の約四分の三を覆う陸地の大半にはナバンの領土が描かれている。

 ナバンを囲む国境線の外側には、注意書き程度の文字数でヒジャの地名が書き込まれていた。

 その中には、荒也達の泊まったマルタンの村もある。

「ここはガミカの村だ」

 店主が国境線の内側に沿って描かれた小さな村の一つを指差す。

「山の中にあるからか、ジルトールの連中はここにはたむろしたがらないんだ。奴さん方も拠点では生活せにゃならんからな、ここよりもっと大きな、人のいっぱい住んでる町になら居ついているはずだ」

 口にした条件を満たす場所を探すようにその指先が紙面を滑り、やがて一点で止まった。

 そこは紙面の中心よりも右下にずれた場所で、ナバンの領土の中心に位置していた。

「ナバンの王都ミラには、今およそ二千だか三千だかのジルトール兵が集まっているそうだ。石を投げれば必ず連中に当たる、なんて言われているな。観光目当てでも、行かない方がいいだろうな」

 これを聞いて、荒也達は地図上のミラ周辺に目を走らせた。

 そこで荒也がある事に気付く。

「ほとんどの道がこの、ミラってトコに集まってないか?」

「そりゃあこの国の王都ですからね。交通の便の悪い王都なんて、あり得ませんよ」

 アーシーが神妙な顔で地図を睨んだまま、そう答える。

「となると、やっぱ俺達は地図に載ってる道は歩かない方がいいのか?」

「それが理想だけど、そうもいかないでしょ。私達だって生活しなきゃいけないんだから」

 そう言ったのはエリザで、荒也は野宿の続く旅路を想像し、渋い顔になった。

 長旅をするのなら、必ず道中の町や村に寄って食料や道具を買いこまねばならない。

「そうだよなぁ、二か月かかるんだしなぁ」

「川沿いを歩くという手もありますが、ジルトールがこれを使わないとは到底思えませんね。船と鉢合わせれば、たちまち大群に追われる羽目になります」

 アーシーの説明に荒也は頷き、改めて紙面から良い道を探そうと目を凝らす。

 大きな道は不適、川沿いは危険。

 線でつながる目的地までの道筋が見つからず、彼はしかつめらしい顔をして考え込んでいたが、ふと、ナバンの領土内に大小さまざまな湖が点在しているのに気付いた。

 湖を線でつないだその先に、ジルトールを結ぶ事が出来る。

「そうだ、湖を辿って行くのはどうだ?それなら水も……」

「それは駄目」

 強い口調で遮ったのは、ククリマだった。

 その表情は固く、怯えの含まれたものだ。

 アーシーやエリザまでもがこれに同意する。

「湖は駄目です、一番危険です」

「うん。あんたがどんなに強くても、絶対に湖は駄目」

 三人の一様な反応に、荒也は戸惑いながらも既視感を抱く。

 それを思い出そうとして、彼は旅立つ前、三人やヨウドーオが二か月ごとに起こる何かを恐れていたのを思い出した。

 いつかは聞こうとして、ついに今日まで聞けなかった事だ。

 彼の疑問に答えるように、店主がカウンター越しにこわばった顔を荒也に向けて言った。

「ああ、どの湖にも竜がいる。近づかない方がいい」

「りゅ、竜!?」

 その名前に、荒也は驚く。

 その後、悩むようなそぶりを見せて視線を逸らし、黙り込んだ。

 ククリマが怪訝な顔になって、荒也に尋ねる。

「どうしたの?」

「いや……、初めて異世界らしい単語を聞いて、リアクションに困ってるトコだ」

 荒也の反応に、ククリマ達と店主は揃って首を傾けた。

「ああすまん、落ち着いた。竜って、もしかして、決まって二か月ごとに現れたりするのか?」

 その疑問に、ククリマが戸惑ったように頷いた。

「う、うん。ジルトールの侵略が始まって少しした頃から、湖の周りに出るようになったの」

「あれ、大昔からいる訳じゃないのか?」

 荒也の疑問に、エリザがうろんな顔になって言う。

「ホントならとっくの昔に滅んでいないのよ」

「昔はいたって事が俺には驚きなんだが」

 率直な感想を口にする荒也をなだめるように、今度はアーシーが説明に入った。

「とても古い伝承の、最初の頃にしか出て来ない存在です。鱗に覆われた巨体と長い首と尾を持つ生き物で、牙の並んだ口からは炎を吐き、辺り一帯を焼き尽くすと言われています」

