第四章:狂気の群れ

一頁:伝播する狂気

 悠木涼葉が童話研究会の部室を訪れると、恒例となっている光景がある。

 童話研究会で飼っている三毛猫、にゃん子が部屋に入ってきた涼葉の頭に飛びつき、かじり出すのだ。


「なんでなの?」


 どうしてこんな目に会わなければならないのか。

 童話研究会に来る事を楽しみにしている涼葉の唯一と言っていい憂鬱だった。


「お前の分身を喰ってたわけだから。味覚えたんじゃねぇか?」


 そして、こうやって毎度顧問の如月正太郎が茶化してくる。


「私そんなに美味しかったんでしょうか?」


 涼葉がにゃん子を引き剥がし、長机の上に置いてやる。

 他人事の正太郎は、愉快気だ。


「まずいよりは、いいだろ?」

「よくありません!」


 懐かれているのならともかく、猫に齧られるのは気分が悪いし、根本的な問題として猫の歯は、鋭くて痛いのだ。

 すぐにでもやめてほしいが、にゃん子の狩猟本能に輝く瞳が許してくれそうにない。


「まったく……」

「怒るな、怒るな。サンベリーナの制御の練習は?」


 主演級グリムハンズ親指姫サンベリーナ

 主と五感を共有する小さな分身を作り出すグリムハンズだ。

 涼葉は、無自覚にこのグリムハンズを発動してしまい、作り出された分身がにゃん子やネズミに襲われ、生きながら臓物を喰われる感覚を味わう尋常外れの経験をさせられた。

 今では、童話研究会の面々に助けられ、新米グリムハンズとして修行中の身である。


「ええ、大分。勝手に発動する事は、なくなりました。操作の方もなんとか」


 正太郎から指導を受けるうちに分かってきたのだが、サンベリーナには、本体の命令に従って分身が自動で動くオートモードと、本体が分身を直接操作するマニュアルモードの二つがある。

 さらに感覚共有の範囲もある程度までなら操作する事が可能で、例えば視覚なら、左目は本体の視界、右目は分身の視界という具合に分散させられた。

 ただし、サンベリーナ発動中は、共有された感覚を完全に遮断する事は不可能で、痛覚・触覚・聴覚等を遮断し、視覚のみを有効にするという事は出来なかった。


「そりゃよかった。しかしお前が入ってくれたおかげで、晴れて我が童話研究会も部活に昇進だ。これで部費も使えるぜ」


 涼葉は、長机の上に鞄を降ろしてパイプ椅子に座り、部室をぐるっと見回した。

 今日は、沙月エリカと亀城薫の二人が居ない。

 いつも涼葉は、弓道部の練習が終わってから顔を出すので、二人とも先に童話研究会に来ている。


「先生。エリカちゃんと亀城君は?」


 正太郎は、意地悪く笑んで見せた。


「さっそく部費の有効活用だ。買い出しに行かせてる」

「部費のって、何の買い出しですか?」

「本屋だよ。俺行きつけの。本って重いだろ。雑用が増えるとありがてぇや」


 いつか自分もこんな風にこき使われるのだろうか?

