四頁:硝子(ガラス)

 夜の黒い幕が下りた上谷公園で冴木は、エリカの首を両手で掴み、締め上げていた。

 エリカは、引き剥がそうと爪を立てたり冴木の顔面を叩いてみるが、効果はない。

 グリムハンズとしての身体能力を発揮しているのにだ。


「なんて腕力……なの」


 エリカの身体能力は、同じ体格の女性の数十倍以上。

 女と男の体格差を考慮しても、グリムハンズと常人では、差は圧倒的。

 警察官として格闘訓練を受けていようと、冴木とエリカの力量差は、人の赤子と大人の灰色熊の差に等しいはずだ。


「ガラスだ」

「ガ、ガラ……ス?」


 冴木は、左手をエリカの首から離すと、上着の左ポケットから証拠品袋を取り出して、エリカに見せてくる。

 その中には、煤けた小さなガラス片が入っていた。


「お前は、放火した現場に必ずガラス片を残している。これだ」


 ――何、このガラス?


 まるで覚えがない。

 このガラスがどうやってエリカの犯行に結びつくのか?

 たまたま燃え残ったガラスではないのか?


「これがお前の署名的行動。この犯人をずっと探していた。ガラスを残す放火魔を」


 冴木が言葉を紡ぐたび、エリカの首に太く固い指が喰い込んでくる。

 このままでは、首の骨を砕かれてしまう。

 刑事相手に、過剰な暴力は振るいたくなかったが、こうなってはやむを得ない。

 右腕一本でエリカの首を絞めている今が唯一のチャンスなのである。


 エリカはスカートの下、右太ももに付けている鞘から特殊警棒を振るい抜き、冴木の右腕に打ち下ろした。

 常人であれば知覚を許さない速攻。しかし冴木の左手が特殊警棒を受け止めた。

 冴木が破顔しながら警棒を握り締めると、軋みを上げながら警棒は冴木の手の中で小枝のようにへし折られる。


「ずっと探していた。このガラスの持ち主を」


 特注のチタン製警棒を握力のみで容易く破壊するのは、常人の技ではない。

 この場合、選択肢は二つだ。


 〇冴木がグリムハンズであり、怪力を扱える。


 〇目の前に居るのは、冴木ではなく、冴木の姿をしたワード。


 エリカは、後者であると考えた。

 目の前に居る男の外見は、エリカの知る冴木と寸分の狂いもない。

 しかし冴木は、このような超常的な技を振る事の出来ない一般人のはずである。


「あんた……誰?」


 エリカの問い掛けに、冴木の愉悦は、崩れない。


「ずっと探していた。このガラスの持ち主を」

「ガラスの持ち主……」


 とんだ皮肉だと、エリカは思った。

 まるでシンデレラのガラスの靴を拾った王子様だ。

 舞踏会の帰り際、シンデレラが落としたガラスの靴が合う女性を捜し歩く王子と、火災現場に残っていたガラス片を残した少女を探す刑事。


 王子様というには、いささかごつい気もするが、現実は、こんな物であろう。

 馬力が違いすぎて、冴木の手から逃れる事は不可能だ。

 この至近距離では、グリムハンズを使う事も出来ない。

 爆発でエリカ自身が消し炭になりかねないからだ。

 出来るのは、甘んじて死を受け入れる事のみ。


 ――待って。


 死に直面したエリカの中に、二つの疑問が生じた。

 何故火事の現場には、ガラスが残っていたのだろうか?

 シンデレラを灰以上に象徴するガラス、火災現場に必ず落ちていたのなら、偶然とは思えない。

 

 さら、もう一つ。

 何故エリカは、火災現場でいつも無傷だったのか?

 グリムハンズとして覚醒してから分かったのは、自分の起こした爆発に巻き込まれれば自分も怪我をする事。

 可燃性の灰を出すのが能力であり、防火体質になるという事はない。

 それなら何故、今までは無事だったのか?


