第4話

 わたしは川本に平手を食らわせた。

 現実世界の酷薄さを表す明朗な音がトイレに響いた。小気味よかった。

「ひっ……」

 川本もさぞ驚いたことだろう。演技も忘れて彼女はうめいた。それが狙いだった。彼女の薄っぺらなキャラ装甲は一撃で剥がれた。


「川本さんそのメイク何? ギャグ? すっごい似合ってないけど大丈夫? 面白くて死にそうなんだけどどうしてそんな有様になったの? 誰かの嫌がらせ?」

 川本は顔を伏せた。何も喋れない。殴られた上に罵声を浴びせられてなお演技を続ける根性も愚かさも、彼女は持ち合わせていない。わたしは続けた。

「ねえ、なんでわたしは、川本さんをこんな所に連れてきたんだと思う? どうしてトイレなんだと思う? 答えて」

「わたしに」

 川本はつっかえながらもわたしの質問に答えた。

「焼きを入れるため……?」

 太い素足が震えている。単純な恐怖ではない。自分の有り方を否定されたことで足下が崩壊するそら恐ろしさを感じているのだ。今、彼女の心を支えるものは何も無い。それに共感するわたしも同じように居心地が悪いが、重病の治療に痛みは付き物だ。ここは耐えなければならない。

「違うよ川本さん。制裁するだけならわざわざ移動なんてしない。教室ででもどこででもわたしは殴るよ」

 必要とあらばわたしは暴力も使う。狼藉者が他人を傷つければ人目に構わず叩きのめすのを、彼女も何度か見てきたはずだ。

「トイレに連れてきたのはね。ここに鏡があるからだ」

 洗面台の鏡を示す。壁一面に張られた大きな鏡がわたしたちを映していた。自己欺瞞を剥がした今なら川本にも見えるはずだ。世にも醜く変貌した、彼女自身の真実の姿が。

「織原七重は」

 わたしは彼女の意識を最も引きつける言葉を口にした。彼女の体が一瞬こわばる。わたしは見逃さなかった。

「とても美しいひとだ。ほんとうに、信じられないくらいにね。あれはただごとじゃない。そこらの美人が束になったってあのオーラは出ないよね。間違いなくトップクラスだ」

 真実を並べる。ただ正しいというだけではない。彼女の信念にも沿った、否定されようのない共通認識だ。わたしに責められた後で気分は悪いだろうが、7eを熱愛する彼女は仕方なくうなずく。この後に何を言われるかを予感しながらも。

「足も長いしきれいにカーブしてる。折れそうなほど細いのに元気に動く。骨格のフォルムとバランスが神がかってるんだよね。ちょっと日本人離れしてるよあれは。ドイツ……それもパッフェルヴェル系の血も混じってるんじゃないかな。顎のラインもシャープだし、何よりもあの天然二重のたゆんだ瞳は、見てるだけでも恍惚とか憂いの感情をくすぐってくる。こうも見事な特徴ばっかりだと神様の作意とか疑いたくなるよね。髪の毛に至っては――」

「もういい!」

 川本が叫んだ。わたしは織原七重の賛美をやめた。

「わたしが、ブスだって、7eとは似ても似つかないブスだって、そう言いたいんでしょ!」

 川本は拳を握りしめて爆発した。彼女の心は軋んでいた。自己を直視したからだ。喋り方もたどたどしい。だけどそこに演技は無い。彼女がいま口にしているのは自分自身の言葉だ。

「わたしだって、それくらい、分かってたわよ。馬鹿にしないで。けど、だけど、わたしだって、きれいになりたくって、かわいくなりたくって、ちょっとでもマシになりたくって、それで気合い入れてメイクするくらい、わたしの勝手でしょ!? 黒野さんには関係ないじゃない、ほっといてよ!」