 一抹の不安が過る涼葉であった。







 エリカと薫の二人が、ぎっしりと本の詰まった紙袋、二人合わせて計十七つを両手から下げて、書店の小説コーナーの通路を歩いていた。

 エリカと薫は、彩桜市北西の鶴宮区にある県内最大の大型書店である文章館への買い出しを命じられ、一時間もかけ、ようやく注文の品を買い終わったところである。


「何冊買うのよ。あのバカ教師」

「沙月さん。残念ながらこれでも相当少ない方だよ」


 両手に合わせて十袋を抱えるベテラン雑用の薫は、既に諦めの境地に至っているが、未だ慣れず、また慣れるつもりもないエリカは、正太郎への怒りが収まらなかった。


「八十三冊が? 馬鹿じゃないの? ていうか馬鹿ね、あいつ。馬鹿決定」

「文句言ってもしょうがないって。あの鬼畜教師に捕まった時点で雑用人生まっしぐらさ」

「最悪……」

「でも、お釣りはだいぶ出たし、寄り道しようよ」


 お釣りは、好きにしていいと、五万円を渡してくれたのが、二人にとって唯一の救いだった。

 もっとも二千円ほどしか余っていないので、大した贅沢は出来ないのだが、エリカは、いち早く本の重みに疲れた手と足を休めてやりたかった。


「賛成。もう疲れた。少し休憩しよ」

「二階にカフェがあるから、そこに行こうか」

「カフェ? 行く行く! 喉乾いたよー」


 薫の提案で向かったカフェは、三十席の内、半分ほどが客で埋まっており、一面ガラス張りの窓には、鶴宮駅周辺の街並みが広がっていた。

 鶴宮駅の近辺は、それなりの規模の商業施設が並んでいるが、少し視線を遠くへやれば住宅街の景色が見えてくる。

 東京には遠く及ばないベットタウンらしい中途半端な都会。

 大した景観ではないのだが、カフェの黒い大理石調の床や、ガラスで出来た四角いテーブルの彩る内装が手伝って、エリカの目には、とても魅力的に映っていた。


「おしゃれ!」

「気に入った?」

「こういうのすき!」

「よかった」


 荷物が重いので一番出口に近いテーブルに着き、エリカは、本の入った紙袋を床に置いた。

 白くなった手を揉み、血行を整えてから、メニューに手を伸ばす。

 間もなく、黒いカフェエプロンをした女性がエリカ達のテーブルを訪れた。


「いらっしゃいませ。ご注文は?」


 予算は一人千円。

 日替わりケーキセットを頼みたいところだが、値段は千二百円だ。

 薫の性格を考えると、自分の取り分を八百円にしてくれそうだが、分かっているから却って申し訳なくなる。

 あまり長く悩んでいると、薫に遠慮を嗅ぎ取られてしまいそうだ。

 エリカは、メニューで一番安いアイスコーヒーに目を付けた。


「アイスコーヒーを」

「かしこまりました」

「え? いいの? ケーキセット頼むかと思ってた」


 意外そうに薫は言った。

 まだ一ヶ月弱の付き合いだが、互いの性格や好みは、かなり把握している。

 どうやら見透かされているらしいが、甘えてしまうのは、やはり気が引けた。


「うん。今日は、アイスコーヒーをグイッとやりたい気分なの」

「そっか」


 それ以上、薫は追及してこなかった。

 これも彼なりの気遣いであろう。


「じゃあ僕も同じものを」

「かしこまりました」


 注文を聞き、店員が厨房へ向かう。

 エリカが店員を目で追っていると、窓際の席から、


 カシャン――。


 乾いた音が響いてきた。


「申し訳ありません!」


 床には、砕けたグラスと水が散らばっており、エリカと同年代らしき店員の少女が温厚そうな面立ちをした壮年の男性に頭を下げている。


「お嬢さん大丈夫かい?」

「お怪我は、ありませんか? 本当にすいません!」


 どちらも穏やかな気性なのだろう。

 お互いに気遣いをして、頭を下げ合っている。

 その光景をエリカは、微笑ましく思い、眺めていたが、


「本当に大丈夫……じゃねぇよ!」


 壮年の男性が突如声を荒げ、テーブルを立ち上がり様、少女の顎に右の拳を叩き込んだ。

 誰もが想定していなかった異様な状況に、店内は騒然とする。

 助けるべきか?

 薫を見ると、彼も同じように思っているのが分かる。

 エリカと薫が席を立つと、


「申し訳……なんで謝らないといけねぇんだよ!! クソじじい!」


 少女が罵声を浴びせながら、左のストレートを男性の顔面に突き刺した。

 女性が繰り出したとは思えない鋭い打撃により、男性は、背後にあったガラスのカフェテーブルを砕きながら倒れ込んだ。

 そのテーブルに座っていたカップルは、互いに顔を見合わせると、倒れた男性を蹴り飛ばし、今度は、互いの頬に平手打ちを浴びせる。


「なにすんのよ!」

「てめぇこそ!」


 カップルは、取っ組み合いながら薫の左隣にあるカフェテーブルに突っ込み、テーブルの上にあった水の入ったグラスを砕いて撒き散らした。

 ここのテーブルに座っていたのは、落ち着いた雰囲気の初老の女性であったが、テーブルに置かれたコーヒーカップを手に取ると、カップ二人の後頭部に打ち下ろした。

 砕けたカップの破片が刺さり、流血が飛び散る。


 老婆は、頬に着いた返り血を蜜でもあるかのように、舌で舐め取った。

 店員も、客も、皆が入り乱れての乱闘。

 暴力が波紋のように伝播していき、乱闘に参加していないのは、エリカと薫の二人だけになっていた。


 何故殴り合う必要がある?

 しかも喧嘩の類ではない。

 彼等の振るう拳には、殺意が乗っている。

 皆、正気の枷を失い、湧き上がる暴虐の情に身を任せている。

 このままでは怪我人どころか、死者が出かねない。


「ちょっとやめてください!」


 エリカが声を上げると、店で暴れていた全員の手が止まり、エリカに視線が注がれた。


 ――止まった?


 理性を失っていたにしては、素直な反応だ。

 それが却って不気味で、エリカの不安を煽ってくる。


「グリムハンズ……」


 店のどこからともなく聞こえた女の声に、エリカと薫は、凍り付いた。

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