第三話 五条橋に狩る(沖田総司)

 人相書が作られたのは、襲撃から三日目の夕刻だった。生死の境をさまよったさんなんけいすけがようやく目を覚まし、下手人の素性を問うたこんどういさみに、うわごとのように呟いて告げたのだ。


 おきそうも山南の枕元でそれを聞いていた。


「六尺豊かな巨漢。髭も髪も伸び放題の浪人姿だったが、そんなものはいくらでも変えられる。ただ、右の耳は尖った形で、左の耳は上半分が削げていた。目印になるだろう。九州の訛りで、大太刀をいている。一目見れば、その剣気、きっとわかる」


 ひじかたとしぞうは眉間の皺を深くした。


「秋口に大坂の岩城升屋に押し入ったてい浪士の生き残りか。あのときは、三人倒して二人逃した」


 山南はかすかにあごを引いた。うなずいたのだろう。

 近藤が嘆息した。


「報復に来るとはな。歳、次はおまえが狙われるんじゃないか?」

「かもしれねえ。あの日は俺と山南さんのほかに、新入りを二人、率いていた。あの二人にも用心させた方がいいな」

「敵はれだったと言っていたな」

「俺たちが公方様下坂の警護に就く新撰組であると知りながら刀を抜きやがった。新入り二人じゃ太刀打ちできねえ程度には、連中は腕が立った」


 沖田は、重たげなまぶたでまばたく山南の白い顔を見下ろしながら、愛刀の柄を握った。


「山南さんと土方さんだけなら、連中を一網打尽にできたんだろう? 足手まといがいたから、そいつをかばった山南さんが刀を折られた上、左肩にひどい傷を受けた」


 七月半ばのことだった。知らせを受けた沖田が駆け付けたとき、山南は血染めの姿で折れた刀を提げ、青白い顔をしつつも、乱闘の後始末の指示を飛ばしていた。無茶はよしてくれと、近藤の渋面は泣き出しそうにも見えた。山南の愛刀は、血を吸った柄がぬるりと滑った。


 問題ないと山南は強がってみせたが、傷が腫れて熱が出て数日は寝たり起きたりしていたし、あれから四ヶ月以上が経った今も握力が十分に戻っていないのは、一緒に稽古をすればよくわかる。他人を庇って戦える程の力は、山南から失われてしまった。


 それなのに山南は此度の襲撃を受けた際にもまた、たまたま率いていた弱腰の部下を庇い、全身に凄まじい傷を負わされて死にかけた。


 なぜ、刀を差しているくせに戦いもしない腑抜けなど庇ったのか。たびも足手まといさえいなければ、ここまで手ひどくやられはしなかったはずだ。


 山南のまなざしがふと強くなり、沖田の目をとらえた。十一歳年上の優しい兄のような人は少し目を細め、まなじりに柔らかそうな皺を作った。


「総司、言うな」

「言わないよ、何も」


 剣客であり、それ以上に学問家である山南が刀を振るうことにどんな意味を置いているのか、沖田にはわからない。正義がどうの理致がどうのと、いちいち小難しく考えているのは、新撰組では山南だけだ。


 沖田の中にあるのはただ、山南に瀕死の重傷を負わせた不逞浪士が今だのうのうと生きている、それを許してはおけぬという本能のざわめきだった。


 山南に笑い掛けると、沖田は立ち上がった。顔を曇らせたままの近藤と土方に、刀の鯉口を切る仕草をしてみせる。


「行ってくるね」


 告げた途端、体に熱がともった。



***



 冬至を過ぎて、まだ数日と経っていない。せっかちな太陽は今し方、桂の山の向こうに沈んだ。冴え冴えと細い月の輝く空から夜の闇が降りてくる。いや、あるいは、暗がりは底冷えのように地中から染み出してくるのだろうか。


 屯所を出て壬生の路地を歩き出した沖田に、頼る当てがあるわけではない。が、沖田が妙に巡り合わせのよいことには局内でも定評がある。行き当たりばったりの直感に従って動いていると、獲物の尻尾が目前に垂れ下がってきたりなどするのだ。


