彷徨う獣

 ロベルトは夜の森に慣れていたので迷いはない。

 しかし、日が沈んだあとは皆の足が急に遅くなった。松明を使えば目印となるので、頼りない月の灯りだけで進んでゆく。夜が来れば冷えは増す一方だ。男たちは気力だけで歩けるが、娘たちはそうにもいかない。けれど、ロベルトは一度だってうしろを向かなかった。振り返ればあの炎をその目で見てしまうからだ。

 すこし前にロベルトはアドリアンの指示で、王都からマイア郊外へとつづくあらゆる道を調べていた。だから、ロベルトだけがその行程を知っている。先頭はロベルトと壮年の騎士だけ、どうやら皆を置いてきていたようだ。呼び止められるまで気がつかなかった。

 遅れて男たちが追いついてくる。娘たちはまだずっとうしろにいるのだろう。ロベルトの口から勝手に落ちていたため息は苛立ちだったのかもしれないし、あるいは疲れていたからだ。休憩はいつ取っただろうか。ちゃんと飲み物や食べものを口にしただろうか。それすら覚えていない。

 もっと早く森を抜けなければ。

 焦っているのはロベルトだけではないはずだ。追っ手など考えたくなくても、しかし可能性は捨てきれなかった。旅行者や巡礼者を装うにも、これだけの人数では無理がある。

 あれこれと思考しているロベルトに、壮年の騎士は食べものを押しつける。左手には黒パンを、右手にはピクルス漬けを。涙があふれてきた。ロベルトは下唇を噛む。アドリアンと王都に向かった道中にもおなじものを食べた。それを今、思い出したのだ。

「アドリアンのことは忘れろ」

 壮年の騎士はふたたびロベルトに背を向けた。それからはじめてロベルトはうしろを見た。身を寄せ合って黒パンを食べる侍女たちも、周りをどこか警戒している男たちも皆、疲れ切っていた。彼らには行く当てがなく、これから寒さに震えながら森で夜を明かさなければならない。そこそこに深い森であるからそれが二日、三日と、いやそれ以上につづく。持ち出してきた食料は限られていて、森を抜けるまでに全員分の黒パンが残っているかどうか。追っ手が来ているのだとすれば、追いつかれないのか。そして、我らの主は。誰一人として声を発してはいなかったが、彼らの不安がはっきりときこえてくる。ロベルトはそのときになってようやく現実を知った。何も考えないように、ひたすらに前だけを見ていたというのに、知らないあいだに思考に囚われていた。だから、気がつかなかったのだ。彼女のかなしみ、いかり、それから――。

「うそつき」

 その声はひどく冷えていた。

「うそつきよ、あなた」

 紫水晶の宝石のような彼女の目は濁っている。忌ま忌ましいものを見るときのように、そういう目でロベルトを見る。厭悪と憤りが彼女を、フレデリカではないものへと変えている。

「大丈夫だって、そう言ったのはあなた」

 たったひとつだけの、偽りのことば。それが、どれだけ彼女には重かったのか。ロベルトは今になって思い知らされる。

「うそつき。うそつき……。あなたは、あたしを裏切った。みんなそう。アドリアンも、あなたも」

 フレデリカは何度も繰り返す。伯爵令嬢付きの侍女は彼女のうしろに控えつつも怯えていて動けなかった。侍女頭が止めなかったのも、おなじ気持ちがあったからかもしれない。いや、他にもいる。あれだけ親しくしてくれた台所の女たちも、執事たちも、男たちも、みんながロベルトを責める目で見ていた。

「ひとごろし」

 何の声も返せなかったのは、そのとおりだったからだ。全身を殴打されたときみたいな痛みがロベルトを襲う。あるいは、鋭利な刃で肌をえぐられているような。痛みはロベルトから呼吸を奪う。

「あなたたちは人殺しよ。お父さまを助けてはくれなかった。騎士なんて、ただの人殺しとおなじだわ」

 フレデリカは笑っていた。でも、前みたいにロベルトに微笑みかけてくれた彼女は、どこにもいない。

「かえして、あたくしのお父さまを返して。返して、かえして、かえして……!」

 彼女の拳を胸で受け止める。何度も殴られているそのうちに、なぜ自分は今ここにいるのだろうと、そう思った。騒ぎをききつけた壮年の騎士が侍女たちを叱りつけて、そうしてフレデリカはロベルトから引き離される。複数に取り押さえられてもなおも暴れようとする伯爵令嬢は、興奮を静める薬草の力で、やっとおとなしくなった。それぞれが居心地の悪い夜を過ごして、ロベルトもまた瞼を閉じる。彼女が力尽きて眠ったあとになってもまだ、悲痛な泣き声はロベルトの耳から消えてはくれなかった。

