5.黄昏の姫君はつたなく笑う

 2021年8月9日月曜日。神奈川県川崎市某所。


 けれど、この場所の空間は完全に停止していた。

 なぜなら――バジルが、目の前の少女の正体に気付いてしまったから。


「――っ⁉」


 バジルは顔を歪め、威嚇のように低く唸った。それは敵影に対する警告の意ではなく、逃れられないと悟った獲物――自分自身を奮い立たせるためのものだ。

 しかし効果はあったようで、バジルの正面で平然を纏う少女は、明らかな動揺を見せる。といっても、バジルの敵意に粟立ったわけではなく、現状を理解したことによる戸惑いのように見えた。つまり、少女はいまだ自分が「異物」であることに気付いていなかったのだ。


 

 獲物と狩人が、現状の異様さを完璧に自覚してしまった途端に、

『森閑とした住宅地』が生死をかけた賭場へと変貌した。

 獲物少年のベットは生命、狩人少女のベットは人生――。



 瞬間、バジルは言葉にならない雄叫びを上げ、後退を開始する。


「――えぇっ……⁉」


「…………?」


 バジルが苦悶の表情で、再び動揺に呻く。少女はそれを不思議そうに眺めながら、首をかしげた。


 数歩だけ後退ったバジルはそのあと、力なく膝から崩れ落ちたのだ。

 それを見ていた少女からすると、逃避の手段を自ら断ったようにしか見えないだろう。どちらにとっても不意の出来事だったので、双方がいまだ次の動作に移行できずにいる。

 座り込んだことで一気に恐怖に駆られてしまったバジルは、一縷の望みさえ失くしたような絶望一色の瞳で、少し向こうにいる少女を見つめる。


「…………っ!」


 何か言おうと、必死に唇を動かした。しかしバジルの口元からは、嗚咽に似た醜い声しか漏れ出でない。彼の声帯は、おぞましい冷気によって凍らされていた。

 少女は何を思ったのか――死を前に抗おうとするバジルに向かって、微笑を浮かべた。

 摂氏マイナス30度を軽く凌駕するほどの極寒。

 冷笑を超越した『凍笑とうしょう』だった。

 

 しかしなぜか、肝を瞬間冷凍するようなその笑みで、バジルの表情に僅かな安堵が戻る。

 この二人のやりとりを見ていると、もはや少女の冷笑さえバジルを落ち着かせるための保冷剤だったのではないか、そうまで思えてくる。

 少女の冷たい笑顔で落ち着きを取り戻したバジルは、今までで一番大きく口を開いて、



『少年は黙っている』。



 ――ついに声が出なくなった。

 イコール、バジルの逃走手段は全て絶たれたことになる。

 すると、傍観に徹する狩人――今まで大きな行動に出なかった黒ずくめの少女が、一歩ずつ歩み始める。勿論、少女が左手で握る銀の得物も、ゆっくり歩く彼女のすぐあとを慕う。


 

 ――――――――――。


 

「……本当に、ごめんなさい」


 目の前の悲劇を見かねた少女の嘯きは、眼下で荒い息をしながら自傷行為に耽るバジルの耳には届いていなかった。

 だが仕方ない。少女のほうにも様々な事情があり、一人の少年に同情してあげられる時間も限られている。少女は仕事に熱心な性格だったので、もう二度と謝罪の言葉を繰り返すことはなかった。


 少女は左手に握る得物を振り上げて、両手でしっかりと握り直す。左手に目一杯の力を込めると、元より手の甲に付着していた血液が左腕を伝い、さらに脇腹を伝って地面へ落ちる。

 その直後に少女は、得物を少年の頭蓋目がけて振り下ろした――。


「な、んでっ……⁉」

 

   ×  ×  ×  ×


 力のこもった左手の5本の爪が、全神経の集中した右掌に思い切り突き刺さる。

 それは――本人の意思が介入する余地のない、ひどく病的な自傷行為。

 シャベルのような形状の鋭利な爪が、その摩擦で薄い皮を剝ぎ取った。桃と紅の肉が外気に晒される。


 次に、剣先みたいに突き立てられた爪が、露になった掌の肉に突き刺さり、少しだけ表面を抉り取った。醜い断面には白い糸が僅かに見える。それが筋だ。ようやく現れた白い筋を外へ掻き出すように、何度も何度も肉を抉る行為が続けられる。

 本人は目を剥いて、理性を蝕む激痛と目前に迫る死の香りにただ戦慄いていた。己の無力さに落胆することも、理不尽に与えられ続ける恐怖に抗うことも、介錯を望むこともなく、ただ自分に害をなす事象に翻弄されているだけ。対抗策を講じる猶予がないのは事実だが、少しの奇跡も信じられる気概、それさえ失っていた。



 血色の肉が爪と擦れる。削り落ちる。血が噴き出す。痛い。肉を抉る。少し窪みができる。痛い。痛い。また左手の爪が、肉と筋と神経を強く擦る。充血した肉に爪が先端から突き刺さる。肉が軋みながらめくれ上がる。すごく痛い。そしてまた抉り取られた。



