【短編集】壬生狼小唄

馳月基矢

第一話 壬生に鬼あり(土方歳三)

 うち、知っとるんえ。


 ひじかたとしぞう様の御体はいつも、も言われんええ香りがしてはります。土方様の腕に抱かれて優しゅう撫でられたら、このまま溶けてしまってもええわなんて思います。


 何の香りか、うちは知っとるんえ。肌の匂いと汗の匂い、びん付け油の椿の匂いがします。着物に焚き染める御香と懐に潜ませる匂い袋は甘いじゃこうで、これが土方様にはえらい似合うてはります。


 せやけど、それだけと違うんえ。はて、何の香りどっしゃろ? うちも初めはわからへんかってん。


 うちがそれを知ったんは、秋の終わりの激しい雨の夜どした。土方様は傘を差してあんどんを掲げて、その賑やかな御一行を先導しながら、の八木の御屋敷に御戻りにならはりました。



***



 中庭の紅葉もみじさかなにするつもりだったが、あいにくの土砂降りである。気を利かせた禿かむろが赤や黄に色付いた葉を拾ってきて宴席に飾ったのを、壬生浪士組筆頭局長、せりざわかもは目敏く見出し、くだんの禿に褒美のこんぺいとうを握らせてやった。


 酒に浸らぬうちは悪くない男なのだ。


 土方歳三は雨中に立ち止まり、振り返った。左をおきそうに、右をめかけの梅に支えられた芹沢が、わめき散らしながら歩いてくる。芹沢の腰巾着の平山五郎と平間重助が酔った足取りで芹沢の後ろに従っている。


 花街、島原のすみから壬生の屯所まで、千本通を北へ上がって十二町ほどである。が、酔いどれを三人も連れていては、そのわずかな道行きが随分と長い。腹の中ではいらいらとしながらも、土方は愛想笑いを顔に貼り付かせた。


「芹沢先生、このくらいで酔ってもらっちゃあ困りますよ。屯所に酒を取り寄せて、江戸前の料理もこしらえてあるんですから」


 上機嫌の芹沢はと笑った。


「土方君が酔っ払いの儂に甘い顔を見せるとは珍しい」

「俺もたまにゃあ羽目を外したくなります。楽しい酒を飲む芹沢先生にあやかりてえ」

「よかろう、眉間のしわの消えぬ土方君に、この芹沢が羽目の外し方を教示して進ぜよう」


 うんざりするほどの大声で、芹沢はまた笑う。その隣で沖田は、にこやかな顔のまま鋭く両眼を光らせた。


 今宵、土方と沖田は芹沢を殺す心積もりである。


 壬生村の筆頭ごうげんじょうの屋敷が、壬生浪士組の屯所だ。土方や沖田たち、こんどういさみが江戸で営んでいた試衛館派の十名程は、離れ座敷に寄宿している。芹沢一派も初めは離れ座敷で過ごしていたが、いつしか母屋を堂々と占領するようになっていた。


 離れ座敷に用意した酒と肴を、芹沢は母屋に運ばせた。壁を挟んで隣では八木家の奥方と幼い息子二人が早々にとこを延べているが、御構いなしである。家主の源之丞は留守だった。


 芹沢と妾の梅を上座に据えた宴席で、平山と平間は馴染みの芸妓を呼び出してはべらせ、試衛館派からは土方と沖田、他に三四人が、宴会の続く角屋から出張ってきている。


 酒を満たした碗を手に、芹沢はがなり立てた。


「何だ、近藤君はおらんのか!」


 さんなんけいすけが穏やかに応じた。


「近藤さんはくろだにの会津藩の居所へ、今宵の宴の御礼を申し上げに行きましたよ。何せ島原随一の料亭、角屋で隊士全員を招いての宴を開いていただいたのです」

「なるほど。本来は筆頭局長たる儂が行くべきであったな」


「いえ、御気兼ねなきよう。会津公は、誰よりもまず芹沢さんを持て成さねばとおっしゃいました。先の政変で長州藩と睨み合ったとき、芹沢さんが一番の戦果を挙げられたのですから」

「それは山南君、あんた方と儂では肝の据わり方が違うのだ。切腹の覚悟を決めて辞世の句を詠んだ試しなど、山南君にはないだろう?」


「ございませんね」

「そこが甘いのだ。命をなげうつ覚悟に欠ける。そんなざまでは京都守護の任を全うできまい。あんた方はもっと武士らしくあらねばならんのだ。儂のようにな」


「おっしゃる通りで」

「しかしなあ、試衛館の面々は、局長の近藤君がまずまともな家柄ではない。近藤家は多摩の郷士だ。郷士なんてのは百姓と大して変わらん。山南君は歯痒く思わんかね」


「歯痒く、とは?」

「近藤君には将器があるが、如何いかんせん教養に欠け、免許皆伝を受けた天然理心流もまた品位のない喧嘩剣術に過ぎん。対する山南君はれっきとした武家の生まれで、学問も剣術も修めておるというのに、なぜ試衛館の門下に就いたのか」


「私は一刀流を学び、免許皆伝を許されましたが、他流試合で近藤さんに敗れましてね。この男の我武者羅な強さは一体何なのかと興味が湧き、試衛館への訪問を重ねるうち、近藤さんとの縁が深くなった次第です」

「それが将器というやつよ。試衛館には一刀流の山南君に藤堂君、無念流の永倉君、槍術の原田君に無外流の斎藤君と、他流の猛者もさが寄り集まっている。だから儂は近藤君という人間が心強くもあり、怖くもあるのだ」


