14日目「ノート」

「麻里さん。他にやりたいことは?」

「……これ、難しくない?」

「難しいですね。でも、楽しいじゃないですか」

 私は朝からノートと睨めっこを続けている。

 表紙を捲って数ページは彼女とのルール。その次にはこの本のテーマである命題の証明問題。そこからは私の「したいこと」を綴っている。

 ノートに書く項目は彼女のアドバイス通りに書き進めていった。

 まずは直近でしたいこと。次に少し足を運べばできること。それから実行するのが難しいこと。そして一生のうちに行いたいこと。

 色々と書いた。頭を悩ませた。しかし、ぱっと頭に浮かぶことはそこまで難しくないことばかり。彼女のように壮大な願望は浮かばなかった。

 買い物に行って日用品を買い足す。料理をできるようになる。温泉に行きたい。

「もう浮かばないよ」

「まだ百個も書いてないじゃないですか」

「でもそんなに浮かばないって」

「まぁ、普通はそうですよね」

 明日が来ることが普通になってしまった私には難しい問題。

 文字通り一生懸命に命を燃やす彼女とは違う。

 そもそも私は無気力な人間なんだ。夢も希望も考えてこなかった。

 だから私の願望は漫然と命を繋ぐことだけ。

「じゃあ、夏休みらしいことを書いていきましょうよ」

「夏休みらしいこと?」

「山に行ったり。海に行ったり。もっと細かく書いてもいいんですよ。あの山に登りたいとか。海岸でスイカ割りしたいとか」

「私がそんなことしたいと思う?」

「これを機に変わってみるとか」

「それは難しい」

「変わりたいとも思いませんか?」

「今の所はないかも」

「仕方ないですね……。じゃあ、変わりたいと思う時があったらそれを書きましょう」

「来ないと思うけどなぁ」

「分からないもんですよ。未来って」

 私よりも年下な筈なのに、その言葉には説得力がある。私も、この私から変わりたいと思う日が来るのだろうか。

「やっぱりさ、莉緒のノート見せてよ。私だけの頭じゃそんなに沢山思いつかない」

「それは絶対に駄目って言ってるじゃないですか」

「なんでよぉ」

「麻里さんて本当にデリカシーないですよね」

「自覚はしてる」

「いや、多分麻里さんが自覚してるレベルよりも実際は遥かに酷いと思いますよ」

 莉緒は自分のノートを私物の一番下に隠す。

 ノート書き始めてから、何度も彼女に彼女のノートを見せてくれと頼んでは怒られた。

「これは私の全てなんですよ? それを見せてくれとか。どういう神経してるんですか」

「昨日は見せてくれたのに?」

「最初と最後のページだけです。始まりと終わりは誰だって同じなんですよ。どうせ人は死ぬんですから」

「莉緒の証明に付き合わせてくれるって言ったじゃん」

「それとこれとは別です。私だって恥ずかしいんですから!」

 私の手の中にある本はただのノート。私はまだこの本に書いたことを全てやり遂げることができるとは思っていない。

 でも莉緒は違う。莉緒はあの本に書かれる事象は全て完遂できると信じている。それこそ必死に彼女はそれを熟そうとする。

 だから彼女にとって、あれは予知書。

 ただのやりたいことを連ねたノートではない。

 でもそう考えると、やっぱり見てみたいじゃん。

 彼女がどのような人生を想像しているのか、気になってしまうじゃないか。

「絶対に見せませんからね!」

「何も言ってないじゃん」

「顔が言ってます!」

 莉緒は少しずつ私から距離を取って、天敵に怯える小動物のように威嚇する。

「麻里さんも、大人なんだからもっと人の心を読み取ってください」

「私には無理」

「諦めないでください!」

 私はノートに願望を書き込むことを諦め、ペンを放り投げる。

 コロコロと転がったペンは莉緒の足元へ向かった。

「限界ですか?」

 床に寝転がった私を覗き込むように莉緒の顔が視界をうめる。

「はい。限界です」

 諦めることが得意な私はその問に即答して目を閉じる。

「じゃあ、読んでもいいですか?」

「自分のは断固拒否する癖に人のは見るんだ」

「別に嫌だったら見ませんけど?」

「私が拒まないのを知ってて言ってるでしょ」

「はい」

「……いいよ。勝手に見ろ見ろ」

「はーい」

 勝負に勝ったかのように莉緒はにぃと笑い、私を飛び越えるようにしてノートに近づく。

 ふむふむ、なんてわざとらしく声を出しながら莉緒は私の欲望を読んでいく。テストを目の前で採点されている気分だ。流石にこればかりは緊張する。

「全部は難しいかもしれないけどね」