「俺の知ってる竜と変わらんな」

「あんなものが今も存在するなんて、信じられませんでした……」

 アーシーは目を伏せ、黙り込んだ。

 その反応を見て、荒也は聞きたい事をククリマに聞こうとしたが、すぐにエリザへと矛先を変えた。

 この質問は最年少のククリマを怖がらせるかもしれないと考えての事だ。

「言いたくないなら言わないでもいいけどさ、もしかして皆、実際に竜を見た事があるのか?」

 エリザは彼の配慮に気付いたのか、普段より幾分棘のない口調になって答えた。

「……ええ。あんたが召喚された、あの砦でね。遠くの村が焼かれたんだけど、まるで間近で見ているようだった。あまり思い出したくない話ね」

 エリザも目を伏せ、水の入ったカップを傾けた。

 普段明るいはずのククリマも、黙りこくって俯いてしまっていた。

 三人には、今でも鮮明に竜を見た時の光景を思い出す事が出来た。

 砦を囲む塀の上から、他の兵士達とぼうぜんと見ていた景色だ。

 太陽も月もない夜、星の光は地上の炎によって掻き消え、まぶしい地表の上で巨体が鎌首をもたげて火を噴く有様は悪い夢のようだった。

 しかし夢でない事を証明するように、吹き付けるぬるい風が肌を撫でていた。

 炎が森や山壁といった、影となって映る景観を蝕み、その光量を増して広がっていく。

 思い出すだけで、焼け焦げた臭いが今も鼻の奥からこみあげてくるようだった。

 荒也にとって、それは知らない出来事だ。

 しかしそれでも、三人の重苦しい雰囲気を察し、それ以上の追及を避けた。

「どういう訳だか、どの竜もジルトールの言いなりだ。どこに行くのかは知らんが、竜に出会わんといいな」

 店主が仕切り直すように言って、新たな煎餅を差し出した。

 荒也はそれを黙って受け取り、言うべき言葉を探すように再び煎餅を噛み始める。

 そんな折、酒場の扉が開く。

 扉に設けられたドアベルが、がらんがらんと不躾な音を立てて来訪者を知らせた。

「お、いらっしゃい」

 店主が荒也達から視線を上げ、そこに目を向ける。

 荒也も同じ人物に視線を向けた。

 来店したのは、黒いフードを被った一人の人物だった。

 背はさほど高くなく、肩幅も狭い。

 フードのついた外套も濡れたように黒く、晴れの日だというのに雨の影から抜け出てきたような、陰気な雰囲気を放っていた。

 フードの奥の顔は、カウンターからは見えない。

 奇妙な出で立ちのその人物に、店内にいる他の客達から、不審なものを見る目を集めた。

 黒いフードの人物は周りの目など気にも留めず、カウンターに歩み寄ると、荒也から一つ離れた席に座り、店主に目を合わせずに口を開いた。

「酒と、水を一杯」

 低い、男の声だ。

 陰気な響きのその声に、店主は気味悪がりながらも注文に応じた。

 すぐに二つのカップが男の前に並ぶ。

 一人で二杯も頼むその男に、荒也は疑問を持ってじっと見る。

 それに気づいたかのように、黒いフードの男がちらりと荒也に目を向けた。

 フードの暗がりの奥から、ぎょろりとした目が荒也を見る。

 目が合い息を呑む荒也に、男は口を開いた。

「おや、あなたも影被りですか」

 そう言われ、荒也は自分もフードを被っている事を思い出した。

 影被り、とはフードや帽子などで自ら顔を隠して暮らす者を指す言葉で、その意味する所は蔑称としての側面が強い。

 伝承に伝えられる悪人に似た顔の者は、面通しによってかつて悪用されたのと同じ技を得る。

 例え当人が品行方正で根っからの善人だったとしても、同じ顔をしていればそれだけで周りからの目が厳しくなる理由になる。

 なので、周りから不当な不信を買うのを避けるため、自らすすんで顔を隠している者が現れ、やがて彼等を影被りと呼ぶようになったのである。

「……ええ、まあ」

「この所、神経質な人が多くなって困りますね。見られたくないから顔を隠しているのに、誰もかれもが理由を作って隠しているものを暴きたがる。それが当人はおろか、周りの方々を不安にさせないための配慮からそうしてるというのに」