 最初の夜がそれだったせいか、ロベルトに関わる者はいなくなった。

 森のなかは獣道に等しく、慣れた者であってもそれなりに苦労した。体力の消耗も早く、特に女性たちに不調を訴える者が多い。けれども、休んでいられるような時間はなかった。ロベルトたちが王都から離れて三日が過ぎている。残っている食料もわずかだった。天候に恵まれていたのも最初だけで、今日は朝から鉛色の重たい雲が見える。太陽の光が遠のけばもっと冷えるだろう。必然的に進みも遅くなっり、誰もが体力的にも精神的にも、とっくに限界を超えていた。

 彼ら憤懣ふんまんを隠そうとしなくなり、そのたびにロベルトは苛立っていた。他の騎士たちもおなじようで、アロー家の者たちとの衝突がいつ起こってもおかしくはない状況だ。ただ、騎士たちがいなければ、自分たちではとてもこの森を抜けるのが困難なことだけはわかっているからか、面と向かって痛罵をしない。ロベルトはそれを余計に疎ましく思えた。

 言いたいことがあれば言えばいい。フレデリカのように。

 伯爵令嬢は後方にいる。ロベルトの存在が彼女にとって毒となるのなら、その方がいい。心ないことばかりを考えてしまうのは、ロベルトが傷ついているからだ。あんな風に責められて、何も感じない人間なんていない。そんなのは人形か騎士かのどちらかだ。ロベルトは騎士になりきれなかった。だから、今ここにいる。

「ロベルト」

 彼の声は三度目だった。それをロベルトは無視する。しかし、それ以上に足が前に進まなかったのは腕をしっかと掴まれていたからだ。

「はなせよ」

 威嚇するつもりの物言いでも彼は動じなかった。それどころか、ロベルトを射るような目つきをする。

「おまえも、おれのせいだって言うのかよ」

「ロベルト……?」

 気に入らない目だ。もっと幼いロベルトだったら、感情のままにその頬を思いきり殴っていた。できなかったのは余計な体力を使いたくなかったからで、けれども一度振りあげた手は彼の胸を掴んでいた。ブレイヴが抵抗しなかったのは、ロベルトが本気じゃないことを知っていたためだ。彼はただ、ロベルトを見ていた。怒っているのではなく悲しんでいた。ロベルトとおなじように。

「くたくたなんだよ、もう」

 身体も、心も。自分のものではないように重くて、ちゃんと動いてはくれない。

「わかってる。だから……、すこし休もう。ロベルト」

 彼はうしろを見る。ロベルトとブレイヴだけがそこにはいた。先頭を付いてきていた者たちも、いつもまにか置き去りにしていたようだ。

「みんなが、待ってる」

 それは誰のことなのだろう。ロベルトは知らない。ただ数ヶ月のあいだだけ衣食住を共にした仲間のことを言っているのなら、ロベルトはそんなものを認めたくはなかった。信頼という言葉も失われている。アドリアンという人がいなくなった。それだけでこんなにも壊れてしまったのだ。

 戻ろうと、彼の声に従わずにロベルトは進み出そうとする。けれども彼はやはり引き留めた。さすがに苛立っているようで、簡単に外せないほどに力は強い。

「あの人たちを置いてゆくのか?」

 肯定したならば彼はどんな顔をするだろう。でも、それの何が悪いのか。置いて行ってしまえばいいという声がする。もう一人のロベルトが言っている。そうだ。もういいじゃないか。おれたちは最善を尽くしたんだ。そもそも、この家に関わったからアドリアンは――。

「おれはいやだ」

 認めたくはない。信じたくはない。

「だから、戻るんだ。アドリアンのところに。おれも、いっしょにたたかって、」

 しかし、足は王都とは逆の方へと向かうばかりだ。あそこにいればロベルトも炎を見ただろう。あるいは王宮の騎士たちに捕まって、ロベルトは騎士でも人間でもない生きものになっていた。とどのつまり、ロベルトはおそろしいのだ。今ここで、自分だけが助かろうとしている。

