二 五条郁子

 女子大の卒業を控えた五条郁子は、或る日、父親の喜一郎から、自宅に忘れた書類をもって来てほしいと言われ父の経営している会社、五条商事にやってきた。免許を取ったばかりの郁子は車を運転出来る機会を得て喜んだ。会社の正面玄関の前に車を置いて、書類を社長室に持って行った郁子は自分が置いて来た車がどうなったか知らなかった。玄関に戻って驚いた。車の前にハンサムな男が立っているのだ、仁王立ちで。一目で怒っているのがわかる。


「あの?」郁子は恐る恐る声をかけた。

「あんたの車か?」と男が横柄に言う。

「そうです」

「この車のおかげで、お客様の車を正面玄関に横付け出来ないんだ。すぐにどけろ」


 郁子は会社に迷惑をかけていると知り、慌てて車を出そうとした。しかし、焦れば焦る程、エンジンはかからない。


「どきなさい、僕がやる」

「痛い! 待って! 今、降りるから引っ張らないで」


 業を煮やした男から、郁子は腕を掴まれ車から無理やり引きずり降ろされた。

 郁子の抗議に耳も貸さず男は郁子の車に乗り込み滑らかな動作で車を運転、会社の駐車場に止めた。男が走って戻ってくる。


「君、次からは気をつけろ。何様のつもりだ!」

「まあ、失礼な方。ここに停めた私が悪いのでしょうけど、そんな言い方はないでしょう? 故意に邪魔をしたわけではないのですから」


 郁子は必死に言い返した。男が眉をひそめる。


「人に迷惑をかけたんだ、謝ったらどうだ?」

「迷惑をかけたのはあなたではなく会社でしょう。後で、『父』に謝っておきますわ」


 郁子は父という言葉をことさら強調して言った。


「父?」

「そうですわ。私の父はこの会社の社長ですの。さあ、さっさと行かれたら。お客様がお待ちでしょう?」

「あんたに言われなくてもわかってる。社長の娘なら、会社の利益を一番に考えたらどうだ!」


 と男は言い捨て、後ろの車に向って走って行った。郁子は、男が正面玄関に停められた車から出て来た客に平身低頭している様子に、小さな罪悪感を覚えた。

 だが、自分が悪かったとわかっても、乱暴に扱われた腕の痛みはなくならない。


 「何よ、いくら私が悪いからってどなる事ないじゃない」


 いらいらと不満を吐き出した。

 その夜、帰ってきた父に郁子はその話をした。すでに腕の痛みは無くなっており、悪かったと思う気持ちばかりになっていた。


「お父様、ごめんなさい。知らずに会社に迷惑をかけて」

「いや、書類を忘れた私が悪かったんだ。気にするな。これからは秘書に取りに行かせるようにしよう。しかし、おまえが私の娘と知っても怯まない男が我が社にいたとはな。誰だろう?」


 郁子は社長である父が会社の人事部長に電話をする様を側で見ていた。


「……、ああ、私だがね、ちょっと聞きたいんだが……」


 父が男の特徴を話しているのを聞いて、郁子は頬を赤らめた。父親は男の特徴を郁子の言った通りに繰り返しているだけなのだが、郁子は心の中を赤の他人に宣伝されたようなきまりの悪さを感じた。


「郁子、この男かね? 人事部長がそれらしい男の写真を送ってきたんだが」


 父親が郁子に携帯を見せた。


「そうそう、この人よ」


 写真の下を見ると原田真一とあった。



 これが二人の出会いだった。



 郁子は生涯で初めて自分を怒鳴りつけ、社長の娘だと言っても態度を変えなかった男の顔を眺めた。社員証用に取られた写真に写る男の顔は端整で明るい表情だった。昼間見た怒った顔とはほど遠い顔をしていた。


「人事部長の話に寄ると、原田君は地方出身で東京の大学を卒業後、そのままうちに就職したそうだ。今はアパートで一人暮らし、優秀な営業マンで、ゆくゆくは営業一課の課長になるだろうと言っていたよ」

「ねえ、お父様、この方、紹介して下さらない?」

「ほう、郁子が興味を持つとは珍しいな」

「そんなんじゃないの。今日の事、きちんと謝りたいの」

「そうか、だったら早い方がいいな。明日一緒に会社に行くとしよう」


 翌日、郁子は朝早く起きて弁当を作った。原田真一に渡す為である。口に合うだろうかと心配になったが、一人暮らしの男ならきっと家庭的な味に飢えているにちがいないと自分に言いきかせた。

 父と一緒に会社に行き原田真一が社長室に呼ばれて来るのを待った。

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