 今宵もそうだった。


 花街への仕出し作りに忙しげな料理屋の表で小さな妹を背負ってあやしながら、かよが沖田に声を掛けた。かよは十ばかりの子供だが、年の割にませた口を利く。


「沖田先生、御仕事なん? 近頃はえらい物騒な噂ばっかり聞くしなあ」

「人を探しているんだよ。片耳が半分削げた浪人の噂を聞かなかったかい? 体の大きな男で、刀も、俺のこいつより長いものを使うらしい」


 商人の子は目も耳もはしっこい。沖田はよく屯所を抜け出して近所の子供らと遊んでやり、怖い噂を聞いたらすぐに知らせておくれと言い含めてあるのだが、これが驚く程に早く正確な情報をもたらしてくれる。


 かよはさかしげなまばたきをして声を潜めた。


「体の大きな悪い男やったら、祇園の南で御店をしてはる叔父ちゃんから聞いてんけど、五条橋の下に弁慶さんみたいな大男が居着いて、大きな刀を振り回して強請ゆすりをしてはるねんて。危ないさかい、暗うなったら鴨川を渡られへんって言うてはったわ」

「そいつが五条河原に居着くようになったのは最近かい?」


「ずっと前から居てはるなら、沖田先生が知らへんはずないやん。人殺しや泥棒は沖田先生が退治してくれはるんやろ?」

「違いないね。その弁慶のこと、ほかには何か知らない?」


「ほんまもんの弁慶さんやないで。ほんまもんやったら、京都の言葉を喋るはずや。うちはよう知らへんけど、西の方の田舎臭い言葉で脅してきはるんやて、叔父ちゃんが言うてはったわ」

「西の方の、言葉」


 これだろう、と勘が騒いだ。いや、外れだとしても、かよの言うように不逞浪士狩りは新撰組の仕事だ。どの道、確かめねばならない。当たってみる価値はあるだろう。


 かよに礼を述べて駆け出す。沖田の背中を、気い付けはって、と思いがけず大人びた声音がとんと押した。


 這い上がってきてまとわり付くような寒気を蹴散らし、真っ直ぐに伸びる五条通を東へと駆ける。息が白い。刀の柄を握る。相変わらず、粘り気のある手ざわりだ。


 京都の空気は年がら年中、湿っぽい。淀んでいるのではないかとも、沖田は思う。刀はその湿気だか妖気だかにさとく応えるから、柄の握り心地が江戸のときと異なる。江戸で刀を振るうときはもっとさらさらしていた。


 体が芯から熱い。熱は沖田を突き動かす。息が上がり、心の臓が強く打っている。


 山南の全身の傷を見た。これは駄目だと、沖田にもわかった。血管と腱の断たれた左脚も骨を砕かれた右手の親指も元には戻るまい。一刀流の免許皆伝を受け、誰よりも美しく清らかな太刀筋の持ち主だった山南は、これから一生、戦列に立てないだろう。


 戦えないことがどれ程の苦しみか、余りに途方がなくて、思い描くことさえできない。刀を執れない体になるならば、それは死んだも同然だ。


「山南さんは殺されたようなものだ」


 呟く。刀の柄を握り締める。胸と頭にごちゃごちゃとわだかまるものが、すっと引いていく。本能を研ぎ澄ます。衝動に身を委ねる。


 俺も奴を殺さねばならない。


 怒りにせよ悲しみにせよ憎しみにせよ、感情というものはひどく曖昧だ。形を持たない。そんなものよりも、狩るべき獲物がいること、狩りたい衝動があることは厳然として明白だ。為すべきことと為したいことが合して一となれば心地よい。ただ真っ直ぐに動けばよい。


 沖田は駆ける脚を止めた。視界が開けた。鴨川である。沖田は、弧状にせり上がった五条橋へと歩みを進めた。


 京都の四角い町並みの東の縁に近いあたりを北から南へ流れる鴨川は、そこに架かる橋の上に立つと、吹きっさらしの川風の中、北も南も遠くまで見晴らせる。両岸に途切れることなく続く家や店の明かりは水面にもいくらか映り込んで、夜のとばりは存外明るい。


