グリムハンズ ~彩桜高校童話研究会活動録~

澤松那函(なはこ)

第一章:グリムハンズ

一頁:炎の少女

 深更の月明かりに浸る古びた図書館が一つある。

 耐震強度の問題から建て直しが決まっているが、まだ本棚から本は降ろされていない。

 昼間は、子供達がたむろする童話のコーナーの赤い絨毯は、本来の役割と不相応に生臭く湿っている。


 その上にあるのは、女の裸体だ。けれど首から上がない。

 傷口は、左回りに捩じれており、尋常の膂力りょりょくによる所業でない事をうかがわせた。

 瑞々しい傷口から赤く甘美な芳香が立ち上り、隣で朽ちるもう一人の女の身体を包み込んでいる。

 こちらも頭部が喪失しており、年の頃は分からないが、両名共に身体つきの張りの良さを考えると相応に若そうだ。


 古めかしい人形のように打ち捨てられた二つの亡骸から昇る死の匂いを断ち切って、赤黒いイバラが雷光と見紛う速度で駆け抜けた。

 淡々あわあわとした光を纏った女が一人、愉悦に任せて一階から三階までが吹き抜けとなっている天井の中空を円舞曲ワルツのように踊りながら追跡の手を逃れる。

 その面立ちはアリハチ蜘蛛クモ蜥蜴トカゲヘビ。これらの腐れた亡骸を蜜の滴る肉塊を繋ぎに寄せて捩じりながら、人の目鼻立ちを付けたようであった。

 青いドレスは、虫喰い穴に犯され、不浄に煮立った赤い肉の泡がぽつぽつと零れ落ちている。


 女が黒くただれた唇を嬉々として歪め、眼下に目をやると、絨毯を突き破る赤黒いイバラの群れがその身を縛り上げた。

 空中に貼り付けとなった女に一人の男が駆け寄っていく。

 精悍に整えられていながらも、適度に力の抜けた面立ちをしている。

 男は、黒いネクタイを緩めながら朱色のジャケットのポケットから特殊警棒を取り出して、本棚とイバラを足場に空中へと駆け上がった。


「取った!」


 男が警棒を打ち下ろした瞬間、イバラに縛られていた女は霧散し、獲物から伝わるはずの手応えは空気を切るばかりであった。

 舌を打ちながら着地した如月きさらぎ正太郎しょうたろうは、先程まで異形の女が居た吹き抜けの虚空をじっと見つめている。


「さすが題名級タイトルクラスのワード。俺のグリムハンズじゃ仕留めきれねぇな」


 正太郎は、苦笑すると、覚悟を決めたかのように頷き、


「やっぱり、あいつを引き込むしかねぇか」


 嘆息たんそく交じりに夜の図書館を後にした。







 もっとも古い記憶は、白い灰だった。

 灰にまみれて白くなった私は、一人泣いていた。

 こうなる前に何があったのだろうか?


 私の家の天井をぷかぷかと浮かびながら、きれいなドレスを着た少女が踊っている。

 きっと彼女は、おとぎ話に出てくるお姫様なんだと信じていた。

 母と一緒に読む絵本が好きだったから、そうなら素敵だと思ったのだ。

 はしゃぐ私の傍にタバコを持った父が近付いて来て、母に叱られる。

 いつもなら、それで終わり。


 けれどその日は違った。

 父が私に近付いた瞬間、視界は、炎に埋め尽くされた。

 煌々こうこうと全てを飲み干す紅蓮の中を、少女は、泳ぐように踊り、嬉々として空へ舞い上がっていく。

 そして私は、一人になった。


 伯母夫婦は、とてもよく出来た人で、大火を生き延びた私を快く引き取ってくれた。

 実の子供達と分け隔てなく接してくれて、傷ついた私の心は癒された。

 私の誕生日には、町で一番大きなケーキを買ってくれた事が本当に嬉しかった。

 七本のろうそくが灯り、吹き消そうとした時、あの少女が現れて、また視界は明るい赤に染まっていく。


 また行き場を無くして私は、児童保護施設に引き取られた。

 不自由なく暮らしていたし、施設の人も同じ境遇の仲間もみんな優しくて、ここでならきっと幸せになれると思った。

 やがて九歳の誕生日を迎えて、ろうそくの火を吹き消す時、またあの少女が宙で踊っている。

 結果は、言うまでもなかった。


 大切なものは、みんな燃え尽きて、灰となって私の頭上に降り注いだ。

 怖い人達に数日もかけて怒鳴られて、生き延びた友達から――と呼ばれて、いつしか居場所はなくなり、一人になっていた。

 あの時、何と呼ばれたのだろうか?

 どうしても思い出せない。

 あの時、みんな私の事をなんと――。




「化け物!!」




 つんざくような不快な音が自分の悲鳴であると沙月さつきエリカが気付いたのは、見慣れたしみだらけの天井が目に入り、過去を夢に見たのだと理解したからだ。

 壊れかけた座卓とリサイクルショップで買ったタダ同然のテレビ、壁のハンガーに掛けられた真新しい茶のブレザーしかない六畳間。

 唯一得られた居場所に自分が居ると分かり、エリカは安堵していた。

 けれど幸せだった頃とは、夢の中でしか出会えないと思い知らされる。


 ――ああ、まただ。


 こんな朝は、いつも涙ばかりが頬を伝う。

 無駄と分かっていても、灰に塗れる前のあの頃に帰りたいと願いながら。


 





