2015 年 11 月 23 日

 真夜中に小腹が空いたが、家には何もない。そういうことがある。そうした時には、ふらりと外へ出て何か食べられるものを買いに行く。だいたいいつもはさっと行ってさっと帰ってくる。コンビニへの夜道はコンビニへの夜道でしか無かった。

 ある夜、道端におどり出た小さい猫がそうではないと教えてくれた。ちりり、と首の鈴を鳴らして私の前に出てきたのは小さい黒猫であった。ナァナァと鳴くのでそのあたりに生えていたネコジャラシを抜き取ってしばらく遊んでいた。私の両の眼はその猫に集中していたが、そうやって遊ぶ間に視界が開けてきたような気がした。猫が、私の操る標的めがけて前足をあちらにやりこちらにやりするたびにちりりちりりと鳴る小さい鈴のように輝く月が空にあることであろう。それを雲が覆ったり覆わなかったりしていることであろう。街灯に照らされた小さい花もあろう。風が吹く。公園の木が鳴る。車の通らぬ道がある。信号がチカチカする。夜がある。夜に浸っている。浸されている。コンビニへのこの夜道は、単なる「コンビニへの夜道」ではない。地理上、ローマへと通じることはできないが、この道は、いまだ知らぬところへ通じている。端的な夜道である。


 何かを食するに、悦ぶためには味がついていたほうが良かろう。砂を食むよりは果汁滴る赤々とした林檎を、紙を咀嚼するよりは果肉弾ける蜜柑を。心とて同様で、もしそれが愉悦のために何かを受容するならば、それは味があったほうがよかろう。「したがって湿潤化されるのは、自己の本性を保持しつつ湿潤化されることが可能ではあるが現には湿ってはいないものでなければならず、それが味わう能力をそなえた感覚器官である。このことの証拠は、舌がひどく乾燥していたり、極端に湿潤な状態にあるときには感覚しないという事実である」とアリストテレスが『デ・アニマ』で言っていた。なれば、心もまたひどく乾燥していてはいけない。ひどく乾燥した心は、コンビニへの夜道をコンビニへの夜道としてしか受け取らないだろう。端的な夜道として、夜を、道を征くには、今夜の猫のような、コップにいっぱいの水が必要らしい。愉しむには潤った土壌が必要だということを、今宵は教えられた。

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