マイアの一番長い日の後のこと

 休校となった士官学校の校舎は静かだった。

 士官生はほとんど残っていなければ、教官たちの姿も見えない。皆はあるべきところへと戻っているのだろう。例外はごくわずかだ。 

 騎士見習いはイレスダートだけでなく、よその国からも集まってくる。西のラ・ガーディアに山岳地帯のグラン王国出身の者も、彼らがここに留まっているのは戻るにはさすがに遠すぎるからだ。あるいは、帰る場所を失ってしまったのか。ロベルトはどちらでもなかった。

 閉鎖された食堂で飲み食いするのは許されていたものの、保存食ばかりでは飽きてしまった。ロベルトが今、王都の市街地へとつづく坂道をくだっているのも、その理由のひとつだ。上着のポケットに入れたのは金貨が三枚、これが精一杯の金額だった。

 士官生のうちは剣が支給されてもそこから先は自前だ。上流貴族の子ならば親から子に継承されるというが、あいにくベルク家にはそういった代物はないし、あったとしてもとっくに売り払っている。卒業まであともうすこし、ロベルトは以前アドリアンが話してくれた鍛冶屋を思い出した。

 居住区から商業区を抜けるまでのあいだ、ロベルトは誰にも会わなかった。

 露天商から声はきこえてこなければ、散歩をする老人たちもお喋りに忙しい母親たちも、着飾った美しい娘たちの姿もまるで見えずに、ようやく人を見つけたかと思えば巡回する白騎士団らしき騎士だけだった。どの家も窓が固く閉められていて、物音ひとつ零れない。もうすこしで春の訪れなのに、王都を彩る花たちもまだ冬の装いのまま、街全体が重苦しい色をしている。王都マイアじゃないみたいだ。ロベルトはうつむきかけた顔をあげる。鉛色の空はまもなく雨を降らすだろう。

 皆が王の死を悲しんでいる。

 士官学校が休校なのも、王都がこうなってしまったのも、彼らの王の死を悼んでいるからだ。

 北のルドラスとの和平条約がいよいよ実現する。北の厳しい冬が明けるのを待たずに王自ら北へと向かったのは、それだけ早くこの戦争を終わらせたかったためだ。イレスダートとルドラスは長い戦争をしている。百年、いやそれ以上つづいている戦争の発端は何であったのか、今はもう誰も知らない。イレスダートは繁栄とともに、いつ衰退してもおかしくはない時代をずっと送ってきた。いつだって泣くのは力を持たない民だった。ロベルトは力を持つ側の人間であるけれど、無力な人々の痛みはわかる。

 しかし、イレスダートとルドラスとのあいだで行われるはずの停戦協定調印式は、現実とはならなかった。

 イレスダートの王アズウェルは、麾下の兵とともに城塞都市ガレリアを越える。その数は三百。聖王国の王が同行させるには少なすぎる数だ。元老院をはじめとする周囲の者たちはもちろんこれに反対し、けれどもアズウェルは押し切った。敵国とはいえ、これから和平を結ぶ国にそれなりの敬意を示したのかもしれない。アズウェルは平和主義者だ。たとえ内に敵を作ろうとも、この長き戦争を終わらせるためにひとつの決断をした。それが、悲劇を起こすなど誰も思わない。そもそも、イレスダートは竜の加護を受けた国である。

 竜の末裔として、マイア王家の子らは竜の力と血をその身に受け継ぐ。生命力は普通の人間よりもずっと優れていて、たとえば剣で斬られても槍で腹を突かれても、急所さえ外れていれば治癒魔法は十分に間に合う。それが真実であるかそれとも誇張であるかをロベルトは知らないが、王には剣も盾もいる。剣となるのはイレスダートの聖騎士が一人、アストレア公爵だ。