 死にたくはない。けれど、ロベルトは戦場に行って戦って、いつ死んでもいいようなところに何度だって行く。ロベルトは騎士だから他の生き方を知らない。湿り気を帯びた空気はひどく冷たくて、それなのに汗が噴き出していた。震えも止まらない。ブレイヴの声が届いていないのは、ロベルトが彼の声をきいていないからだ。

 呼吸をもっと深く、それからゆっくりと繰り返さなければならない。発作的な症状は最初の頃だけに、いつだったかアドリアンがそう教えてくれたような気がする。ロベルトは教官の言葉をちゃんと受け取っていなかったから、思い出せなかった。

「どうして、死ななければいけなかったんだ」

 ロベルトはずっと自分へと問いかけていた。

 フレデリカの泣き顔を見ていたときだって、彼女の声を受けながらも本当はそればかりを考えていた。

「そうだよ。アドリアンはあんなところで死んじゃいけない人だったんだ。それが、どうして。死ななきゃならない?」

「だけど、それでまもれたものだってある」

 今度は本気で殴ろうとして、しかし彼はロベルトの拳を受け止めた。視界が暗転したのは、反対に殴りつけられたせいだ。したたかに打った頭は痛みよりも先に、痺れがきた。

「俺は、アドリアンの意思を無駄にしたくない」

 彼はロベルトの上半身を無理に起こして、強い目で睨みつける。もっと殴りつければいいものを、そうしないのが彼らしかった。ロベルトは舌打ちする。

「なんだよ、それ。わかってんのかよ。アロー伯爵もアドリアンも国に棄てられたんだ。そうだよ。やつらはなんとも思ってない。白の王宮も、元老院も、王も。騎士なんてただの使い捨ての駒なんだよ! おれも、おまえも。捨て犬とおなじ……ただの獣だ!」

「……っ! 陛下を侮辱することは許さない!」

 本格的な殴り合いがはじまる前に二人は止まったものの、その反応が遅れたのは互いに興奮していたためだ。きっと、ここに教官がいたならば二人とも叱責されたにちがいない。人の気配は前方からで、となれば仲間たちではないことはたしかだった。しかし、剣を抜いたところで間に合わなければ意味はない。こちらはたった二人だ。目で見えただけでもそこに騎士が十人はいる。追っ手を想定しても、この広い森のなかでこんなに早く一行を見つけるのほぼ不可能だった。二人がここまで騒ぎ立てなければ。

 二人を囲む騎士たちは一定の間合いを取ったまま、警戒心は見せても殺意は感じさせなかった。誰かの声を待っている。ロベルトの読みは当たったようだ。そのうしろから、一人の男がゆっくりと近づいてきた。

 先に剣をおろしたのはブレイヴで、しかし鞘へと戻すことはしなかった。簡素な防寒用の外套を纏っているところだけを見れば、そこにいる騎士たちのようだ。だが、そうではない。松明に照らされた面立ちは上流貴族のそれであり、知性を感じさせる双眸からは獣の力強さはなかった。戦場を知らない者がする目だ。となれば、ここでロベルトが傅くべき人間だろう。

「私はクレイン家の者であるが、君がロベルト・ベルクか?」

 思いもよらない名前が出てきた。クレイン家といえばイレスダートの有数な貴族であり、国王派だ。ロベルトはうなずく。

「なるほど。アドリアンは間に合わなかったのか。ざっと見たところ、ここには私の覚えがある騎士がいなかったようだが……まあ、いい。君たちの身柄は我がクレイン家で預かる」

 抗う術はなかった。男の物言いはアロー家の者たちをすでに押さえているのだと、ロベルトたちに牽制をしている。乱暴な目つきを止めないロベルトに、男はすこし笑った。

「自らを獣だと称するだけあって、体力は残っているようだな。よろしい。こちらの馬も人数も限られている。君たちには自分の足で歩いてもらおう」

 保護されたと考えるべきか、それとも皆は人質だと思うべきか。ロベルトの逡巡は短かった。ブレイヴが先に男へと一揖し、そのままロベルトを置いて行く。水を差されてしまえば仕様がない。それに、満身創痍もいいところだった。

 信用をしたわけではない。ロベルトはそういう目顔を男に向ける。無礼な行為に従者たちは気色ばんだものの、男は別段腹を立てた様子はなかった。

「先ほどの喧嘩はなかなか見物だったな。しかし、あれでいい。己をそれだと自覚している者ほど長生きをする」

 そして、未だに子どものままのロベルトに向かって、年長者のする笑みを零した。

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