2018 年 6 月 10 日

 梅雨に入ってあじさいが色さまざまに咲く季節になった。あじさいには毒があるらしく、それそのものを食べることはできないが、その色からして柔らかく甘いのだろうと想像する。

 さいきんになってあじさいの花びら(実際には青や赤に色付いているところは花弁ではなく萼にあたるらしいのだが)がさまざまな形を持っていることに気がついた。とりわけ形が変わっているのがスミダノハナビと呼ばれる種だ。あじさいらしくなく、花火が弾けるような形をして色付いた部分に囲まれて、小さな花が群がっている、楽しげな姿をしている。私たちはこれを同じ「あじさい」という名で呼ぶ。

 そのように名前は一つの領域を作る。その名によって、直接的にであれ間接的にであれ、指し示される対象の集合を作る。「あじさい」という名前を使うとき、私たちは、最終的には、現実に存在するあじさいのことを考える。そのように名前は一つの境界線を引く。


 文学作品から受け取った私のいくつもの印象は、普段ならば、その作品の名前のもとに統括される。りんごの収穫期にその絞り汁を飲む者の姿や、野で『オデュッセイア』を読んでオデュッセウスがエウマイオスからもてなしを受ける場面に感動する人、柳の木に花の輪をかけようとして川に落ちて、しかし歌を歌いながら少しずつ沈んでいくあの乙女の姿は、それぞれ、各々の作品の名前が記す領域のうちに保存されている。しかしときおり、私の記憶の乱れのせいで、ある印象がどの作品から得られたものであったか曖昧になることがある。しかしながら、その印象が私にとって心地よく、美しく、かけがえのないものであれば、それがどこからやってきたのかを深く追求することなく、むしろそれが、私の最も愛する文学作品の一部であると考えてしまうことだろう。こうして私は、その作品にとってまったく外的でしかないものを、私側の欠陥によって、その作品の名前が作り上げる城塞のうちに繋ぎ入れてしまうのだ。しかし、そうした印象が留め置かれた名前は、こうした私の誤りのゆえに、さらに実り豊かに、さらに美しく、さらにかけがえのないものとして私に立ち現れることだろう。そして私は、私の愛してやまないその印象を、その作品のうちに求めて、そこで楽しく途方にくれることだろうという。その作品のうちには決して存在しないにもかかわらず、そこにその印象の根源があると信じてそれを探して回るのだから。私は、夫を亡くした、森に住む老貴婦人の描写を、何で読んだか忘れてしまったにもかかわらず、きっとこの作品の内にあるだろうと信じ切って、ひとつのある作品に帰してしまっているのだ。こうして、私たちは、おそらくそれほど稀にではないしかたで、「私たちにとってのみ」意味を持つ作品についての評価を保有している。作品についての記憶の真理性という観点からすれば、そうした混濁した印象というのはむしろ何ら訳にも立たないものであるが、ある男が(これもまたどの作品においてだか判然とはしないのだが)愛することにおいて大事なのは対象ではなく、愛するという行為そのものである、と言ったことを思い出せば、あやふやな記憶というのもまた面白いことのように思われる。こうした限りで、作品についての記憶を新たなものとする再読というのは、楽しい思い出を確固たるものにすると同時に、その名前の内に秘められていると思っていた印象をその名前からついに永遠に失わせてしまう行為でもあるかもしれない。

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