「ところが分かってないんだよ、川本さんは。今それを証明するからちょっとこっち来てね」

「え何、なによ」

 わたしは川本を壁に立たせた。狼狽するのを無視してそのメイクを落としてしまう。彼女の顔は裸になった。わたしの不躾な行為に彼女は抗議した。けど弱々しかった。

「何するのよ」

「鏡を見て」

 わたしが言うと、彼女は素直に従った。自分の顔を見る。

「だから何? メイクを落としただけじゃない」

 その通りだ。映っているのは当たり前の彼女の顔だ。そこにわたしは魔法をかける。

「かわいくなったよ」

「……はあ? 意味分かんない」

 とにべもなく言いながら川本里沙の表情は目に見えて緩んでいる。

「似合わないメイクしてるより素の方が全然かわいいんだよ、川本さんは」

 本心だった。わたしは川本の肩に手を回す。彼女の性格はもともと素直だ。しかも今はガードが開いている。精神距離を詰めて密着すれば、こちらの意志を流し込むのは簡単だった。

「わたしは川本さんが好きだよ。いいなって思うよ」

 繰り返す。今ならこちらの好意が抵抗なく浸透するはずだ。

「ただし七重とは方向が違うんだ。川本さんが嫌じゃなければ、あなたに似合うメイクも教えてあげるよ。きっと気に入ると思う。ああ、やわこいほっぺが嬉しいな」

 そう言ってわたしは織原七重の賛美をやめて彼女のほほに口をつけた。やわらかく。女同士だが安物ではない。この学校で黒野宇多は十分に強いブランドだ。その口づけ。感触は彼女の脳にまで浸透して、衝撃がハートを撃ち抜いた。彼女の肩の振動から、その手応えが確かに伝わってくる。彼女の頭はわたしで一杯になってしまうことだろう。それは暴走のリスクを招く。普段ならわたしはこんなことはしない。しかし今回は特別だ。弱っている彼女を7eの呪縛から解かなければならなかったからだ。わたしの肯定を得て自尊心が安定すれば、七重になろうなんて愚かな思いは捨てられる。音楽趣味くらいは残るだろうが問題ない。それで十分だ。

「ほら、お目目くりくりだ。すてきなその目でわたし見てよ」

 潤んだ瞳を優しく見つめ返す。ついでに彼女の物怖じも癒す。人から目をそらすのは見られることの恐怖ではなく、自分が相手を見ていることを咎められることへの恐怖があるからだ。見ることを受容すれば、その恐怖を和らげることができる。

「そろそろ戻ろっか。授業が始まっちゃうからね」

 わたしはそう切り出した。だけど彼女はわたしの手を掴んできた。わたしは察した。うつむいた顔と朱に染まったほほが語っている。今とても幸せであると。触れ合った手から意識振動が伝わってくる。まだここに二人でいたいと。

「しょうがない子だね。少しだけだよ」

 わたしは彼女の頭を撫でた。



 回想を閉じて現実に戻る。川本里沙は死んだ。わたしは廊下にいる。教室を出たところだ。

 故人とのセッションをリロードしていたところに、隣の教室から出て来る生徒たちの中に待ち人を見つけた。

 187cmの長身とすっとぼけた無闇な美顔を見てわたしは笑ってしまい、それを会釈にして手を上げた。彼はぺこりと頭を下げる。

 荒野だ。

 彼は優秀だ。開口一番に核心を突いてきた。

「まさか黒野さんのクラスで人死にが出るとは思いませんでした。驚きました」

「織原七重が危険なのは分かってたんだけどね。彼女が何をもたらすかまでは分からなかった。川本里沙の精神の痛みを手厚く癒やしもした。それでも彼女が死ぬ予想もありはした。けどそのくらいの因子ならありふれている。実際そうなるまではどれも考え過ぎなくらいだった。織原七重はちょっと考えられないくらいのカタストロフィ野郎だね」

 わたしは織原七重を直視しない。共感しない。その内面を見通さない。

「対処の面倒さに見合う脅威かは様子見だった。ほら、織原って痛みからすら何も学べない超越的な馬鹿でしょ。ちょっとやそっと叩きのめしたくらいではあいつは自分を変えやしない。鼻血吹いても腕の骨折れても大笑いで歌い続けるでしょうね。つまり彼女を止めるってことは、彼女を殺すかそれに匹敵するダメージを与えるってことなんだ。今となってはその必要があるくらい彼女が悪質なのは明らかになったけど」

