第4章 懲罰

第7話 錠の音

 迂闊だった。

 薫の部屋で新しく買い直した文庫本を読んでいるうちに時が過ぎていた。聡一からもう出掛けるという旨のメールを受信した時にはすでに正午を回っていた。

 屋敷へ直行するバスは一時間に一本来るか来ないかだ。祐は、制止する薫を振り切り、近くまで行くバスへ乗車することにした。近くまで、と言っても、屋敷にもっとも近い停留所から屋敷までは一時間以上の道程を歩くことになる。それでも、祐は急がねばならなかった。

 佳也子と二人きりになる。

 灼熱の太陽の下、祐は無心で走った。元は空のペットボトルに薫の家で水道水を入れてきたのが良かった。灼熱の太陽の下で喉を鳴らしながら飲む水はどんな水より美味だと感じた。

 県道沿いを走り続け、山の中に入り、ようやく洋館が見えた時には、水は空になっていた。

 どうしようもない渇きを覚えた。屋敷に辿り着いて良かったという気持ちが初めて湧いてきた。水を飲める。喉の渇きを癒せる。

 肌の灼けた痛みを感じつつ、顎を伝う汗を手の甲で拭い去る。

 重い扉を押し開けた。飛び散る汗のしぶきとその汗で張り付いた衣服は気持ちが悪かったが、もうすぐ着替えられる。

 鞄を玄関に放り投げた。

 何とか日のあるうちに屋敷へ帰ってこれた。聡一が出掛けてからもまだそんなに経っていないはずだ。家政婦も誰かはいるだろう。

「お帰りなさい」

 全身が総毛立った。

 顔を上げると、階段の途中に、佳也子が日傘を抱き締めて座っていた。

 細めた目で、祐を見つめていた。

 微笑んでいた。

 祐が帰宅したことを、心から喜んでいる、かのように見えた。

 寒いと思った。急に、全身が冷えていくのを感じた。汗が冷め始めたのだろうか。

 佳也子が、微笑んでいる。穏やかな笑みを浮かべて、自分を見つめている。

 寒い。

 佳也子が、おもむろに立ち上がった。一歩ずつ、踏み締めるように、確かめるように、階段を下りてくる。

 祐の目の前まで来た時、彼女は再度「お帰りなさい」と繰り返した。

「貴方が帰ってくるのをずっと待っていたの」

 干からびたように白い色の唇が、甘い言葉を囁く。

「ずっとずっと待っていたのよ」

 心に粘り付くような甘さで、言葉を紡ぎ出す。

「寂しかったわ」

 佳也子は何も、言わなかった。

 多量の汗をかいていて、足元も土で汚れていて、彼女が園芸用のホースで水をかけて洗おうと思ったあの時よりもずっと汚れているはずなのに――潔癖な彼女の嫌う汚い状態のはずなのに、彼女はその点についてまったく触れずに歩み寄ってきた。

 祐の一歩目の前で、日傘を大事そうに握り締めたまま、彼女が立ち止まる。

 笑みは、絶やさない。

「帰宅して早々で申し訳ないのだけれど」

 祐の肩が震えた。

「手伝ってほしいことがあるの」

「な……に、を」

 祐の震える声を、佳也子は嗤わなかった。ただ、笑っていた。

「大したことではないわ」

 そう言って佳也子がしてきたことの数々を思うと、信用してはいけないと脳内で警鐘が鳴るのだが、

「納戸から出してもらいたいものがあるのだけれどね。お父様が行ってしまったので」

 佳也子がこんな風に微笑んでいるところなど今までに見たことがなかったので、何が起こっているのかと思って、

「納戸から……?」

「そう。少し重たいものなのよ」

 真夏の陽気でも長袖のブラウスを着ている佳也子の、細過ぎる手首を見た。

「お母様の遺品なの。鏡よ。姿見」

 確かに、姿見ほど大きい鏡は、佳也子の腕では運べそうにない。佳也子の腕は、それこそ、日傘より重いものを持ったことなどなさそうなほどに細いのだ。まして鏡は割ってしまったら大事になる。

 母親の遺品だと言った。

 自らの青白い容姿を嫌い鏡の類を見ようとしない佳也子にしては珍しい言葉だったが、この世で唯一の母親の遺品であれば欲しがるものかもしれない。

「納戸から出して、お前の部屋に持って行けばいいのか?」

 佳也子は「ええ」と頷いた。

「案内するわ。こちらよ」

 佳也子が歩き出す。

 祐は、玄関に放り出した鞄を見て、「荷物」と訴えた。だが、佳也子は止まらない。振り返ることもなく、「大丈夫よ。誰も盗らないしなんなら後で誰かに片付けさせればいいわ」と答えた。誰かに盗られるとしたら、犯人は佳也子以外にあり得ない。その佳也子が目の前にいる以上は、大丈夫だろう。


 佳也子が向かった先は、離れの手前、屋敷の母屋の奥に設置された階段の下だった。

 この屋敷では廊下が長過ぎるために階段が複数必要だ。踏み段の幅は玄関を入ってすぐの階段の半分以下だが、母屋の端に用事がある時は便利そうである。

 階段の下に、戸があった。存在だけは知っていたが、中に入ったことはなかった。

 こんな隅に、佳也子の母親、つまり聡一の妻の遺品が押し込められているとは、と、祐は眉をひそめた。

 聡一の妻はどんな人だったのだろう。佳也子が十歳の時に亡くなったと聞いたが、何か、自分の想像を絶するような不幸が遭って、忌まれるように母屋の果てへしまわれたのであろうか。

 佳也子や聡一に尋ねる気にはなれなかった。後で古くから家政婦をしている山本辺りに訊こうと思った。それも、あくまで密かに、だ。佳也子や聡一に、屋敷の中、屋敷の過去を探るような真似をしていると知られたくない。

 佳也子がどこからともなく鍵を出した。戸の取っ手についた穴へ差し入れる。錆びた金色の鍵は古めかしく、凝った今時の鍵とは異なって単純な造形だった。この屋敷が建てられた当初からあるものかもしれない。

 戸が、音を立て、軋みながら開いた。

 中は、真っ暗だった。昼間であるにもかかわらず、どこに何があるのか、まったく見えなかった。ただ、廊下から入るわずかな光で、かなり狭いことだけは見て取れた。大小様々な箱が積まれている。

「入って。今、灯りを点けるから」

 佳也子に促されるまま、足を踏み入れた。

 踏み入れてしまった。

 背中に衝撃が走った。

 強く鋭い痛みで体の均衡を崩した。前のめりになった。

 振り向くと、佳也子が日傘を振り翳していた。

 畳まれたままの日傘が、もう一度振り下ろされた。腕で防御しながら一歩下がった。

 突然のことでそれ以上の対応は考えられなかった。

「かや――」

 痛みはさほど気になるものではなかった。元より佳也子の腕でできることなど祐にとっては大したものではなかった。

 だが祐は胸の奥が冷えるのを感じた。

「私がいないところにいた方が祐は楽しいのよね」

 その一言を残して佳也子は戸を閉めた。

 金属音が鳴った。錠の落ちた音だった。

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