 男はそこまで言って、酒のカップを手にとり一気にそれをあおった。

 語り口こそ親しげだが、男の言葉は荒也に言いようのない不安を感じさせた。

 自分を同族とみて口が回っているのだろう、と荒也は考え「はあ」と相槌を打つ。

 男は空になったカップをカウンターに置くと、思いついたように荒也に言った。

「そうだ、ご存知ですか?影被りが一番顔を見られたくない相手が誰か」

 男の質問に、荒也は小さく息を呑んだ。

 意見を求められるとは思わず、慌てて考える。

 家族か、友人か、はたまた恋人か。

 いずれもすでに、あるいはいつか必ず素顔を見せる事になる相手だ。

 となると、顔を隠す意味はない。

 顔でレッテルを貼られる理由があるとすれば、同じ顔の誰かのせいで、それはつまり―――

 荒也はぽんと手を叩き、思わず声量を少し上げた。

「オモカゲ様!」

 男は少し黙った後、首を小さく縦に振った。

「正解です。やはり、私と同じ苦労をなさっているようだ」

 正解を得た事の満足感と芽生えた共感から、荒也は親身になり、何度も首を縦に振った。

「ええ、ええ。分かります。俺もこの顔のせいで面倒な事を押し付けられてしまって……」

「ほう、珍しい。影被りは普通、何もさせてもらえなくなるものなんですがね」

 男は荒也の反応に驚き、今度は荒也を驚かせた。

「となると、あなたはすでに面通しを受けた後でしたか。いや失敬、私とは少々事情が違うようだ」

 男に気を害した様子はない。

 男の声を聞きつけて、ククリマ達三人も男の方に目を向けた。

「私はさえない魔法使いでして、先人も名もない小作人だったようです。顔の恩恵は農作業が少々うまくなった程度。私の今の仕事では大して役に立たず、そのせいで魔法使いの間では肩身の狭い思いをしていました」

