その日、星は見えなかった(1)

 雲ひとつない晴れの日だった。

 例年ならばイレスダートはこの時期に長雨が降るものだが、しかしここ五日ほどは晴天がつづいている。だから人々は、これは天が与えたさだめのときだと言う。

 ロベルトはただひたすらに前だけを見ていた。すこしでもよそ見をすれば、叱責が飛んでくるからだ。それだけで進みは遅れる。隊列が崩れるなどもっての外だ。

 この進軍は五時間が経過していたものの、一向に休憩を取る気配はなかった。イレスダート人は比較的健脚であると言われているが、それにしてもだ。号令があるまで立ち止まることは叶わずに、足を前へと進めるのみだ。今はまだ汗ばむくらいの陽光でも、これが真夏であったならば脱水症状を起こす者もいただろう。

 体力は残っていても先に精神がだめになる者もいる。足が疲れた。休みたい。水が飲みたい。余計なことを考えてしまえば、もうそこから歩けなくなってしまう。すぐに中隊長がやってきて、殴られるか蹴り飛ばされるか。それでも動けない奴は除名される。だから、ロベルトはただ前だけを見ていた。

 イレスダートと北のルドラストの抗争が激化したのは冬の終わりだった。

 百年、いやそれよりもっと前からつづいている戦争には終わりが見えない。

 イレスダートとルドラス、どちらかが侵略あるいは蹂躙じゅうりんされて滅びの道をたどるまで、おなじことが繰り返される。和平という言葉はない。共存が可能であるならば、とっくに平和な時代がきているからだ。

 しかしながら、時の王は血の気の多い性格であったり、逆に怯懦きょうだであったりとさまざまで、そのたびに情勢は変わってゆく。戦乱が長引けば死傷者の数もおなじだけ増え、それだけに留まらず民に負担が重くのしかかる。税金や物価があがるだけならまだしも、やがて食糧難がはじまってもなお、戦争を止めなかった王もいたくらいだ。

 たしか、それはロベルトのじいさんがまだほんの子どもだった時代だ。麦が不足してパンやミルク粥などが食べられず、替わりの作物も畑が焼かれてしまえば育たなくなる。ロベルトのじいさんは毎晩豆だけのスープを啜ったという。それをきいた幼い日のロベルトは、話の生々しさにぶるぶると震えた。

 イレスダートの未来が曇りかけたときに、一時的とはいえ休戦となったのはその暴戻ぼうれいな王が突然の病に倒れたために、暗殺された説はどこまで真実か明かされてはいない。けれども、人々の瞳にやっと光が戻ったのは事実だった。王殺しは大罪。成し遂げた者がいたとすれば、それは凶徒きょうとであるのかそれとも勇者であるのか。じいさんに問われたロベルトは答えられなかったものの、老いた祖父の表情をロベルトは忘れることはなかった。

 今、イレスダートの玉座にいるアズウェルは後者だ。温和な王だと王都の民からの評判も良く、しかし裏を返せば発言力に乏しいに等しい。実際、政権のほとんどを元老院が握っているのだ。元老院はかの悪虐あくぎゃくな王のように血の気が多い側の人間で、ルドラスを北の蛮族であると痛罵つうばし、おなじ人間であると認めない。イレスダートの子どもたちが物心つく頃には、ルドラス人が敵だと認識しているのもそのためだ。

 ルドラスとの国境に位置する城塞都市ガレリアは、もっとも重要な拠点である。だが、北東のイドニアも忘れてはならない。イドニアは王都マイアに次ぐ軍事力を持つ公国だ。老齢とはいえども、これまでに数々の武功をあげてきた公爵が存命な限り、ルドラスはまずイドニアを落とすなど考えないはずで、事実ルドラスがイドニアから南へと侵略したという過去はなく、この先も起こり得ないだろう。

 ところが、ルドラスが選んだのは、そのどちらでもなかった。

 ガレリアとイドニアとのあいだには、ガレリア山脈が屹立する。およそ馬でなど越えるのは不可能と言われた霊峰を、奴らは見事に攻略したようだ。城塞都市ガレリアに集中させていた兵力を南下させようとも間に合わず、ルドラスの侵攻を許してしまった。まさにイレスダートは未曾有の危機だった。

