三頁:遭遇

 昨晩は、狂ったように地上を照らしていた月明かりは、今日は雲に隠れて、か細い。

 重い闇がもたれかかる三島通りを歩きながらエリカは、気だるそうに瞼をこすっている。


 時刻は、深夜の二時過ぎ。

 友人関係に乏しく、これと言った趣味もなかったエリカは、夜遊びや夜更かしの経験がない。

 故に睡魔は、今まで倒してきたワード以上の難敵だった。


 エリカとは対照的に、薫と涼葉は、昼間と変わらぬ様子で、薫の肩では一匹のカラスが休んでいる。

 薫がよく偵察に使うカラスで、夕方からほんの三十分前まで、町中を飛び回ってくれた。

 けれど、成果は得られず、今では薫の肩で疲れを取っている。


「薫君の方は、空振りか。涼葉さんは?」


 涼葉のサンベリーナは、現在薫の操る鳩の背に乗って、雄志麻町を上空から監視している。

 感覚の共有にも慣れてきて、視界の右半分をサンベリーナが見ている風景、左半分を涼葉が見ている風景として分割出来るようになっていた。

 しかしサンベリーナの視界に、怪しいモノは映っておらず、涼葉は、肩をすくめる。


「今の所は、何も」

「今日は、現れないかな。さすがに」


 事件が起きた雄志麻町近辺で張り込めば、ワードは、姿を現すのでは?