 積年の労苦がこれでようやく叶う。

 誰一人として疑わなかったはずだった。しかし、この時代であっても和平条約は夢で終わってしまったのだ。

 ロベルトは西の裏路地から大通りへと入る。噴水広場が見えてきたが、やはりここでも人っ子一人いなかった。ロベルトが最初に王都に来たときなど人の邪魔にならないように気をつけながら歩いた。今はその心配は要らなかった。まるで街全体が死んでいるみたいだ。酒場や大衆食堂などは自粛しているのだろう。けれど、特別に外出が禁止されていなかったはずだ。アズウェル王はそれほどに民に愛されていた王だったのか。少なくとも憎まれてはいなかったのかもしれない。ロベルトは、そう思う。

 やがてたどり着いた一軒の家の扉をロベルトはたたいた。

 しばらく待っても返事がきこえないのは、いつものことだ。施錠されていないのでロベルトは勝手に入る。不用心な家でも、ここは王都マイアである。窃盗しようものならすぐに捕まるだろう。それでも悪を重ねる奴は馬鹿しかいない。

 ロベルトは奥へと進んでゆく。はじめて足を踏み入れたときはおっかなびっくり歩いたものでも、ここに来るのも三度目になればさすがに慣れた。ちいさい台所には汚れた食器が重なっていて、うしろの長机には酒瓶に食べかけの白パンとチーズがそのまま、床や廊下にも塵なのか日用品なのか判別つかない物だらけで、とにかく散らかっている。踏まないようにと気をつけるだけで大変だ。

 鉄のにおいが濃くなっていくにつれて熱気も増してきた。ただし、今日は鉄を打つ音はきこえてはこない。家主はロベルトが来るのを待っていたようだ。

 ロベルトはまず挨拶をしたが、今日も家主は声を返さなかった。唖者あしゃかと思えばそうではない。ここの頑固爺は極端に寡黙なのだ。

 最初の日にロベルトの手をじっと眺めていた頑固爺は、突然帰れと言った。おとなしく従っていたロベルトは意図が掴めないまま、追い出される。けれども、次にここを訪れたときには鉄を打つ金属音がただやかましく、ロベルトは何度も呼びかけたものの、頑固爺にはまるで届かなかった。もしかして見習い騎士など相手にしないのだろうか。それとも、ロベルトを貧乏人だと見破っているのか。悄気じょげるロベルトの背中に、頑固爺は二十日後に来いと言う。言葉を交わしたのは、そのふたつだけだった。

 ロベルトは己の剣の前にして、しばらく息を止めていた。頑固爺が目顔で合図する。余計な装飾など何もない片手剣は、左利きのロベルトにも扱いやすいように造られている。何年も使い込まれた剣のように手になじみむのはなぜだろう。思わずそのままを顔に描いてしまっていたロベルトに、頑固爺ははじめて笑みを見せた。

 ロベルトは慌てて金貨を取り出したが、頑固爺は二枚しか受け取らなかった。そんなはずはない。商業区にいくつもある武器屋だって、金貨三枚くらいでは中古品しか寄越してくれない。足りない分はすこし待ってもらって、でもちゃんと返すつもりでいた。いつまでも間抜け面をしているロベルトは、この日も頑固爺に怒鳴られて追い返された。

 大通りへと戻るその途中に、ロベルトは呼び止められる。声の主はのっぽのマルクスだった。

「なかなかいい剣じゃないか。お前に合ってる」

 嫌味でも世辞でもなかった。以前のロベルトなら剣に触らせる前に殴っている。マルクスは微笑し、自分のことみたいに満足そうな顔をしていた。ロベルトは相槌を打たずにサンドイッチに齧りつく。王都がこんな状態だから店なんてどこも空いていない。マルクスと会ったのは偶然でも、おこぼれはありがたく頂く。 

「イレスダートは、これからどうなるんだろうな」

 マルクスらしくない言葉だった。だから、ロベルトも正直な声をする。

「わからない」

 イレスダートは混乱している。和平条約も白紙に戻った。それだけではない。北のルドラスにて王が命を落としたその日から十日以上もつづいた嵐の影響で、イレスダートの北部の被害は甚大だ。山崩れは人里を飲み込み、野や畑はほとんどがだめになった。寸断された街道はいくつもあり、未だに被害の状況もすべてを把握できていないまま、白の王宮ではそれに追われている。民とちがって王の死を悲しむ暇もないというわけだ。しかし、そこでいち早く動いたのはアナクレオン王子だった。