 要因は、過去の記憶にあるの違いない。

 思い出せ。最悪の日に、何が起きたかをもっと詳細に。

 最初にグリムハンズを認識した時のように、きっと答えはそこにある。

 灰かぶり猫と出会い、エリカから生じた灰が父親のタバコを火種に大火となった。

 炎が両親の皮膚と溶かし、焼き尽くそうとした瞬間、


『あなた!! エリカだけでも!!』

『エリカ!! エリカァ!!』


 伯母夫婦の一家を焼き尽くしたあの瞬間に、


『エリカちゃん早く逃げて!!』

『みんなこっちに早く!!』

『エリカおねえちゃん!! 急いで!』


 施設の人々を灰にした瞬間に、


『先生! 沙月さんが!』

『みんな早く逃げて!! 沙月さん!!』

『エリカちゃん!! こっちに来て早く!!』


 炎が起きた瞬間の記憶。

 今まで蓋をしてきた記憶。

 終わりが目前に迫っているのに、思い出せない。

 最もひどい瞬間の記憶を。

 なんて卑怯なのだろう。

 なんて浅ましいのだろう。

 死と対面して尚、記憶から逃げ続けるというなら――。


 ――いや、違う。


 ある一つの推論に辿り着く。


 ――あの時、私は。


 思い出せないのではない。

 そもそも見ていないのではないか?

 何時も炎が起きてからしばらくの事は覚えているが、いつの間にか意識を失い、気付けば灰の中に無傷で居る。

 意識が途切れる直前に、何かがあった。

 激しく炎が燃え盛り、エリカを襲おうとした瞬間、一層強く炎が輝く瞬間に。


 ――ネクストページ?


 ガラスは、シンデレラを象徴する代名詞の一つだ。

 能力であっても不思議はない。

 火災の現場に必ずガラス片が落ちていたのなら、これは偶然ではなく、エリカ自身の能力によるものだと考えるのが自然だ。

 なら、それはガラスを使ったネクストページ。

 あの大火を生き延びるのに必要なのは、強固な壁だ。

 ファーストページの爆発に耐えうる強靭な壁の正体がガラスだとしたら?

