第2話 綺麗な背中、醜い疵

 階段を上がってすぐのところの戸を開けた。

 南西を向いた角部屋は広く、大人数で暮らすことに慣れていた祐は、床を余らせていた。簡易な造りの机と書棚、ベッドしかない。荷物はすべてクローゼットの中に納まった。祐の留守中も家政婦たちが代わる代わる拭いてくれたに違いない、床は輝いており、窓の桟にも埃は見当たらない。

 祐がもしもこの家の子供だったら、この部屋を当然のものとして享受したのかもしれない。部屋の中はもう少し雑然としていて、家政婦たちを落胆させたかもしれない。

 この部屋の戸には、鍵がない。

 ここは祐のための子供部屋ではない。祐の飼育小屋なのだ。

 シャツを脱ぎ、床の上へ捨てた。

 窓からの風が裸の胸を撫でていく。涼しい。

 清涼感に身を委ね、肩の力を抜いた。ここがどこなのか忘れそうになった。

 すぐに我へ返って、鞄類に手を伸ばした。濡れそぼった鞄類の中身が心配だった。

 黒いスポーツバッグの方は無事だった。けれど、こちらに入っているのは片方の肩で支え続けてもさほど労のない軽いもの、すなわち衣類が中心だ。

 紺色のリュックサックを開け、祐は肩を落とした。案の定、学校から持ち帰った教科書や参考書の類が濡れて色を変えていた。

 急いで書籍類を取り出し、床の上に並べる。ケースに入った英和辞典を大学ノートの上に載せて圧力をかける。すでに水気を吸ってうねり始めていたところだ、もしかしたら手遅れかもしれない。中にはリュックサックの生地の紺がうつってしまっているものもある。

 迂闊だった。敵陣に乗り込む気概は携えていたつもりであったが、備えが足りていなかった。これからは、大事なものはすべて防水加工を選んだ方が良いだろう。

 ただし、選べれば、の話だ。

 リュックサックの底の方に押し込んでいた文庫本を取り出した。無事であることを確かめて、大きな息を吐いた。いつの間にか大切なものはできる限り奥にしまっておく癖がついていた。

 ベッド際に座り込み、ベッドの上に文庫本を放ってから、気がついた。

 自分の胸の上で、銀の十字架が揺れている。長い方も四センチ弱と小さな十字架だった。

 十字架を握り締めた途端、祐は、自分の眉間の皺が緩むのを感じた。体に入っていた力が徐々に抜けていった。

 自分がこうして戦っていることを、神はご存知だ。何も絶望することはない。

 そう思い、大きく深呼吸をした、その時だった。

 戸が、ノックされた。

「祐」

 男の低い声が響いた。

 祐は慌てた。こんな時に限って自分は半裸だ。十字架を隠すシャツがない。

 男は待つことなどしない。

 部屋の戸が、開けられた。

 入ってきたのは、案の定、聡一だった。

 充分育ち切ったはずの祐よりも高い背に、脂肪だけでない厚くたくましい胸板と細腰の、およそ五十代とは思えない男だ。年相応なのは撫でつけられた白髪交じりの髪だけで、額に刻まれた皺を考慮してももう少し若く見える。

 祐には感情の見えない目元が佳也子とよく似ている。祐の心に、聡一と佳也子は父と娘なのだと、刻み込ませる。

 十字架を握り締め、視線を床に逸らして、精一杯虚勢を張って「勝手に入ってくるな」と訴えた。けれど祐のそんな弱々しい主張など聡一の歩みを止めるには足らない。彼は長い足で部屋の中央まで来ると、「熱心だな」と声を掛けてきた。

「全教科の参考書を持って帰ってきたのか」

「一応。課題が出てるから……夏休みの」

「相変わらずスパルタなんだな」

 しゃがみ込んで数学の教科書を手に取りつつ、聡一が口角を持ち上げる。

「だが、課題さえこなしていれば――成績さえ維持していれば、とやかく言われないだろう? 良い学校だ」

 「昔からそうだった」と、聡一が語る。「私がいた頃もだ」という声は何となく嬉しそうに聞こえる。

 祐が在籍する学校は、聡一が卒業した中高一貫制の男子校の高等部だ。聡一は自分の歩んできた栄光の道を祐にも歩ませたいがために放り込んだようだが、この点に関しては、祐も感謝をしている。全寮制だからだ。長期休暇の時以外は帰宅せずとも済む。