 彩桜さいおう市は、人口百三十万人が暮らす政令指定都市である。

 東京のベットタウンとして人気があり、全国でも高所得者の多い地域だ。

 市の最南端、上谷区にある私立彩桜高校に通う沙月エリカは、教室に着くなり、無言で最後列の窓際の席についた。

 いつものように窓から外の景色を眺め始める。

 教室を支配するクラスメイトの喧騒が酷く鬱陶しかった。


 彼等を賑やかしているのは、二週間ほど前から上谷区を騒がせる連続失踪事件だ。

 被害者は、いずれも専業主婦の女性で、年齢層は二十代から四十代と幅広い。

 既に七名が忽然こつぜんと姿を消しているが、いずれも発見に至っておらず、同じ区内での連続失踪という事もあって、連日テレビのワイドショーやSNS上を賑わせている。


「一昨日も失踪した人、出たんだってな」

「一度に二人だろ。こえー」

「どこ行っちゃったんだろう?」

「変態にさらわれたんだよ。間違いねぇって」

「こわいねー」

「被害者は、全員結婚して子供の居る女性だって」

「お前も狙われるかも」

「私、主婦ってほど、ババアじゃねぇし!! そもそも子供居ねぇし!!」


 身近で得体のしれない何かが起こっている。

 しかし自らがその餌食になる不安は、微塵もない。

 安全な所から人の不幸をさかなに、都合のいい恐怖に酔っているだけ。

 そんなクラスメイト達が不愉快だった。

 エリカが机に掛けていた鞄を気怠そうに取って立ち上がると、隣の席に座る女生徒が声を掛けてきた。


「沙月さん。どうしたの?」


 ――誰だっけ?


 入学してから一ヶ月半。

 クラスメイトの名前は、誰一人として覚えていない。

 隣の席の彼女ですら例外ではなかった。

 エリカの物覚えが悪いわけではない。

 ただ面倒なのだ。

 どうせ名前を覚えても意味がないのだから。


「具合悪いから帰る。悪いけど先生来たら、そう伝えてくれる?」

「分かった。送ろうか?」


 心からそう言ってくれているようだった。

 昔なら友達になる事もありえたのだろうが、それは抱くだけ無駄な希望なのだと学んだ。


「大丈夫。ありがとう」


 素っ気なくエリカが教室を出て行くと、教室を支配していた話題の矛先がエリカへと変じた。


「また早退かよ」

「あいつ変わってるよな」

「入学式の時は、めっちゃ可愛いとか喜んでたじゃん」


 通った鼻筋に、二重のくりっとした瞳と、カラコンを入れたように黒目がちな瞳。

 肌も一切の化粧っ気はなく、朝露のように瑞々しく透き通っていた。

 背中まで無造作に伸びたボサついた髪でありながら尚、覆い隠せない美貌。

 入学当初、沙月エリカは男子の羨望と女子の嫉妬を集めた。

 しかし今では――。


「可愛くてもあれじゃな。おまけにあいつ放火の前科があるって噂だぜ?」

「マジかよ!」

「あの子暗いもん。やりそうー」

「そういうのやめなよ!」


 エリカの隣に座る女生徒の一喝で、教室を支配している好奇心が一気に集束していった。

 壁越しに自分の噂話を聞いていたエリカは、隣席の彼女の優しさに苦笑を浮かべる。

 何故なら彼等の言う噂の方が真実なのだから。


 幼い頃から大火には縁があった。

 四歳の頃、住んでいたマンションで火事が起き、両親は焼け死んだ。

 火元は、エリカの家族が住んでいた部屋。

 犠牲者は十三人に及び、エリカの父が喫煙者であった事からタバコの不始末が原因であると警察と消防は結論付けた。


 次は、七歳の時。エリカを引き取ってくれた母親の姉である伯母夫婦だ。

 エリカを除く一家五人は、全員焼死。十二件に延焼して最終的な犠牲者数は、九人。

 その次は、九歳の頃。児童保護施設で犠牲者十七人。

 三度の不審火に警察はエリカを容疑者とし、連続放火殺人事件の捜査が始まる。


 二年程、警察署と精神病院を往復する日々を過ごし、証拠不十分で容疑が晴れると父方の親戚が後見人になってくれた。

 生活費を出す事を条件に同居は断られたが、これ以上他人と関わりを持ちたくないエリカにとって理想的な提案だった。

 以来最寄りの上谷駅から徒歩三十分。エリカ以外の入居者が居らず、大家も別宅に住んでいる築四十年のアパートで独り暮らしをしている。

 木造だが近くに家はないから延焼する心配もないし、近所付き合いもしなくていい。

 孤独にさえ目を瞑れば、エリカにとってこれほど快適な居場所もなかった。


 今までの大火は、自分の意志で火を点けていない。

 しかし火元が自分だという自覚はある。

 何時も視界が炎に飲み込まれ、気付けば大切な居場所が焼き尽くされ、自分だけは無傷で助かっている。


 友達と呼べる存在が出来ても、身の上を知られると一斉に離れていく。

 それでも責める気にはなれなかった。

 エリカが彼等の立場だったら同じようにしていたはずだから。


 唯一友人と呼べるのは、彩桜高校の校舎裏に住みついている三毛の野良猫。

 あの子に餌をやって頭を撫でさせてもらうために学校には来ているようなものだ。

 エリカが缶詰を開けて地面に置くと、生垣の中から悠然ゆうぜんとした足並みで、三毛猫が姿を現した。

 野良の割には毛艶が良い。エリカの与えているのがペットショップで買える最高級品だからだろう。


 後見人を務める父方の親戚は相当の額を仕送りしてくれて、さらに住んでいるアパートの家賃は激安。

 欲しい物がないエリカにとって、唯一贅沢に金を使えるのが野良猫の餌代だった。


「ようエリカ」


 そんな至福の時間に、時折割り込んでくる男が居る。


「如月先生」


 それが運命の人、如月正太郎であった。

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