 荒也は内心、そういうパターンもあるのか、と感心していた。

「もともと魔法にさほど長けている訳でもなく、稼ぎも少なる一方。魔法使いの仕事は名前が売れてこそな稼業ですからね。自然と食うにも困るようになりましたよ」

 男は水のカップを取り、水面をなめるようにわずかにカップを傾けた。

 同情して頷く荒也だったが、ふと疑問を抱く。

 名もない小作人の顔に、隠す必要があるのだろうか。

「おや、疑問がわきましたか」

 図星を突かれ、荒也は息を詰まされる。

 男の声は変わらず陰気だが、弾んだ口調になっていた。

 カップを口から離し、それを持ったまま男は言う。

「隠す理由は分かりますか?……分からないでしょうね。でしたら、ヒントを教えましょう」

 男は持っていたカップを荒也の方に傾けて見せ、反対側の手を自分の腰に伸ばす。

「……私が、ジルトールの者だからです」

 言うや否や、男は反対側の手で取りだしたものをカップの底に押し当てる。

 それは二枚の、カード。

「『尖れ』」

 男の呟きで、カードに光が宿った。

 カップの中の水面が、一気に白くなる。

 荒也の脳裏で、以前ククリマから聞いた話がまざまざと蘇る。

『簡単な魔法なら鼻と額だけで使えるけどね』

 そこから彼は考えず、衝動で動いた。

 咄嗟に手を上げ、前腕で男のカップを跳ね上げたのだ。

 高く持ち上げられたカップの中で、バキンと派手な音が上がる。

 カップの中身は生えるように高さを増していき、鋭い棘と化していた。

 霜に覆われた表面は水滴の一つも浮かばず、固さを誇るように光をはね返している。

 もしあのまま何もせずにいれば、荒也の顔面はただではすまなかっただろう。

 ククリマ達が色めき立って立ち上がり、店主がひぇえ、と悲鳴を上げてひっくり返る。

 一変した事態に、他の客からもどよめきの声が上がった。

 荒也は命の危機から跳ね上がった鼓動を鎮めるように何度も息を吐きながら、間近にいる男を睨む。

 男は荒っぽい妨害に動じた風もなく、フードの奥でにぃい、と笑った。

「さすがは勇者、と言うべきですか」

「……あんたは何だ、俺が狙いか」

 男と荒也は同時に席を立ち、押し合って距離を取る。

 男は棘の生えたカップを放り捨て、先ほどの二枚のカードを見せつけた。

 一枚に描かれた丸みを帯びた記号は団子鼻を思わせる三角形に似たもの、

 もう一枚は、ねじれた円錐の記号だ。

「察しの通り、あなたにお会いしに来た者です。名はベルジェ、同郷の者からはドルイドと呼ばれています」

 フードを被ったまま、ベルジェは名乗る。

 荒也が素早く手をかざし、ベルジェが手を突き出してみせてそれを阻んだ。

「おおっと、電撃は良くない。これだけ込み入った場所で使えば、望まぬ方へ飛びますよ」

 言われて荒也ははっとした。

 周りを見回し、立ち上がって様子を見る他の客達に目を向ける。

 雷というのは、高い所に落ちるものだ。

 電撃が他人に飛ぶなどあってはあらないし、伏せろと言って従わせた所で、店内の椅子や鉢植えの観葉植物など、高さのあるものに逸れてしまう事も十分に考えられる。

 荒也の葛藤を読んだように、ククリマが慌てて観衆の前に走り、彼等に大声で言う。

「逃げて、皆危ないです!」

 アーシーも、ククリマの指示を皆に促すように前に出、店の扉を開いて手招きで外出を促す。

 観衆はそれを見て、戸惑いながらもその足を店の外へと運び始めた。

 エリザは荒也の背から男を覗く位置に立ち、短弓を構え矢をつがえる。

 店主は腰を抜かしたままだ。