 だからそんな言い訳を挟んでみたり。

「これって夏休みにやりたい事ですか?」

「まぁ、そのつもりで書いたけど」

「じゃあ、全部やりましょう」

「は?」

「そんなに難しいことじゃないですよ。夢が無いのか、高望みをしていないのか。そんなに難しい事、書いてないですし」

「いや、無理でしょ」

「どれが?」

「温泉旅行とかさ。なんとなく書いたけど。実際予約とかもう埋まってるんじゃない?」

 莉緒は私に首を振る。こればかりは私が正しいと思うけど。

「麻里さん。こんな言葉を知っていますか?」

「なに」

「思い立ったが吉日、です!」

 難しい言葉を言い放ったつもりなのか、してやったり顔を披露する莉緒。多分小学生でも知ってるよ。その言葉。

「そうはいってもさ」

「やりたいって思ったら、すぐにやりなさいって――」

「いや、意味は知ってる」

 知識の披露を邪魔された莉緒は不機嫌な顔を見せながら携帯を取り出す。

 なにやら私への文句をぶつぶつと言いながら検索を掛けている。そんな姿を眺めていると、一分も経たずに携帯の画面をこちらに向けてきた。

「ほら、こんなにありますよ。今週は流石にきついですけど、来週からだったら沢山。熱海とかいいかも」

 画面に映るのはしっかりとした温泉宿。熱海なんて言っているし、きっと立派な宿なんだろう。お値段が張りそうなのは間違いない。

「夏休みだから高いですね。えっと、あ、こことかどうです? 一泊二日で一人二万」

 少なくとも高校生の金銭感覚ではない。彼女の行動力に舌を巻きながら、私は頭を傾げて悩んでみる。温泉には入りたいけれど別に宿に泊まりたいとう欲はない。それだったら日帰り旅行でもいいし。

「咄嗟にその値段は結構厳しくない? 移動とかにもお金かかるでしょ」

「別に私は気にしないですけど」

「絶対におかしいって。その感覚」

 彼女の口座に多額の数字が刻まれていることは本当だ。私と生活を始める時に彼女は証明と言って、お金を降ろした際の明細を見せてきた。貯金をしない大人よりは多いであろうその残高に驚いたが、彼女の羽振りの良さはおかしい。あの貯金だってこの夏で使い切ってしまっては駄目だろうに。

「あ、変な想像しないで下さいよ? 私だってお金の使い方は分かってます。財布のひもを締める時と緩める時をわきまえているだけです」

「やけになって、散財してたりしない?」

「私はこれからちゃんと生きていくんですよ? それこそ自殺じゃないですか。お金は命の次に大切な物ですもん。ちゃんと考えてますって」

「ならいいけど」

「麻里さんこそ、財布のひもを締めっぱなしじゃないですか。お金は溜める為にあるんじゃないですよ?」

「私は使う先が無かっただけ」

「趣味もなければ、買い物もしない。料理も口に入れば何でもいい。そんな生活してたら、そりゃ溜まりますよ」

 そんな生活に慣れてしまったから、お金を使う事にも躊躇ってしまうんだ。

 宿なんかに泊らなくても、家で眠れれば十分だし。態々慣れない枕を使うこともないし。料理だって莉緒の手料理の方が絶対美味しい。

「じゃあ、なにかお祝いにしましょうよ。何かないですか? 記念日とか」

「うーん」

「あ、教員採用試験のお疲れ様会とか」

「それはあまり乗り気にならないかも」

「えー」

 だって多分落ちてるし。欲を言えばあの日の事はあまり思い出したくない。

 記念日か。

 自分のことに無頓着だから、記念日なんてものを決めたことも……。

「あ、私、来週誕生日」

「それを忘れるってどうなんですか」

「大人になると忘れるもんなの」

 誕生日か。すっかり忘れていた。友達に教えたこともなかったから、祝われたこともないし、あまり実感がない。私の場合は高校生の頃から誕生日は忘れていたし。

「良いじゃないですか。麻里さんの誕生日旅行!」

「ほんとにやるの?」

「やりましょ? 宿ここでいいですか? 箱根とか草津とかも調べてみます?」

 目を輝かせながら私を覗く彼女の言葉に首を振ることなんてできなかった。

「……わかったよ。行こ。温泉。莉緒の好きな所でいいから」

「やった!」

 こうして私は少しずつ変えられていく。

 変わりたいと思う日は来ないなんて言ったけれど、実のところはもう既に変えられていた。

 私は現在進行形でこの少女と共に変わっていく。

 嫌な気持ちがしないのが、実に厄介な所ではある。

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