 ロベルトたち騎士見習いもまた、貴重な戦力である。

 戦場へ行けばそこで命を落とすのも、運命のひとつとして受け入れなければならない。入学時にその署名はしたが、しかしまさか本当に自分がそこへと立つとは思わなかった。同年代の者たちもおなじだろう。

 ロベルトは三年生でも四年生ともなれば、もう騎士と同様の扱いをされる。上級生たちはもうすこし前線に、もしくは兵站へいたん部隊に配置されている。どちらも危険な場所だ。しかし士官生たちはあくまで従軍部隊だからまず戦闘には加わらないというのも、どこまで信じていいものか。ロベルトにはわからない。誰かにきいてみたいところでも私語は厳禁、それにここにはロベルトの見知った顔は一人もいなかった。

 皆もどこかの部隊に属しているのだろうか。

 のっぽのマルクスと小肥りのニコラ。上流貴族であっても、士官学校では見習いは見習いとして扱われてきた。戦場でもおなじかどうか、ロベルトはそうは思わない。神の申し子エリックは貴重な治癒魔法の使い手なので、後衛部隊にいるのだろう。うたうたいのパウルは、それからあいつは――。

 号令がきこえた。

 皆が一斉に地面に尻をつき、ロベルトもそれにつづいた。個人の水は限られてはいたが、飲み干す勢いの者やまたは頭にかける者もいた。ロベルトは三口ほどで止めて呼吸を落とし、それからもうすこしだけ水を飲んだ。

 今日はどこまで進むのか、その説明はない。これはまだ小休憩で、昼食も取らずにまた歩み出す。たしかに空腹は覚えていても我慢できないほどではなかった。なによりも、疲れていた。他の連中もそうらしく、誰もが黙り込んでいた。

 ロベルトたちよりもやや離れた場所に輜重隊しちょうたいが控えている。騎士団とは無関係な傭兵たちは粗野で凶暴なので、騎士たちは忌み嫌う。けれど、傭兵たちもまた貴重な戦力だ。輜重隊にくっついて来ている娼婦たちに、慰められる男がたくさんいるのも事実である。ここでは近づくことさえ禁じられていても、取り締まれていないのが現状だった。

 騎士見習いたちにとってこれが初陣だ。士官生を送り出す教官の声は強く、皆の不安やおそれを打ち消す。卒業までに実戦を経験できる見習いは運が良い。つまり、これが騎士の最初だ。

 本当にそうだろうか。ロベルトは隣の奴の名前も知らなかった。目が大きくて眉も太ければ唇も厚い。いかにも自信たっぷりといった容貌だ。右の奴はロベルトよりも細身で、癖のある黒髪をよく触っている。緊張を誤魔化しているのだろう。ロベルトもまた落ち着かない。ぼくたちはどこまで行けばいいのだろう。

 そのあともしばらく進軍はつづき、一度だけ小休憩で止まってもそれはやはり短い時間だった。与えられていた水を飲み干していた者には新しい水袋が手渡されて、それならば残しておくことはなかったと、ロベルトは後悔をした。

 やがて空が赤く変わりはじめる。

 指揮官、及び上官たちの号令は正確で、騎士見習いたちは天幕の用意に急ぐ。食事係はいつも決まっていて、見習いたちはこれも手伝わされる。怠けているとすぐ怒鳴られるので、皆は無言で指示されたとおりに動いた。くたくたになる頃には大鍋からはいいにおいが漂ってくる。今日は肉入りのスープだ。腹が減っているからよく鼻が利く。

 固くて酸っぱい黒パンを、スープに浸しながら食べていたロベルトの横に誰かが座った。ロベルトはその横顔をのぞく。うたうたいのパウルだった。

「あ……、ロベルト。きみもおなじ部隊にいたんだね」

 パウルは疲れた顔をしていた。ロベルトはうなずきだけで返す。普段はお喋りなくせに、パウルは笑みさえ見せずに、また視線をスープへと落としていた。

 火は消されてしまったので、すぐに闇の時間がやってきた。

 明るい時間には綺麗に晴れていた空も、いつのまにか重たい雲が広がっている。そのうちに雨を連れてくるのだろう。天幕ではおよそ十人が窮屈な思いをするしかなく、寝袋がいくつも並ぶさまは蓑虫みのむしみたいだ。ロベルトはしばらく見つめていて、けれども疲労に負けて瞼を閉じた。その日、星は見えなかった。

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