 ベルジェは自分へと矢を向けているエリザを見て、おどけた様子で両手を挙げた。

「おお、怖い。しかしいいんですか、通りすがりの店で人死になんか出して」

 エリザは鋭い目でベルジェを睨んでいたが、矢を放たなかった。

 彼の言う通り、ここでベルジェを仕留めれば酒場の評判を落としてしまう事にもなりかねない。

 ククリマとアーシーに避難を促される客達の足は、不躾な好奇心から鈍いものとなっていた。

 人のはけない様子に荒也達は臍を噛む。

「どうしても、というんでしたら、店の外に出ましょうか。望むなら、村の外でも構いませんよ」

 その提案に、エリザが噛みつく。

「どうせ仲間か、罠でも仕掛けているんでしょう」

「どうでしょうねぇ、私は嫌われていますから。ですが今、あなた方に取りえる手段は限られてますよ」

 ベルジェの言う通り、荒也達には他にできる事がなかった。

 やがて忌々しそうに、荒也が口を開く。

「……オーケー、外に出よう。ただし、少しでも変な事をしたらやむを得ない、ただではすまないぞ」

「了解です」

「カードをしまえ」

 ベルジェが言われた通りカードを腰の小箱にしまうのを見届けると、荒也は手を下ろし、踵を返して出口へと向かった。

 エリザがつがえた矢の先をベルジェに向けたまま、荒也に続く。

 渦中の人物たちの動きを見て、他の客達が慌てて我先に外へと出ていった。

 客達の殿を務めるようにククリマが、次いでアーシーが外に出る。

 荒也と、そしてエリザがこれに続いた。

 店の外は、ガミカの村の中心を走る大通りに面しており、馬車が二台並んで走ってもまだ空くほどの道幅を有している。

 道を挟む家の数はまばらで、家屋の間からは、水田の青々とした茂みや村を囲む木々の密集した様子が容易に見てとれた。

 水田と道との間を走る水路で水が途切れる事なく流れ、この場の雰囲気に似つかわしくない呑気な音を立てている。

 荒也達四人と、遠巻きに見る観衆の前で、水田に挟まれた店の奥からゆっくりとベルジェが近づいてくる。

 外が晴天なためか、薄暗い店内から歩み寄ってくるベルジェの姿はさらに薄気味悪い印象を与える。

 魔法に使うためのカードは、彼の手元にはない。

「……ところで」

 ベルジェがぽつりと口を開く。

「私が不用心なタイプに見えましたか?」

 そう彼が呟いた瞬間、酒場の入り口のすぐ脇の地面で、薄い光が灯った。

 それは魔法を使う際に、カードの表面に灯る光と同じものだ。

 それに気付いた瞬間、エリザがベルジェに矢を放つ。

「『尖れ』」

 矢がベルジェに迫る最中、カードの下で地面が盛り上がった。

 地面の一点は先端を尖らせながらみるみる高さを増していき、棘となったその先端がベルジェの前へ飛び出し、身代わりとなるように矢を受けた。

 矢の飛ぶ一瞬の間に起こったその出来事に、荒也達は息を呑む。

 ベルジェは伸びた棘の勢いでひらひらと浮かんだ一枚のカードを、その場から動かずに空中で器用に捕まえ、ふふ、と笑った。

 カードにはカップの底に押し当てられたのと同じ、ねじれた円錐が描かれている。

「得意、と言いますか、性に合うのはこんな魔法です。そこの大賢者様、これはご存知ですかな?」

 ベルジェはククリマを指して尋ねる。

 同じ魔法使いと見ての行動に、ククリマは表情をこわばらせながらも果敢に言う。

「そ、それ、つらら。尖らせる魔法」

「そうです。これはものを尖らせ、伸ばす魔法です。便利そうでしょう?ただ、一枚につき一本しか生やせない、非効率的な魔法です。二流もいい所の私とは、相性が良かったんでしょうねぇ」