 荒野は実直に尋ねてきた。

「織原の歌を聴いた人は自殺するってことですか」

「みんなじゃないよ」

 わたしは答えてやる。荒野は仏頂面だが、わたしと話せて嬉しいのは分かる。あれこれ聞いてくる。

「影響に個人差がある。彼女の世界に魅せられて、そこにどっぷり浸かると死への抵抗が薄くなる」

「心が弱い人ほど、引き込まれやすいってことですかね」

「強さ弱さじゃなくて感受性の話なんだ。心がいくら強くても、感受性が強いと引っ張られるね」

「俺はあの人の歌を聴いても何も感じないです」

「荒野は大丈夫だろうね。そのへん繊細とはほど遠いし」

「でも、そうなると黒野さんは危ないんじゃないですか。感受性、たぶん相当強いですよね」

 荒野の指摘はもっともだ。わたしの認識は量も精度も図抜けていて、本来ならば一番織原に侵されやすい。しかし例外はある。

「わたしは防げるの。インプットを選択的に遮断できる。感受性を全開にした観察はわたしの武器だけど、毒まで飲み込んだりはしない。織原七重に関しては歌も言葉も振る舞いも表面的に認識するだけにとどめてるんだよ。けどそのせいで汚染を受けない代わりに、彼女の本質も見えなくなった。他の人の反応を見て間接的に類推するしかなかったよ」

「では川本里沙はそのセンサー代わりってことですか。カナリアみたいな」

「あんた気分悪い言い方するね」

「すみません」

 荒野は犬なので即座に謝罪した。しかし彼が言ったことは事実だ。わたしは川本里沙を使い捨てのリトマス試験紙にした。七重の毒性を計るためにだ。人道に照らせば黒だろう。しかしわたしはごめんねで済ます。人道は既にあるものを守るための教えだからだ。まだないものを求めるわたしは、規範教条を認知してなおそれに頼らず自分で答えを出さなければならない。

「川本里沙は末期だった。話しかければ会話は成り立つ。だけど心の底はとっくに冷めきってた」

「冷めてたって、何にですか」

「すべてにだよ」

 わたしはこの事態から直観したことを、荒野のためにかみ砕いて説明する。

「彼女を取り巻く世の中の、万象一切余さずすべて。自分を特別扱いしない周囲の環境が、彼女は憎くてしょうがなかった。何一つ許す気は無かった。けれど非力で繊細な彼女は他人に暴力を振るえない。だから攻撃は自分に向かう。かけがえのないものを踏みにじりたい。すべての苦しみの根元であり、幼少期から刷り込まれた『生きなければならない』というしがらみをズタズタに傷つけたい。そうして生きているすべてを侮辱したい。命の重さがどれだけ自分を苦しめたかを思い知らせたい。生きることの尊さを説く残酷な善意に復讐したい。それは傍目にはむなしい空回りだけど、手ごたえは感じるはずだよ。自分自身を攻撃すれば、痛みが確かに彼女を震わせるんだから。家族や友達の涙を想像して悦に入ってたんだろうね。みんなの存在を大きく感じているほどに、その昏い悦びも大きいはず。だけど」

 わたしは結論を言う。ここが核心だ。

「だけど、その甘美で背徳的な境地は彼女自身が見つけたものではない。本来ならいずれ謙虚な気質に収束するはずだった。心地よい調べに呪いを乗せて、その自覚もなく川本をあの世まで導いたのがあの脳味噌お花畑のお姫様、涅槃住まいの織原七重だ」

 しゃらん、と織原が見得を切った。わたしの脳内で。そろそろわたしにも彼女のビジョンが浸透してきているのだ。心を狂わせる危険を持つこの異物を脳内から排斥してしまうことは出来る。だが織原は今や明確な敵だ。敵の情報が分からん分からんでは話にならない。わたしはひとつ試すことにした。人格構成への影響を遮断した隔離区域を作って、そこで七重のエコーを飼う。無意識さえ侵されなければ、足を掬われることもなかろう。

「川本さんは絶望とか苦しみに追い込まれたんじゃなくって、前向きな気持ちで死を選んだんですか。俺には理解できないです」

「それでいいよ。何も理解できない。何ひとつ分からない。そこが出発点だよ。何か分かることがあるなんて思ってると、自分と違う認識世界に住んでる『本当の他人』に出会ったときにそれをおぞましい異物としてしか捉えられなくなるんだ。目をつむれば気持ち悪さはなくなるけど、その代わり何も見えなくなる」