「荒れるだろうな。元老院は争いを望んでいる」

 それこそ馬鹿げた話だ。アズウェル王は北の蛮族の卑劣な罠によって命を落とした。白の王宮内では声を大きくする者ばかりで、今はまだこうして悲しんでいる人々の心だってそのうちに憎しみの方が増えるだろう。現実的ではないと、ロベルトは思う。イレスダートの北を助けるのが先ではないのか。これまで以上の支援が要る。間に合わなければ民は餓えるし、不衛生な状態がつづけば疫病が猖獗しょうけつするだろう。今のイレスダートに戦争をする体力はない。ここで動けば確実に負ける。

 まるでどこか遠いところの話のようだ。ロベルトは失笑しそうになる。けれど、また戦争がはじまればロベルトはあの場所へと行く。前線で戦って、あるいはそこで死ぬ。特別なものだとは思わない。それが日常だ。

 妙なのはマルクスだ。マルクスの父親はかの元老院が一人、だというのに他人みたいな物言いをする。ロベルトの視線に気がついたマルクスは苦笑した。

「元老院はアナクレオン殿下を嫌っている。本当は対候補にソニア殿下を、」

「でも、王女はもう……」

 アズウェル王に同行していたソニア王女の生死は不明だった。けれども、イレスダートは王と同時に王女までも失ってしまった。

 さすがに心は痛む。会ったのはただ一度だけで、でもロベルトの前で微笑んでいたあの美しい人は、もう戻らない。王家に特別な感情がなければ、その人に恋をしていたわけでもなくとも、喪失感はそれなりにある。

「俺は、アナクレオン殿下ならば止めることができると思っている。王家の直系の人間は彼だけだ。きっと、ただしき力で導いてくださる。それができる方だ」

 これほど熱っぽく語るマルクスははじめてだ。しかし、ロベルトは違和を感じる。

 一人だけじゃない。王家にはもう一人がいる。あの夜にブレイヴは王女と会っていた。レオナ王女。たしか、その名前だった。

 マルクスがかの王女のことに触れなかったのは、彼女が側室の子だからだろうか。それとも、アナクレオン王子に憧憬の念を抱いているからか。いや、そうじゃない。これは崇拝に近い。マルクスは次期国王に神を見るような目を向けている。  

「お前、卒業したらどうするんだ?」

 ロベルトは視線を逸らす。まだ何も決まっていない。

「俺は、白騎士団に入る」

 予想外だったとしてもロベルトは驚かずにいる。マルクスの父親は元老院だ。本人の意思さえあれば簡単に入ることができるし、団長は元老院と昵懇じっこんの仲だ。マルクスはどこまでわかっているのだろう。白騎士団は王の盾なのに、今はどちらかといえば王家の敵だ。

「お前も来い。一緒に、白騎士団に」

「おれは行かない」

 行けないとは言わなかった。せめてもの意地だ。それにマルクスが誘いたいのはロベルトじゃない。小肥りのニコラだ。遠征先の村で流行病に罹ったニコラは、王都に戻ることをしなかった。小肥りが骨皮の渾名になったくらいに痩せてしまった。騎士にはもう戻れない。

 落胆も失望の声も返ってはこなかった。ロベルトはマルクスの顔を見る。のっぽのマルクスは、今でもロベルトの頭ひとつ分は背が高い。自信家で傲慢で、軽侮と嫌悪を含んだその目が、ロベルトは嫌いだった。それでも、マルクスは挫折していった奴らのなかにはいなかった。

 認めたくなくてもそうするべきだろう。同志などと堅苦しい言葉を使わなくてもいい。アドリアンの言葉を借りるならば友だ。

「だから、お前のことは嫌いなんだよ」

 別れ際に悪役を演じることはない。ロベルトはマルクスとはおなじ笑みをした。

「それはおれの台詞だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る