 それが安易な発想であったと。エリカを後悔が苛んだ。


「待って」


 涼葉の焦燥した声がエリカの自責の念を断ち切った。


「涼葉さん?」

「女の人が、歩いてるのが見える」

「どこを?」

「西側の通りね……ここは四島通り?」

「それなら、こっからすぐだよ」

「待って……」


 涼葉の右の視界、サンベリーナの見ている光景に割り込む影が二つ。


「何か、居る……二つ」


 二つの影の姿は、疾風のような身のこなしと夜闇が手伝って、正確に視認出来ない。

 そして、それらは、女性の背後から迫り――


「このままじゃ……」

「急がないと!」


 エリカが路地に向かって最初に駆け出すと、涼葉と薫が後を追った。

 三人ともがグリムハンズにより強化された身体能力を発揮し、その速力は、車の法定速度を軽々と上回る。

 路地をすり抜けるように走って、四島通りに出た三人が目撃したのは、異様な光景であった。

 小さな商店が点在する物寂しい四島通りの真ん中で、二匹の異形が女性を組み敷き、齧った肉を引っ張り合っている。


 夜なのに、真っ赤と分かる口内に、釘のような鋭い牙が二列並んでいた。

 表皮は、一旦溶けてから冷やされたくろがねのようであり、闇の色と溶け合っている。

 一匹は、三本の鋭い角が伸び、一匹は、白い髪を腰まで伸ばしており、胸には、二つの豊満な膨らみがある。

 彼等は、尋常の生命ではありえない。

 人が空想で描き得る醜悪を超越して存在する異形の対は、紛れもなく揺蕩う力の顕現だ。


「こいつら!」


 エリカの咆哮に呼応するかのように、爆炎が異形達の頭上を薙ぎ払った。

 女性が居るから直撃は狙っていなかったが、圧倒的な火力は、異形達を女性から引き剥がし、後退させるには十分であった。

 次いで放たれた炎は、異形と女性を阻む壁のように燃え盛り、エリカは間合いを詰め、女性の盾となるように立った。

 涼葉が女性の首元に指を当て、脈を取るも、内臓を食い破られ、血糊と糞尿を撒き散らしている様から、あくまで念のための確認にすぎず、


「死んでるわ」

「間に合わなかったか……」


 涼葉と薫の落胆を火種に、エリカの感情は、熱を増していく。


「よくも!」


 湧き上がる怒りに任せ、尚且つ狙いは的確に、灰かぶり《シンデレラ》の炎が二体の異形を襲った。

 だが炎は、異形を捉えられない。

 二度、三度、四度と、繰り出し続ける炎が、夕焼けのように周囲を赤々と照らしていく。

 狙い澄ましても、虚を突いても、量で圧倒しようとも、彼等は、獣染みた外見からは想像出来ない理性的な動作でエリカの攻撃をいなしていた。


「当たらない!?」

「僕が動きを止める!」


 薫が人差し指の付け根を噛み千切り、血で三体の家来を生成する。

 エリカの繰り出す炎の隙間を駆け抜けて異形に迫り、まずは雉がその爪で髪の長い個体へ襲い掛かる。

 彼女は、これを首だけを捩って避けると、返す刀で雉を右の掌で打ち据えた。

 雉は、容易く霧散し、続いて猿が三本角の喉笛を狙い澄まして牙を剥く。

 これを角の異形は、右腕を盾にして食い付かせると、左拳を打ち下ろし、猿の頭を砕いた。


「この!」


 エリカは、手首を噛み千切り、零れ出た流血をまとめて灰に変え、投げ付けた。

 異形の周囲を白い灰が満たし、エリカがマッチを放ると、爆炎は、太陽の如く弾けて二体の異形を飲み干した。

 四島通りを紅蓮の光が染め上げ、膨大な火力は鉄すら気化させ得る。


「よし、仕留めた!」


 討伐を確信したエリカを嘲笑うかのように、異形は、猛炎の中で立ち尽くしていた。

 灰かぶり《シンデレラ》の炎が、まるで微風でもあるかのように、どちらも擦り傷一つ負っているようには見えない。


「効いて……ないの?」


 折れていく。

 自信も。

 戦意も。

 音を立てて。


「沙月さん、まだだ!」


 しかし薫の一声が、エリカを繋ぎとめてくる。

 今なら炎と黒煙で異形の視界は、狭い。

 薫は、残った犬を薫は、三本角の異形の背後から飛び掛からせる。

 並のワードであれば、致命不可避の奇襲を異形は、エリカを視界に据えたまま、犬の首を掴んで地面に叩き付け、血痕と化させた。


 ――強い。


 圧倒的な戦力は、並のワードではない。

 今まで戦った中でも、間違いなく最強の敵だと、エリカは、認識を改めた。

 恐らく一体だけを相手にしても、正太郎を加えたフルメンバーでさえ勝てるかどうか分からない。


 最大の脅威は、パワーとスピードだけでなく、今までワードが見せてこなかった戦略的な動きだ。

 反射神経と身体能力に頼っていたら、ここまで圧倒的な戦況には、ならない。

 本能で動くのではなく、エリカ達の行動を読み、思考し、最善手を選択してくる。


 さらに不気味なのは、この異形達が防戦に徹しており、攻撃を仕掛けてくる気配がない事だ。

 ひたすら不可解で、計り知れない。

 物語に沿った本能的な行動しかしてこなかった今までのワードとは違う。

 濃縮された恐怖がエリカを頭上から押し潰そうとしてくる。


 もしもあの動きを攻撃に転用されたら?


 凌ぎ切れるのか?


 倒せるのか?


 いざという時、逃げられるのか?


「沙月さん、分が悪いぜ。一旦退こう!」

「でも!」


 女性は、既に息絶えている。

 エリカ達が逃げ出しても、今ここで犠牲者が増える事はない。

 死肉が彼等の腹に納まるだけ。

 攻撃の意志を見せていない今なら逃げ切れる公算は、十分にある。


 しかし、ここで逃がしてしまえば、再び相対するまでに、犠牲者が増える可能性も否定出来ない。

 エリカの頭に浮かんでる来るのは、どうやって逃げるかという方法の模索と、逃走の意志を殺そうとする無謀な勇気ばかりであった。


「逃がしたら、あいつはまた!」

「どの道、正体も分からないから封印出来ないぞ! 倒したところで今以上に力を増してしまうんだ!」

「だけど!」


 エリカの視線が異形達から外れ、薫に向いた刹那、髪の長い異形が大きく口を開くと、喉の奥から黒煙混じりの炎が躍り出た。

 咄嗟にエリカは、腕を盾に身を守るも、肌が熱で侵される感覚はない。


 ――攻撃じゃない?


 エリカが異形達を見やるも、既にどちらの姿もなく、先程まで彼等が立っていた足元には開いたマンホールと、鉄製の丸い蓋が転がっていた。


「あいつら!」


 炎は、攻撃のためではない。目晦ましのために放たれ、エリカ達に生じた一瞬の隙をついて、下水道に逃げ込んだのだ。

 原点となった物語に行動を縛られ、本能のまま動くワードとはとても思えない。

 戦術の類を、あの異形は、行動に組み込んでいる。


「追わないと……」

「無茶言うなよ!」


 薫の言い分をもっともに思いながらも、エリカの直感は撤退を拒んでいた。


「あいつ。圧倒的に有利だったのに撤退した」

「だからなんだよ?」

「ただのワードじゃない。明らかに知性を持ってる」


 人間に匹敵する頭脳を持ちながら、超常的な力を持つ存在。

 物語に行動を縛られた今までのワードと比較しても明らかな規格外だ。


「ここで逃がしたら、もっとやばい事に――」

「エリカちゃん、ここまでよ」

「涼葉さん、でも!!」

「警察に捕まったらどう言い訳するの?」

「警察って……!?」


 遠くからパトカーのサイレンの音が近付いてくる。

 エリカのグリムハンズの爆発音を聞いた近辺の誰かが通報したのだろう。

 周囲の建物に類焼こそしていないが、アスファルトにはいくつもの焦げ跡と、大気には炎の匂いが染み込んでいる。

 この場に居て、警察に事情を聞かれたら花火をしていましたでは済まないだろう。

 エリカは、舌打ちをしながらも涼葉の指示に従い、三人で四島通りを離れた。

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