 魔法使いと魔法との相性。

 これも荒也にとっては、かつてククリマから聞いた事だ。

「……しかしね」

 男は自分の被る、黒いフードに手をかけた。

「それはこれから変わります」

 そう言って、男はフードを取った。

 色の抜けきった、白髪同然の細い髪。

 ぎょろりとした円らな目と、大きな団子鼻。

 たるんだ頬に、二重顎。

 肌はあばただらけで、どう控えめに言っても醜い。

 なまじ肩幅のないひょろりとした体形に、その幅広の顔はミスマッチとしか言いようがなかった。

 荒也がベルジェの出で立ちにぎょっとするその隣で、ククリマが、あ、と声をあげる。

「あたし、この顔知ってる!確かドルイドの……!」

 そこまで言って、彼女はちらりとアーシーを見た。

 アーシーもまた、ククリマと同じ人物を思い出したのを確信してその後を続ける。

「ドルイドのモーバ……!茨の園の主とも呼ばれた、熟練の魔法使いです!」

 アーシーの解説に、えぇ、とエリザが驚きの声を上げた。

「ちょ、おかしいじゃない!あいつ確か、先人が小作人って言ってたのに!」

 エリザの驚きに同調するように、アーシーとククリマも互いに目を合わせ、戸惑いを隠せずにいた。

 しかし、荒也だけは動じない。

「……なーんか俺、分かっちゃったかも」

 そう呟く彼の目の前を、白いものが横切った。

 不意に現れたそれは、ベルジェの方へと飛んでいき、彼の周りを回り始める。

 ベルジェはそれを見上げると、わずかに口の端を持ち上げ、それに向かって片手を掲げた。

「オモカゲ様!我にふさわしき力を!」

 呼びかけに応じるように、その白いもの、オモカゲ様の衛星はベルジェを見下ろした。

 そして薄く開いた唇の切れ込みから、男とも女ともつかない声でこう言う。

「該当記録アリ。H-045112ニ対シ、94.7%ノ一致ヲ確認。対象ニ該当技能ヲ貸与シマス」

 荒也は心底驚いた。

 その声は、まるで機械のそれだ。

 これまでの、決して長いとは言えない旅路の中で見た文明からは大きく逸脱した異物。

 考えても理解できないであろうと思っていたものの正体が垣間見え、荒也の心臓が大きく跳びはねた。

 彼の驚きが喉から出るよりも早く、仮面の空の眼窩に強い光が宿る。

 直後、稲妻に似たものがそこから放たれ、ベルジェの眼球を打ち抜いた。

 衝撃からベルジェが大きくのけぞり、顔を押さえ大きくよろめき、たたらを踏む。

 どうにか倒れるのを堪えて立つベルジェに、やがて変化が起こる。

 着ている黒い外套の裾が、姿勢を変えたわけでもないのに地面に付いた。

 フードの高さを追って、荒也達の視線が下がっていく。

 ベルジェの背が、縮んでいるのだ。

 そして縮むにつれ、細すぎるほどだった肩幅がみるみる幅広になっていく。

 ベルジェの背丈は、先ほどの半分ほどまでになったところで縮むのを止めた。

 肩幅もがっちりしたものになり、こうなると、先ほどまで被り物のようにも見えていた顔が本来の体格にふさわしい身体を得たようにも見える。

「面通しって、体格まで変わるのかよ……!」

 荒也の驚きは、もはや表情や声に表れるものにとどまらなくなってきた。

 震えるような不条理を前にして、喉の奥が裏返るような不快な感覚がこみ上げる。

 縮み切ったベルジェを見届けたオモカゲ様の衛星は、それで興味をなくしたかのように、ひらりと飛び去っていった。

 変化したベルジェは荒也達を見上げ、満足げに笑う。

「これで私はモーバも同然。となれば、こんな事もできる」

 そう言って、彼は腰の小箱から五枚のカードを取り出した。

 その際、カードの縁にかけた親指で、半ば強引にそこを弾く。

 それだけで、今度はカードに光が灯った。

 いつの間にか弓の弦に矢をつがえていたエリザが、それを見て矢を放つ。

 カードがベルジェの手から離れ、滑るようにその前に飛び出した。

 空中でカードが堅い音を立てて矢を弾き、ベルジェの目の前で十字に並ぶ。

 空中にカードが浮くだけでも荒也にとっては異様だったが、それより大きな意味を持つある事象に彼の意識は向いた。

「十字……!」

 荒也ははっとした。

 ベルジェは魔法を使う気だ。

「『囲え、そびえよ、そして尖れ。意味するものは草にあり』」

 聞き覚えのあるものに似た、呪文。

 それを聞いた瞬間、荒也は後先構わず手を突き出し、出ろと念じた。

 たちまち彼の掌から閃光が発され、電撃が飛ぶ。

 しかし、電撃はベルジェに向かわず、大きく逸れてその脇へ飛んだ。

 水田から緑の棘が伸び、ベルジェの背よりも高くなったそれが電撃を引き寄せたのだ。

 バチン、と音を立てて棘が焼け焦げ、火事で焼けた尖塔のように表面から煙を昇らせた。

 荒也は目を剥いた。

 何が二流だ、てき面じゃないか。

「『生えよ、生えよ、そして栄えよ。広きもの、それ、庭となれ。求められるは高き壁』」

 十字に並んだ五枚のカードの光はどんどん強くなり、呪文に呼応するように水田の稲や道端の茂み、立ち並ぶ木々といった、手近な植物がめりめりと音を立てながら細く、長く伸びていく。

 異常な速度で成長しながら、葉の一枚一枚にいたるまでをよじらせ、尖らせながら枝分かれを始める。

 その様は、あるべき成長から大きく逸脱したものだ。

 変異していく情景に、周りで見る者達からひぃ、と悲鳴が上がった。

「『形よ、質よ、存在よ。変われ、そして定まるべし』」

 ベルジェの呪文に合わせ、不気味に変わった草木が荒也達を取り囲むように更に広がっていく。

 様子を見ていた農夫や傭兵達が、足元に迫る木々を恐れて後ずさる。

 彼等の足元を、尖る草葉が境界線を引くかのように伸び、そして囲いのように積み重なっていく。

 伸びていく草葉が荒也達とベルジェを取り囲み、壁を成し、やがて丸い天蓋を形作る。

「『高くあれ、密であれ。しかし枯れる事なかれ。然れば名を得、呼ばれたり。その名、すなわち……』」

 重なる鋭い枝の数々がついに荒也達を完全に封じ込め、閉ざした空間を成した。

 変わり果てた植物は、いずれも茨の蔓のようであった。

「『“囚人の茨園(プリズナーズ・ガーデン)”』」

 ベルジェが呪文の全てを言い終え、魔法の名前で締めくくる。

 それによって植物達が成長を止めた。

 同時にカードから光が失せ、落下を始めたそれらを彼は器用に捕まえ、小箱に収めた。

「……これはもう、逃げられませんね」

 周りを見回しながら、アーシーがそう呟いた。

 ベルジェが地面を変化させた棘の下をくぐり、荒也達の前に立って新たなカードを数枚取り出す。

「これで邪魔者はいません。……さあ」

 ベルジェが醜悪な顔の口の端を持ち上げる。

 荒也達は二、三歩後ずさり、それぞれが構えを取った。

 エレク・トリクを引き抜き、矢をつがえ、拳を作り、カードを取り出す。

 対峙する勇者の一味に、ベルジェは手札を扇のように広げ、楽し気にこう言った。

「実験隊の力、教えて差し上げましょう」

 

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