桜妖譚 参

     参.


(もうやだ、もうやだ、もうやだよー!)

 悠乃は走った。もはや半泣きである。

 肩越しに振り向くと、黒泥は確実に広がってきている。あれがなにかはわからない、が、立ち並ぶ桜の根元を洗って迫りくる様子は、追いつかれてはならないと判断するに充分すぎた。

 いまのところ悠乃の走る速度のほうが速い。しかし。

(どこまで逃げればいいの?)

 相変わらず、行けども行けども桜の林だ。このまま永遠に林が続けば、いずれ悠乃の体力は尽きる。まさかそんなことはあるまいと思うが――

(ほんとうに?)

 この桜の林は異常だ。ずっと林の外に出られない、という可能性だってないとはいえない。悠乃はぞっとした。

(こんなところで死にたくない……!)

 まだ高校二年生になったばかりだ。学校は息苦しいし日々嫌になることは多いが、それでも捨てたいほどではない。読みかけの本だってある。

 悠乃はもつれそうになる足を奮い立たせ――唐突に、柔らかいものを踏んだ。

 想定外の感触に驚き、完全にバランスを崩す。

「ふわぁぁぁぁぁっ!」

 足元で「ぐぎゃっ」と蛙の潰れるような声が聞こえた気がしたが、それどころではなかった。一瞬のうちに桜の花びらが散り敷いた地面が目の前に迫る。

 受け身を取る余裕もあればこそ。

「へぐ、あ、ぶへっ、あう……!」

 悠乃は顔から地面に突っ込み、バウンドし、それでも勢いが殺しきれず、頭頂を支点にして回転し、背中から桜の木に激突して止まった。

「……」

 世界が逆さまになっている。上に地面、下に一面の桜の花と、夜空。

 不意に涙が滲んできた。

「なんでこんな目に遭わなきゃいけないの……」

 走りすぎて体力は限界に近いし、身体のいたるところが痛い。平和な春の夕暮れだったのに、どこで選択を間違えてしまったのか。見知らぬ少女の心配などするものではなかった。

 しかし。

(……あれ)

 いつの間にか、視界に見慣れぬものが映り込んでいた。

 水色だ。

 闇と薄紅の世界に紛れ込んだ、鮮やかな水色。それが次第に大きくなる。近づいてくるのだ。そして。

「あー……大丈夫、ですか?」


 低い、男の声だった。


 悠乃は耳を疑った。桜の林に迷い込んでから、はじめて聞いた人の声だ。

「……あ」

 返事をしなければと思うのだが、喉がからからに渇いて声が出ない。唾を呑み込み、無理やり喉を潤した。

「……大丈夫、じゃ、ないです」

 答えてから、悠乃はあることに思い至る。

(話しかけてきてるのって、人間?)

 馬鹿げた話にも思えるが、先ほど見かけた無言の列は明らかに人ではなかった。この声の主も同様という可能性もある。

 そのときには、水色が視界いっぱいを占めるようになっていた。悠乃の目の前に、ざり、と音を立てて何かが置かれる。

 白い足袋の爪先と、草履。

 草履の上につながる水色の布には、ところどころに縦に襞が入っている。服の一部のようだ。白いシャツのようなものに覆われた上半身、その上に顔。

 逆さまでよくわからないが、若い男、のように見えた。

「えーっと……立てますか?」

 そこでようやく、悠乃は自分の格好に気づいた。

 頭を下にして木に背中を預け、脚が高く持ち上がっている。悠乃の服装は学校指定のセーラー服だ。濃紺に白い三本線、野暮ったいと誰もが言う、プリーツスカートの。

「ひ……ひゃああああああ!!」

 一瞬前まで指一本動かす気力もなくしていた悠乃は、撥条のごとき勢いで跳ね起きた。

「み、見た!? 見ましたよね!?」

 座り込んだ姿勢でスカートを両手で押さえ、相手を睨みつける。

「いやいまのはどう考えても不可抗りょ」「いやあああ! 変態!!」

 理不尽な悲鳴を上げながら、悠乃は素早く相手を観察した。

 二十代の半ばくらい、だろうか。見る限り人間のようだ。やや癖のある前髪が目元にかかって人相がわかりにくいが、高い鼻梁としっかりした顎の線は、精悍な印象を与える。

 男は、珍しい格好をしていた。白い和服に、水色の袴。袴姿など、いまどき滅多に見かけるものではない。

 悠乃を見下ろし、男は困ったように頭をかいて肩をすくめた。

「中学生のパンツ見て喜ぶ趣味は持っとらんよ」

「な……!」

 あけすけな言い草に顔が熱くなるのを感じたが、男の発言にはそれ以上に聞き捨てならないものが含まれている。悠乃は訂正を促すべく全力で抗議した。

「わ、わたしは高校生です!」

 男が虚をつかれたように「えっ」と言ったのが、さらに悠乃のプライドを傷つけた。身長は悠乃にとってデリケートな問題なのである。

「ひどい! 下着見たうえにチビ呼ばわり! 失礼じゃないですか!」

「そこまでは言っとらんだろうが。だがね、失礼はお互い様だ。俺はあんたにさっき腹を踏まれたんですがね」

 男は片手で和服の腹をさすった。白い着物に泥の痕がついている。口調は穏やかだが苛立ちを含み、悠乃は首をすくめた。

「それは、その、でも、こんなところに人がいるなんて思わなくて」

「そう、それだ」

 次の声は、なぜか耳のすぐ傍で聞こえた。

「――あんた、どうやってここへ入った?」

「え」

 いつの間にか目の前に男の顔があった。しゃがみこんで高さを合わせ、悠乃の顔を覗き込んでいる。

 悠乃の生活の中で若い男と接触する機会は少ない。距離の近さに鼓動を跳ね上げた彼女をよそに、男は胡乱げに目を細めた。

「ここは普通の手段じゃあ入れん。どうやったんだ?」

 男の目もとはどちらかというと柔和な印象だ。しかし、とろりと鈍い光には見透かすような奇妙な迫力がある。その目がなにかに似ている気がしたが思い出せなかった。

 気圧されるように悠乃は答えた。

「え、と、丘を登ってきただけ、ですけど」

「鳥居をくぐって、石段を上ったのかね?」

「……いいえ。雑木林を登ってきました」

 悠乃は気まずげに目を逸らした。正規ルート以外を通ったことに気づいたのである。しかし男はそれについては咎めず、顎先を指でつまんで思案げな顔をした。

「ふむ? それだけでこっちへ迷い込むかな……よほど波長が合えば有り得る、か?」

 男はふっと視線を悠乃に向ける。

「どうしてそんなところから入ってきたんだね?」

「あ、それは、小さな女の子が雑木林に入っていくのを見たので。近くに大人の人もいないみたいでしたし、心配になっちゃって……」

 そもそもの切欠はそれだった。あの少女はどこへ行ってしまったのだろう。

「女の子?」

 男が眉をひそめる。

「五歳くらいで、ピンク色のワンピースを着た子なんですけ、ど……」

 話の途中で悠乃は口をつぐんだ。

 それを認識したとたん、背筋が氷を落とされたように冷えるのを感じた。悠乃は男の背後を身振りで指し示す。

「あっ、あの、あれ!」

「なんだね。そんなに大きな声を……」

 振り向いて、彼も背後に迫りくるものに気づいたらしい。小さくつぶやく。

「……マジか」

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