 ひとけのなさに気が付いた。おかしい。東山五条の界隈は清水寺の足下で、祇園に連なる門前町だ。時は今だ宵の口。人通りの絶える刻限ではない。


 やはり、例の偽弁慶の影響か。

 と、人影が現れる。沖田は橋の真ん中で立ち止まった。目を凝らす。


 それは大柄な男だと、すぐに知れた。手に提げた一升入りの徳利が小さく見える。男は酒をあおりながら、こちらへ近付いてくる。


 男の荒々しいまなざしが己に向けられているのを、沖田は感じた。なるほど、俺を今宵の獲物と決めたわけか。身の程知らずめ。


 互いの顔が見分けられる距離になるまで、さほど時は要さなかった。男は、空になったとおぼしき徳利を腰に吊るし、いきなり得物を鞘から抜き放った。刃渡り四尺もあろうかという大太刀である。


「どげんした、小僧? 怖気付いて体の動かんとや?」


 にたにたと笑う男は背が高いだけでなく、幅もあれば厚みもある。目方は沖田の倍もあろうか。偽弁慶の噂に違わぬ巨漢だ。


 沖田は目を細めた。偽弁慶のぼさぼさのびんから覗く耳の形を見極めるためだったが、偽弁慶には沖田が微笑んだように見えたらしい。


「何ば笑いよっとや? そん顔付きは気に食わん」


 偽弁慶は歯を剥き、沖田を睨んだ。沖田は平然と見つめ返した。


「ちょいと尋ねたい。新撰組の山南敬助を襲ったのは、あんただろう?」

「おう、おいが襲った。何や、小僧も壬生狼か」


「大坂の岩城升屋での一件の意趣返しかい?」

「あん男には痛手ば負わせたはずじゃ。動けんうちに殺そうち思うとったばってん、大坂中ば探しても見付けられんかった」


「それでようやく手掛かりをつかんで、わざわざ京都まで追い掛けてきたってわけ。御苦労なことだね」


 偽弁慶は大太刀を構えた。


「小僧、名乗れ。壬生狼の死体なら、長州藩邸にでも持っていけば売れるやろう。そん刀もなまくらやろうばってん、売れば酒代くらいにはなる」


 沖田は黙って刀の鯉口を切った。言葉など、もういらない。やることは一つだ。


 偽弁慶を斬る。


 沖田が刀を抜く。偽弁慶が吠え、大太刀を振り被って踏み込む。敷板が激しく鳴る。ごう、と大太刀が唸りを上げる。


 遅い。


 力任せの一撃が薙いだのは夜気のみ。身をかわした沖田は偽弁慶の側面に回り込んでいる。偽弁慶が大振りの追撃を掛ける。沖田は軽やかに跳びすさる。


 偽弁慶が吠える。沖田はそっと笑った。山南さんは剣気なんて言ったけれど、そんな上等なもんじゃあないね。


 律せられることなく駄々洩れになった殺気は浅ましく愚かしい。この男、人間の皮を被って二本足で歩いてみせるだけの獣だ。


 偽弁慶がまた吠える。人食い鬼もくやという咆哮が川面に響き渡る。並みの人間ならば体がすくんで動けなくなるかもしれない。


 沖田は動いた。脱力したようにやたらと低い構えから、無造作な俊足で偽弁慶の間合いに飛び込む。勢いを刺突に乗せる。あやまつことなく三度、偽弁慶の左の太腿に剣先を突き込む。


 ぶつり。腱を断つ手応え。跳び離れる。偽弁慶が体勢を崩す。血の匂いが噴き出す。


「小僧!」


 なおも吠え、偽弁慶は大太刀を振り上げる。それが振り下ろされるまで、沖田は待たない。丸太のような腕の下に潜り込み、柄の頭で偽弁慶の右手を打つ。親指の骨が砕け、大太刀が弾け飛んだ。