 その力によって、エリカが炎から守られていたのだとしたら、まだ起死回生の手は残されている。


「グリムハンズ! ネクストページ!」


 エリカは、右手の人差し指の付け根を噛み切った。

 意識するのは全てを灰にする炎ではなく、全てをさえぎるガラスの盾。

すると、いつも生じる筈の白い灰は、ガラスの破片のような煌めきを放っている。

 ガラスの灰は、エリカと冴木を分かつように滞留し、エリカは、素早くマッチを取り出し、灰に着火した。

 灰は、炎となって膨れ上がるのではなく、爆ぜるようにガラスを生み出し、エリカと冴木を隔てる氷壁が如くそそり立つ。


「このガラスは、まさか!?」


 冴木は、エリカの首から手を離しながら後ずさって、聳える硝子の壁を凝視した。

 不揃いな山形に形成されたガラスの頂点は、一番高い場所で十メートルを裕に超え、横へは公園の敷地を分断するように広がり、遊具の一部を硝子の中に取り込んでいる。


「これが、私の力……」


 エリカは、解放された首筋を撫でながら、月光を吸い込んでプリズムに輝くガラスの巨壁の姿に圧倒されていた。


灰かぶりシンデレラのネクストページ」


 ファーストページの破壊の力すら防ぐ強度。


「これが私を守っていたんだ」


 グリムハンズが未熟な宿主であるエリカを守っていたネクストページ

 もっと早くこの力に気付いていれば、他の人々も守れたかもしれない。


 何も知らなかった自分が酷く恨めしく思えた。

 砕けそうになる心の内を見透かしたように、ガラスの壁は崩れていく。

 けれど心を折る訳にも、膝を付くわけにもいかない。


 知らない事が罪ならば、もっと学んでいく。

 使いこさせなかった事が罪ならさらなる修練を。

 罪悪感に屈してしまうのは、簡単だ。


 だからこそ足掻いていこう。

 醜くとも。許されなくとも。しっかりと踏ん張って歩んでいこう。

 生きている限り、戦い続ける事がエリカに出来る唯一の贖罪しょくざいだ。

 そのためにも、今ここで冴木に殺されるわけにはいかない。


「ガラスだ! このガラスだ!」


 冴木は、ガラスの破片を手にすると、恍惚と頬を赤く染めた。

 刹那、彼の背後に錆びた王冠を被った痩せこけた男の像が浮かび上がる。


「あれは、ワード?」


 エリカの推測は、間違っていた。


「分かった」


 目の前に居るのは、ワードが変じたモノではなく、確かに冴木刑事本人だ。

 しかし彼を突き動かしていたのは、全く別の存在である。


「この人……ワードに?」


 エリカが答えに辿り着いた瞬間、


「エリカ!」


 正太郎の声がエリカを呼んだ。


「先生!!」


 エリカが答えると、正太郎は焦りと安堵の混ぜった顔で微笑んだ。

 ひとまずエリカの無事を確認出来たことで、余裕が生まれたのだろう。

 一呼吸ほどの時間、エリカを見つめてから正太郎は叫んだ。


「いいかエリカ。そいつは!」

「分かってる! この人、ワードに憑りつかれてる!」


 一体いつから憑りつかれていたのか。

 今日突然エリカの元を訪ねてきたのだから恐らくは最近だろう。

 ワードに憑依された事で、エリカ絡みの火災に文字通り憑りつかれ、このような行動に出たのだろう。


「シンデレラァァァァァ!!」


 突如冴木は、砕けたガラスの群れを踏み付けながら、エリカに迫った。

 今までのエリカであれば、相手の接近を許した時点で自爆の危険があるグリムハンズを発動する事は出来なかった。

 けれどネクストページならば。

 エリカが腕を振るうと、人差し指の付け根の傷口から数敵の血が飛び出し、空中でガラスの灰へと変じる。

 マッチを放り着火すると、ガラスの灰は大波のようにうねりながら爆ぜて、冴木の身体を巻き込みながら硬化し、腰から下をガラスで押し固めて超常的な機動を完全に封じた。


顕現けんげんせよ! シンデレラの王子!」


 後方に大きく飛んでからエリカが叫ぶと、冴木の目や口や耳の穴かららべっとりとした闇が立ち上り、空中に集まっていく。

 闇は、冴木の身体から抜け切ると、煌びやかな衣装に身を包んだ痩せこけた男の像へと変じ、エリカを目指して舞い降りた。

 しかしエリカと王子のワードの間合いは、自爆範囲の射程外。


 今度は、白い灰を繰り出し、灰が王子の身体を包み込むと同時にエリカは着火したマッチ棒を放った。

 白い灰は、爆炎へと姿を変え、闇の人型を飲み込んだ。

 太陽の輝きにすら劣らない灼熱が闇を溶かし尽くすと、燃え残ったのは青い光球であった。


 ワードが光球に姿を変えると同時に、冴木を捕えていたガラスは、先程崩れたガラス壁の破片と共に、砂のように風化していく。

 真夏の夜に昇華する雪のような結晶の輝きは、少女の成長を祝福するかのように踊っている。


「これがシンデレラのネクストページか……綺麗だな」


 ガラスの反射と月光が生み出す虹色の光を眺め、感嘆かんたんしている正太郎に、


「先生!」


 エリカは、両手でピースサインを作り、笑んでいる。


