煤けた海苔屋から見える空

ひざのうらはやお/新津意次

大三角を望む

 灰色の空から黒い雨が降ってくる。酸を含んでいて、身体に良くないと言われているから、建物の屋根や外装には必ず抗酸化塗装が施されており、雨が降るとじりり、と独特の音が響く。

 僕は同じく抗酸化塗装――といっても石灰ソーダ系の安物だが――を施した傘を開いて、雨を防ぐ。じゃあじゃあと仰々しく雨を中和する音がして、それ以外にはほとんど何も聞こえなくなった。

 遠くからかんかんと甲高い鐘が鳴っている。電源車と客車の二両編成の市電は間もなく、当代島とうだいじま二丁目停留所に入線する。

 折り畳み式の扉が開かれ、僕はすぐに電車に飛び乗った。降りる者などいるはずがない。始発の市民病院のすぐ隣の停留所なのだから。

 電車は僕が乗るとすぐに扉を閉め、出発した。ぎりぎりと音を立てながら、電車は加速を始める。

 車内には老婆が数人と作業服を着た中年の男が一人、そして奥の方に女子高生が座っていた。

 黒地に緑のラインが入ったセーラー服は、ここから南に二キロほど行ったところにある県立浦安高等学校のものだろう。この時間に見かけるのは珍しい。あまり褒められるようなことではない。

 虚ろな目をふらふらと泳がせながら、彼女は疲れ切った顔をして席に座り込んでいる。

 なんとなくただならぬ気配を感じたので、僕は後部扉に近い席を選んでそこに座った。


「次は――帝鉄ていてつ浦安駅前、帝鉄浦安駅前――」

 車掌のアナウンスも、平生よりのんびりとしている。この時間帯は客が少ないし、天気も悪いから混雑も起こりにくい。前の方に座っていた老婆が、ゆっくりと立ち上がり、風呂敷包みを抱えて前部扉に向かう。電車はそれを見計らったかのように、ゆるやかに速度を落としていった。

 圧力弁の解放されるぷしゅ、という音が構内に響く。この停留所は帝鉄とすぐに乗り換えができるように工夫されており、ここから若干乗客が増える。

「市役所線区間急行、神宮線をご利用の方は、こちらでお乗り換えが便利です」

 定例通りのアナウンスが響く。市役所線は区間急行や快速が多く、分岐となる北栄きたさかえ交差点停留所には停まらないものが多くを占めているためだ。市営電鉄が市役所線をやたらと複雑で過密にしたがるのは市営であるが故であろう。

 それを聞きつけて老婆がもう一人、慌てて降りた。

 降りた後から、客が数人乗ってきた。緑や灰色や紺など色は様々だが、全員が作業服を着ている。目的地は終点だろうか。それにしては少し早いのではないだろうか、などとよからぬ考えを抱いた。

大三角おおさんかく線、舞浜埠頭行、発車いたします」

 車掌が駅の放送機でそう告げてから、ゆっくりと歩いて車内に戻った。間もなく、扉は閉まり電車はゆっくりと加速する。

 市電は駅前の大きな交差点を左折して、柳通りを南へと走り始めた。反対側の窓際にいる女子高生は身体を深く埋めて眠っている。今時珍しい漆黒の髪はぶらぶらと垂れ下がるように伸び、毛先は傷んでいるのかほつれた手拭いのようにばらけている。袖からちらりとのぞいた細い手首に痛々しい傷痕があるのを見つけて、僕はなるほどと思った。

 依存症なのかもしれない。

 もっとも、僕には関係のないことだ。僕はただ、これから勤め先に向かうだけであり、これは日常の一部分でしかないのだから。

 柳通りも人が少ない。雨の日に外出しようとは誰も思わない。一歩間違えば自分の身体に危害が及んでしまうのだから。

 電車は遅れもせず、急ぐこともなく、市内を南下していく。

「次は――神明裏しんめいうら、神明裏――」

 遠くで雷鳴が聞こえ、一人の老婆がひっ、と小さな悲鳴をあげた。女子高生は起きる気配すらない。

 電車は神明裏停留所に停まり、客を一人乗せると、再び出発した。

「次は――北栄交差点、北栄交差点――市役所線各駅停車、学園都市線、警察海岸線へはこちらでお乗り換えください」

 余談だが、県立浦安高等学校へ向かうためには、次の北栄交差点停留所で降り、市役所側から来る学園都市線もしくは帝鉄浦安駅前停留所を始点とする警察海岸線に乗り換える必要がある。しかし、女子高生は起きる気配がない。起こすほどの勇気も理由もない。彼女が学校へ向かおうとしているかどうかは、制服を着ていたところで不明だからである。