 偽弁慶が唾を撒き散らして絶叫したとき、沖田は既に間合いを空けている。刀を構え直すと、背筋に熱が走り抜けた。己の刀が爛々らんらんと輝く幻を見る。輝きの向こう側に這いつくばった偽弁慶が、初めて、顔を恐怖に染めた。


 命乞いでもしようとしたのか、偽弁慶が開いた大口に、沖田は刀を突き入れた。えぐってから引き抜く。次いで体勢を沈め、偽弁慶の両の脛に太刀を浴びせる。舌を失った口が獣じみた絶叫を放った。


 偽弁慶がへたり込んだまま後ずさる。べったりと血が尾を引く。沖田は偽弁慶の袴の裾を踏み、腹の真ん中に刺突を加える。刀を抜き、傷の上を踏み付ける。


「そろそろ死にたい?」


 沖田の問いに、偽弁慶は懸命にかぶりを振った。死にたくない、助けてくれ。都合のいい命乞いが血染めの顔にありありと浮かんでいる。


 聞き入れてやるわけがないじゃないか。沖田はとぼけてみせた。


「そう。もっと苦しんでから死にたいのかい」


 偽弁慶が目を見開いた。そこに絶望の色を見て取って、沖田は小さく声を上げて笑った。



***



 幼い頃の記憶はおぼろげだが、一つだけ、やけに鮮やかな色をした出来事が脳裏にこびり付いている。


 それは赤い色をしていた。宗次郎と呼ばれていた幼い沖田は、病んで痩せ衰えた誰かの震える手によって短刀を握らされ、囁かれた。


 どの道、もう長くは生きられぬ。苦しみから救ってくれ。


 導かれるままに力を込めると、子供の手にも容易く、短刀は病人の喉を破った。流れ出た赤い色を、宗次郎は見つめた。怖いとも綺麗だとも思わなかった。ただ、血は赤いのだと知った。


 初めて人を斬ったのはそのときだったと、後に気が付いた。斬った相手が誰だったのか、やはり思い出せなかった。


 そんなことをつらつらと山南に話したのは、江戸の天然理心流の道場、試衛館に住み込んでいた頃のことだ。山南は色白な顔を曇らせた。


「罪深い。悲しいことだよ、総司。人の死は本来、容易くはないはずだ。人を殺す罪は重い」

「なぜ?」


 沖田はがんない子供のように問うた。十も半ばを過ぎ、いつの間にか背丈も山南より高くなっていた。だが、わからないものはわからない。気取って知ったかぶりをするのは嫌だった。


 山南は静かに微笑んだ。


「身近な者が殺されたと思い描いてごらん。手の届かないところへ行ってしまうのだ」


 思い描くことは苦手だった。山南に字を教わるときのように明らかな成果が目に見えるのならばよいが、形を持たない物事を考えるのはおっくうだ。


「そのうち俺にもわかるかな」


 いい加減なことを言って、笑ってごまかした。


 ごまかしたところで俺は変わりやしないのだと、今にして思う。人を殺す罪の重さなど感じたこともない。山南は戦えない身になったが、手の届かないところへは行っていない。


 沖田の足下には、はらわたを飛び散らせて血の川に浮かぶ、首のない巨漢の死体が転がっている。沖田は、ねた首の両耳を削ぎ落すと、刀の汚れを拭って鞘に仕舞った。


 血に濡れた髪を掴んで偽弁慶の首を橋の欄干に載せ、両耳を拾って懐紙に包んだ。尖った形の右耳と、上半分がない左耳。下手人を討ったことの証拠になる。ついでに、投げ出されたままの大太刀を拾い、死体の腰から鞘を奪って刃を収める。


なまくらでも、売れば酒代くらいにはなるんだっけ?」


 耳のない首に問うが、無論、死人は答えない。


 沖田は大太刀を肩に担ぐと、ひょいと欄干に飛び乗り、西へ向かって歩き出した。まとわり付くような底冷えが、体の火照った今ばかりは、ひどく優しく心地よい。

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