 普段は、佳也子や聡一に会わなくてもいい。

 多くの学生が楽しみにしている長期休暇というものが、祐にとっては頭痛の種になる。

「大学は決めたのか」

 握り締めた拳の下、心臓が跳ねた。

「い……ちおう、考えては、ある」

「ここから通える範囲内にしろ」

 予想していた言葉ではあった。

「県内で構わない。お前は私の跡を継ぐのだから、やたらに高い学歴を目指さなくても良い」

 饒舌に「だがお前が上を目指すのを止める気はない」と続ける。

「男なのだから、学歴はいくら高くても邪魔にはなるまい。新幹線の定期券ならば買ってやる。都内くらいだったら、新幹線を使えば片道二時間かそこらで通えるだろう」

 都内で一人暮らしをしたいとは、とてもではないが言い出せる雰囲気ではなかった。

 まして、神学部のあるキリスト教系の大学に進みたいとは、今の祐には言えない。

 いつの日か言わなければならないことだとは思うが、

「大学はお前の好きなところを選んでいい。まだ一年半ある、ゆっくり考えろ」

 学費を出すのは、この、聡一だ。

 自分に決定権があるわけでは、けして、ない。

「……片づける」

 聡一から背を向けつつ、おもむろに立ち上がった。聡一の視線が背中に纏わりついているのは感じていたが、反応したら負けだ。

「災難だったな。鈴木さんから聞いた」

 佳也子を部屋から出してしまった鈴木が責めを負わなければいい、と祐は心から祈った。

「あれにはもう少しきつく言っておくべきだな」

 その『あれ』が佳也子を指すのか家政婦たちを指すのか、祐には訊ねられない。

 十字架を離して、床に広げた書籍類に手を伸ばした。

 突如、背中に何か温かくかさついたものが触れたのを感じた。

 感覚の鈍い背中でも分かる。

 聡一が、自分の背に、触れている。

「良い背筋だ」

 聡一が耳元で囁く。

「綺麗な背中をしている。部活で鍛えているのか」

 全身の毛が、総毛立つ。

きずがあるのもったいないな。実に、美しい背中なのに」

 本をつかむ手が、震える。

 聡一の指先が、肩甲骨を撫でるように動いている。

 思い切って振り向いた。

 聡一は、何の感情もない目をして、祐を見つめていた。

「本当に、惜しい」

 怖いとしか、思えなかった。

「こんな疵、お前には相応しくない」

 祐には、何も言えなかった。ただ、まっすぐに祐を見つめてくる聡一の目を見ていることしかできない。

 見つめ合っているとも、思えなかった。自分は聡一を眺めているだけだと感じた。聡一と目が合っている気がしない。

 おかしいと、糾弾することすら、祐には、許されない。

「そろそろ服を着ろ。いくらなんでも、ずっとその格好でいるわけにはいかないだろう」

 そう言って聡一が自ら視線を外してくれたことに、祐は救われた気持ちになる。

「それと」

 直後、

「そういう、軟派なものはつけるな。処分しろ」

 胸の十字架を、握り締めた。しまった、と思った。見られてしまった。

 否、見られること自体は初めてのことではない。むしろ、この館に来たばかりの頃、この十字架を握り締めて古巣を想い涙を堪えていた日々のことを、聡一は都合良くなかったことにしている。

「ところで、この夏の予定だが」

 窓の外を見ながら、聡一が話を進める。祐が口を挟む隙を与えない。

「盆の墓参りの前に、少し旅行に出ないか」

「りょこう?」

 触れられた背の感触を思い出して血の気が引くのを感じたのも束の間、

「接待旅行だ。取引先が避暑地でのバカンスを用意してくれているらしい。良い機会だ、お前を私の跡取りとしてお披露目しようかと思ってな」

 安堵すると同時に、祐は息を吐いて「行きたくない」と答えた。

「まだ、早いだろ。高校生だし」

「そう言っているうちに、だ。子供はあっと言う間に大きくなる」

 子供だと思っていたのかと、祐がそう問い掛ける前に、聡一は「まあ、確かに、まだ酒を飲ませられないことを考えると置いていくべきか」と呟いた。

「佳也子と二人きりになってしまうな」

 究極の選択かもしれない。それなら、聡一についていった方が良いようにも思われた。

 聡一には、佳也子の方、もしくは両方を連れていく、という考えはないだろう。聡一が自由に連れ歩けるのは、唯一、祐だけなのだ。

「――墓参りには、行く」

 祐がそう答えると、聡一は「そうか」と答えた。

「とりあえず、それだけは確定だな。覚えておけ」

「……ああ」

「では、また夕飯の時に」

 聡一が戸の方へ向かって歩き出した。やがて戸を開け、廊下へ出ていった。

 祐は、もう一度十字架を握り締め、大きな息を吐いた。いつぞやのように引き千切られて捨てられるのではないかとも心配をしていたがいよいよ諦めてくれたのだろうか。

 いずれにせよ油断はできない。今はまだ聡一の前で口にしてはならない。

 祐は、両手を組んだ。そして小声で、祈りの言葉を囁いた。

「主よ、この夏も乗り切れるよう見守っていてください」

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