 などと考えている間に北栄交差点停留所に電車は入線し、老婆は全員降りたものの彼女は依然として起きる気配もなくついに電車は次の停留所へと動き始めてしまった。

 電車は北栄交差点を曲がり、大三角線へと進む。この路線の名前は、同名の道路を一番端の舞浜埠頭まいはまふとうまで走ることに由来する。大三角とは、舞浜の先にある巨大な三角州のことで、かつて、遠浅の海が広がっていた時代は、この浦安という町を貝類の一大生産地として日本帝国じゅうに知らしめたこともあったが、工業化が進む中で、帝都にほど近く、また鉄鋼を生産する工業地帯を東側に望むことから、鉄鋼加工業と建設業を主体とする工場が建ち並び、遠浅の海は埋め立てられた。

 その結果、かつて存在していた大三角は、埋め立てられて桟橋として建てられた舞浜埠頭から北栄地区までを走る道路としてのみ、その呼び名を残された。

 二十年ほど前には美しい遠浅の干潟があったところには、埋め立て地に建てられた工場群と、その先に建てられた人工島へ向かう人々が使う桟橋が建つのみである。

 電車は浦安の東西を二分する境川を超え、ゆったりと大三角線を進んでいく。雨はいつの間にか小降りになっていて、空は明るい灰色に変わっていた。

 車内は心地よい暖房がかかっていて、次第に僕の意識も薄まってくる。


 桟橋を渡った先が楽園だと勘違いをしているのは、並んでいる男だけの話で、本当のところを言えば、その人工島は地獄以外の何物でもないのだと、僕は思う。

 それは、都市整備部舞浜埠頭先人工島監理課に異動する前から思っていたことだし、今も変わらない。

 舞浜埠頭先人工島――役所の人間だけが使う、鼠街ねずみがいの正式名称だ――は、その名の通り、舞浜埠頭の先に埋め立てがされた人工島であった。その東側には豪華絢爛を絵に描いたような建物が並び、西側はまるで監獄のような灰石土の壁がそびえ立っている。どちらも、鼠街の現実を示しているものだと僕は思っている。

 同級生の姉や妹がどれだけあそこで働いているのだろうと思うと、鼠街を仕切っている一族が憎くて仕方がない。だから僕は警察官にならずに、あえて市役所に勤務することにしたのだった。千葉県警察は理不尽なほどの薄給で知られている。その出先機関である浦安警察署の人間が誰によって生かされているかを知らないほど、僕は馬鹿ではなかった。

 今日も理不尽な死と生が、煌びやかな旅籠で繰り広げられているのだろうか。


「次は――堀江大橋東ほりえおおはしひがし、堀江大橋東、鉄鋼団地行へはこちらでお乗り換えください――」

 背中から西日が射していた。ふと女子高生に顔を向けると、彼女と目があってしまった。慌てて目を伏せる。

 見明川みあけがわを超えた先、舞浜地区の最大の停留所である堀江大橋東停留所で、女子高生は降りていった。よかった、鼠街の関係者じゃなくて。代わりに、鉄鋼団地からやってきたであろう作業着の男たちが数名乗り込んできた。逆に、彼らはいかにも鼠街に用がありそうな風体である。

 電車は少し重たくなったせいか心なしかゆっくりと加速していた。

「次は――尾頭建設おがしらけんせつ本社前、尾頭建設本社前、尾頭両替店へはこちらが便利です」

 放送は男たちの喧噪にまぎれてよく聞こえなくなっている。だがしかし、彼らは次の停留所で降りる必要があるのだ。

 そんな心配をよそに、停留所に停まると彼らはきちんと降りていった。代わりに乗る者は、たった二名。彼らは作業服を着ていなかった。どんな職かは、こちらではわからない。

 軽くなった電車は軽快に加速し、終点へと向かう。


「次は――終点、舞浜埠頭、舞浜埠頭です。本日は市営電鉄大三角線をご利用いただきありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

 泊まり勤務で問題がなかったことなど一度もない。今日もどうせまた問題だらけだろう。

 などと、いつも通りの愚にもつかないことを考えながら、僕は電車を降りて公用船の収納所へ向かった。

 西へ傾いた夕日が鉄鋼加工場を影で映し出している。この国にはまだ力がある。けれど、知性は残っているのだろうか、とふと思った。

 夕日はそんな悲観的な考えなどお構いなしに、工場の陰へと消えていった。

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