 絶望で彩られた双眸が、正面の殺意を映し出す。その殺意が害をなすその瞬間まで、容赦のない自傷行為は続く。行為の目的が一切不明のまま続行される。

 抉り取る肉がなくなるまで、当人が理性を喪失するまで、柔なシャベルが壊れるまで――。



『鮮血に身を委ねろ』



 そんな言葉が、陥落寸前の理性に割り込んできた。

 意味は恐らく言葉のとおりだと思う。

 だから少年――バジルは、皮膚と肉が一緒くたになった右手を、目の前の少女に向かって突き出した。迸る血液が、醜悪な肉片が、見目麗しい彼女の眼下に晒される。


 意識が朦朧として、視界には謎のモヤがかかっている。だからそこで何が起きているのか、バジルには認識できない。

 ただ、掌から生じる不快感――血液が外へと吸い出されるような感覚だ。それだけは絶え間なく感じられた。


 それから一度だけ金属同士が擦れ合うような音がしたが、何事もなく時間が流れる。


          ×  ×  ×  ×


「痛い……。痛い……。痛い……」


 ずっと続いていたはずなのに、バジルは今さら右掌の激痛に涙する。あまりの痛さゆえ、涙はとめどなく溢れてくる。

 二つの小さな隙間からは予想もできない量の塩水が溢れ出で、熱に侵されていた頬を性急に濡らしていく。鉄板を経由したことでやや熱を宿したその水は、最後に急な勾配を伝って、自身の衣服の上へと落下する。薄黒い小さな斑点がそこに生まれた。

 落下途中になんの障害もないため、温い雫たちは途切れることを知らずに続々と零れ落ちていった。一粒、また一粒と少年の苦しみが結晶となって排出されていく。


 自らの涙に溺れそうになって、バジルは咄嗟に両目を開いた。目を開けば、自分を苦しめる洪水も多少は治まるだろうと考えての行動だ。


 すると――突如として、バジルの体から「痛み」という概念全てが消え失せた。

 瞬間の、刹那の出来事だった。

 まるで元から「痛み」なんてなかったように、ただ意味もなく地面に座っていただけのような気分になっていく。只今の、座り込んで手前に右手を突き出した奇妙な姿勢でさえも、偶然転んだ結果の体勢なのだと――錯覚が、徐々に現実を食らっていった。

 しかしその感覚はまさに愉悦そのものだ。バジルの健全な身体を蝕んでいた原因不明の激痛は完全に治まり、あまつさえ彼の身体には、甘やかで若々しい羞恥心が流れ込んできた。

 自分の行為に対する羞恥心すら、得も言われぬ快感へと変わる――最高の気分だ。



「……おい。何をしてるんだ、君は?」


 俯いてブツブツと何かを呟いていたバジル。

 突如彼の背後から響いた声に振り返ると、前屈みになってこちらを覗き込んでいる、日和だった。


「あ、あれ……なんで、ここに?」


「ここはわたしたちのアパートじゃないか……」


 本当に驚いたという表情で訊ねるバジルに、彼の態度に呆れた様子で日和は言った。

 確かにここは、二人の住居があるアパート『隣人荘』の目の前にある道路。なぜそこに住人がいるのか……聞くまでもなく帰宅するためだろう。


「ジルくん……頭でも打ったのかい?」


 呆れと心配の両方の意味で、日和はバジルにそう訊ねる。


「頭を打ったふうに見える?」


 日和の問いに対して、若干怒りを込めた声で訊き返した。

 現状で道路の真ん中で座り込んでいるバジルだ、何かしら異常事態が起きたとも限らない。

 しかし、最初にそう考えた日和だったが、バジルの表情を見た途端にその線は消え失せていた。


「そうだね……わかった、打っていないんだな。もうそれでいいよ」


「ひどく適当だな……なんか引っかかった?」


「いや、単に――わたしの中で、『ジルくんが実はマゾヒスト』なのではないかという疑惑が浮上してしまった、というだけだよ」


「はあっ⁉ そ、そんな訳ないだろっ」


 日和の突飛な発言に、バジルは両目を白黒させて声を上げた。

 日和の真意はわからないが、ひとまずこの場では、バジルへの悪態もとい冗談として片付けられた。


「……ところで、買い物帰りだった?」


 立ち上がって埃を払ったバジルは、日和の両手に揺れる二つの色違いのエコバッグを見つめながら問いかける。すると日和は自慢げな顔で顎を引き、袋を持った両手を腰に当てながら、控えめな胸を張ってみせる。


「ふふふ、ありがたく思えよ、ジルくん。今日はわたしが、君に夕飯を馳走してあげよう!」


「へえー、それはそれは。なんだか面倒をかけて申し訳ないな」


 嬉しさ半分に、バジルは頭を掻きながら日和に礼を言う。


「べっ、別に、君を押し退けたことへの謝罪とかじゃ、全っ然ないから……!」


 意外に素直だったバジルの物言いに対して、上気した顔を背けて日和は言い訳を述べる。

 それはきっと、本日の学校での出来事を指して言っているのだろう。今さら気にしてもいなかったが、向こうが気にしているのなら、その厚意に甘えるのも悪い気はしない。

 そうして結論に至ったはいいが、バジルは日和に一言だけ物申す。


「さっきのは、わざと言ってるのか……?」


「属性過積載はあまりお好みじゃないのかな?」


「……純粋なツンデレの人に謝ってくれ」


 

 くだらない会話を交えながら、二人はアパートの自分の部屋に帰っていった。

 ちなみにバジルが日和の部屋へ夕食を食べに行くまで、あと1時間――。

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