「助けに来るのが遅いぞ!」


 以前にも増して頼もしい生徒の姿に、正太郎からも笑みが綻んでいた。







「あっつーい。先生にアイス奢らせよ。ダブルで」


 遠慮というものを知らない暑さに辟易としながらエリカが通学路を歩いていると、進行方向に冴木が待ち構えていた。

 幸い彼には、大きな怪我もなく、ワードの憑りつかれていた後遺症もないらしい。


「刑事さん」


 エリカの方から声を掛けると、冴木は、戸惑いがちに口を開いた。


「おぼろげにだが覚えてるんだ。あの夜の事」

「あの夜……ですか」


 つまりは、エリカがどうやって火を起こしていたのか、その手口を覚えているという事。

 冴木の追い求めていた決定的証拠。

 手に入れた真実の使い道は、刑事であれば一つしかないだろう。


 ――これで終わっちゃうんだ。


 仲間と過ごす楽しい日常も、怪物と戦う非日常も、今日でお別れ。

 けれど自分がしてきた行いは、贖わなければならない日が来ると覚悟し続けてきた人生だった。

 法的な責任を果たす事も沙月エリカにとっては、大切な戦いだから。

 逃げる事はしない。

 真っ直ぐに向かい合っていこう。


「刑事さん……私が――」

「助けてもらってありがとう」


 冴木は、直角に腰を折り、エリカに深々と頭を下げた。

 想定外の行動に、エリカは言葉を失っていた。

 罪を糾弾される覚悟をしていたのに、謝罪されたのだから無理もない。


「ありがとうって……何がですか?」


 冴木は顔を上げ、呆気に取られているエリカには、お構いなしに続けた。


「今日は、礼を言いに来たんだ。ありがとう。君の事を追いつめた俺を助けてくれた。どう詫びたらいいもんかな」


 エリカの安心を買い、油断させるための策ではない。

 冴木の言葉に嘘はないと、エリカは信じていた。

 昔から嘘を言わない人だったから。


「いえ。刑事さんいい人だから」

「俺が?」

「だって約束してくれたから」


 両親を亡くし、家を無くし、親戚をなくし、友達をなくし、エリカは全てを失った。

 炎の中で踊る少女の事を誰も信じてくれなかったのに、たった一人だけ真摯にエリカの言葉を聞き、誓ってくれた人が居た。


『犯人は、必ず俺が見つける!』


 力強い約束は、幼い頃のエリカにとっての支えであった。

 何もなかった空っぽのエリカを支えてくれた、たった一つの物だった。

 そして冴木は、あの時の約束を果たしてくれている。


「犯人は、必ず見つける。私に約束してくれた。だから刑事さんは、その約束を――」

「言うな」


 冴木は、それ以上何も言わせなかった。

 あの日から変わらない優しい微笑みで、エリカを包み込んでくれる。


「君が真実を知っていればそれでいい。被害者の君が真実を知っているのなら、俺の仕事はもう終わりだ」


 冴木は、上着の胸ポケットから名刺を一枚取り出して、エリカに渡した。


「何か困った事があれば、いつでも連絡を。定年間近のジジイだ。出来る事は少ないが力になるよ」

「ありがとう。冴木さん」


 エリカが冴木の名前を呼ぶと、彼は、訝しげに首を傾げている。


「名前、覚えてたのか?」

「はい」

「嫌な奴だったもんな。そりゃ覚えるか」

「違います」

「ん?」


 ――だって。


「優しかったから」


 エリカは、軽く会釈して踵を返すと、学校へ向かって歩き出した。

 去り行くエリカの背中を冴木が見つめていると、


「冴木さん」


 正太郎が隣に立ち、飄々と笑いかけてくる。


「辛い思いをしてる子なんだな」

「刑事部長から話を?」

「大体はな……」


 冴木から溢れ出す憂いの情は、我が子の行く末を案じているかのようであった。

 正太郎が傍に居ようと、冴木が追及を止めようと、エリカの力が多くの人々の命を奪ってしまった事実は消えない。

 強く生きようとしても壁が立ちふさがる事もあるだろう。

 並大抵の精神で乗り越えられる生き方じゃない。


 それでもエリカは、歩みを止めないと断言出来る強さが見て取れる。

 見て取れるからこそ見守る立場の正太郎や冴木にとっては、辛いのだ。

 どれほど過酷な生き方か、修羅のような人生が待っているかを少し長く生きている分知っているから。


「如月さんよ。厚かましいのは分かってるが、あの子の事を頼む。あの子は、幸せにならなくちゃだめだ。シンデレラのように」

「俺もそう思いますよ」

「なら、あんたが王子様になってやりな」

「あなたは?」

「そういう柄じゃないだろ。この顔は」


 現実は、甘くない。

 困難の先に必ず幸せが待っている保証なんてない。

 難題を押し付けて去ってしまった冴木に苦笑を交えながら、


「俺も、そういう柄じゃねぇんだけどな」


 けれど確たる信念を持って、


「まぁ、お節介な小人役ぐらいは、出来るかもな」


 正太郎は、エリカの後を追い、歩き出した。

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