「はい」

「分析はこのへんにしてそろそろ方策を固めようか。まず問題の中心は織原七重が死に至る毒をまき散らす怪物であること。彼女の歌は全国に放映されている。もちろんネットでも聴ける。既に万単位の人間が十二月から汚れ始めている。震源地は織原七重が在籍するこの学校で、既に死人が一人出た。このままだとバタバタ被害が増える。現象が進行すれば社会の混乱も起きる。輝きたいのに輝けないこと、輝くものが欲しいのに手に入れられないこと、きっと一人一人の個性に合わせて歪みが花咲いていくだろう。まさに7eは傾世の美少女、彼女の歌でこの世が狂う。これは武力や法では止められない。本気で死を望む者は止められない。交渉の席を離れようとする人間に通じる取引なんてないからね」

「俺には、どうにも」

 滔々と喋るわたしに荒野が口を挟んだ。

「現実感を持って受け止められないです。本当にそんな大ごとなんですか。そんなことがあったらメディアで話題になってるんじゃないですかね」

「それはまだ後の話だね。この黒野宇多の膝元で始まっている事態のことを、わたしより早く察知できる人間なんてまずいないよ」

 わたしはわざと不遜に断言して見せる。サービスだ。荒野はわたしに漢惚れしている。

「黒野さんが言うなら信じます」

 荒野は表情に欠ける男だ。しかし思考は透けて見える。いま彼はわたしの話を信じていない。日常を越え過ぎているからだろう。見たことがないものの信憑性を測るには見識と論理に裏付けられた想像力が必要になる。彼にはまだそれが足りない。それでもいい。少なくとも今は。

「そんなことが起こっているなら対処が必要ですね。自殺は止めるべきです」

「止めたいね」

 わたしは話をすり替えた。前提のない善悪の議論に終点は無い。だから楔は意志によって打つ。

「自殺は絶対の拒絶だよ。周囲すべてに永遠の絶縁を申し渡すの。切られた人間は大きな不幸を負う。それがレアケースならフォローできる。大局的には些細と見なせる。だけど七重の歌はいずれ莫大な数の自殺を生む。数が増えればどうなるか。飽和するね。みんなそろって不幸になって誰も誰かを助けられなくなってしまう。それはわたしには看過できないの。止める必要がある」

「織原七重をどうするんですか。さっき言ってましたけど殺すんですか?」

「それはしないよ」

 問題の根元は織原七重にある。しかし彼女を殺しても問題は死なない。彼女の死はメディアに美しく飾られて、ケレン味を伴う伝説としてさらなる死の種を蒔くだろう。それにあれだけ影響力があるのだから、スピリットの継承者だって現れるかも知れない。スピリットが七重本人を離れて自走し始めれば、いよいよ問題は不死身になる。放射能と放射線では危険性のレベルが違う。放射線は原子からイオンを引きちぎるだけだが、放射能は放射線そのものを延々と産み続ける。時には数百万年に渡って。

「大事なのは織原七重から魅力を取り上げることだ。殺してしまうと彼女は神話になる。悲劇になる。それは逆効果だよ。彼女のアートを腐らせてその輝きをこの世から葬り去るためにはその感性を破壊しなければならないんだ。一瞬で断絶させるのではなく、ゆっくりと劣化させるの」

「具体的にはどうするんですか」

 荒野が聞いた。わたしは答える。

「織原七重が撒き散らす魅力の源は、何物をも恐れずに刺激を求める貪欲さだ。これを損なわせるために、失う恐怖を植え付ける。保身の感情を芽生えさせるために、わたしたちは彼女に精神攻撃を仕掛ける」

 答えたわたしに、荒野は真顔でもう一度同じ質問をしてきた。わたしは答える。問われれば必ず答える。はぐらかさない。答えを出すためにわたしは生きている。

「織原七重にインタビューをする。彼女に自分と向き合わせて言葉で説明させる。ちゃんと筋道が通るようにね。言葉で自分を定めるたびに彼女の意識は地に足ついて、天性の霊感をなくしていくよ」

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