 ちょうど酒瓶を持って隣に腰を下ろした土方を、芹沢が見やった。

 ひゅっとくうが鳴る。


 土方の喉に鉄の扇が突き付けられている。刹那の隙に芹沢が己の帯から扇を抜き、土方に向けたのだ。扇が土方のあごを持ち上げた。


「これが刀なら、土方君は死んでおる」

「さすがの腕前で」

「ならば、驚いた顔の一つもしてみせろ。可愛げのない」

「来年には三十になる男に可愛げを求められても困りますね」

「土方君はそんな年か。女よりも白く綺麗な肌をしておるゆえ、もっと若く見えるな」


 芹沢は扇を広げて己をあおぎ、空になった碗を土方に差し出した。土方は酒を注ぐ。


 平静を装った土方はその実、肝が冷えていた。しこたま飲ませたつもりだったが、剣豪で鳴らす芹沢の腕は、この程度の酒量ではまだ鈍らないらしい。


 大柄な芹沢の体に、梅がしなだれかかっている。こちらは既に酔いが回り、心地良さげだ。こんなに火照っては暑かろうと芹沢が悪戯をした襟元も裾も、割れて肌を覗かせたままになっている。


 芹沢の配下、平山は船を漕ぎ始めた。平間も調子に乗って酒豪の斎藤との飲み比べに興じているから、じきに落ちるだろう。


 空になった碗が土方の眼前に突き付けられた。


「芹沢先生、もう干しちまったんですか」


 笑みをこしらえて酌をする土方に、芹沢はにんまりとして問うた。


「土方君の家は百姓ながらにだいじんだそうだが、なぜ武士の真似事などしておるのだ?」

「家は兄が継ぎました。俺は何をしたっていい身分なもので」

「京都くんだりに来なければ、婿入り先は引く手数多だったろう」

おおだなの婿なんぞ、まっぴらごめんですよ」


「それで武士の真似事か。初めて会ったときは、どうにも奇妙な男だと思ったぞ。身なりこそ浪人風だが、仕草も言葉も柔らかく、まるで商家の店番だ。そのくせ気性はめっぽう荒っぽい。土方歳三は武士ではない、百姓ででっぼうこう上がりだと聞いて納得したがな」


 笑みに隠して、土方は奥歯を噛み締めた。百姓百姓と繰り返しやがって。だから俺は芹沢が嫌いなんだ。


 土方と沖田の視線が絡んだ。早く斬らせておくれよと、沖田の目は爛々らんらんとしている。酔い潰すなんてまだるっこしいことをしなくても、俺はしくじりやしないよ。


 齢二十の若年にかかわらず、沖田の剣技は既に達人の域にある。命じられれば誰でも斬ってみせると公言してはばからない。


 確かに沖田なら、素面しらふの芹沢を相手取っても勝利できるだろう。だからこそ芹沢を酔わせる必要がある。沖田が斬ったと露見してはならない。


 芹沢は今宵、泥酔して寝入ったがために、どこからか侵入したてい浪士に斬り殺される。そんな筋書きを、会津藩が望んだのだ。


 会津藩主、まつだいらかたもり公から直々の呼び出しがあったのは、三日前の夜である。土方と沖田は、会津藩の居する黒谷のこんかいこうみょうへ赴いた。


 容保公に目通るや、会津藩きっての若き秀才、こうようかたじんながてるによって、問答は速やかに行われた。


「芹沢鴨がそんじょうありがわのみやの親王殿下と接触したというのは、まことか?」


 土方は首肯した。


「まことでございます。芹沢は今日、唐突に、我ら壬生浪士組を率いて有栖川宮家へ参上し、殿下に御仕えしたいとの旨を申し上げました」

「芹沢は何を考えておるのだ? 有栖川宮殿下は長州藩と手を結んでおられた。無礼を承知で言えば、殿下は我らの敵だ」


「同じ旗の下にあるとはいえ、芹沢の腹の内は、試衛館派の手前どもにはわかりません。酒を飲んでは暴れる日頃の行いにも眉をひそめておりましたが、今度は尊攘派への接触。如何いかんすべきか、手前どもも公の御意向を伺おうと思っておった次第です」


「芹沢は、京都守護の浪士組に名乗りを上げるより前は、尊攘派の中でも過激なたまつくりぜいに加わり、ろうぜきを働いていたとの報がある。それはまことか?」

「わかりません。水戸を脱藩してきたらしいという程度しか。しかし、なにがしかの罪を負って腹を切りかけたことは事実のようです。やはり芹沢の素性は穏やかならぬものでしょう」


 神保が容保公を見やり、土方も顔を上げた。土方と同年輩にして京都守護職を司る容保公は、涼やかに整った顔を曇らせ、一言だけ告げた。


「芹沢鴨を何とかしてくれぬか」


 土方は静かな顔付きを保った。胸中には牙を剥いて笑い、かいさいを叫ぶもう一人の己がいる。


「闇に葬れとおっしゃいますか?」


 容保公は、うなずく代わりに目を伏せた。神保が秀麗な顔を冷ややかに強張らせ、土方に命じた。


「九月十六日、会津藩主の名において、島原の料亭角屋にて壬生浪士組を持て成す慰労会を開く。宴席で首尾よく芹沢鴨を酔い潰し、外部からの侵入者を装ってこれを暗殺せよ」

「かしこまりました」


 平伏して板の目を見つめながら、土方は唇の端を持ち上げた。俺はこれほどまでに芹沢を憎んでいたのかと気が付いた。


 試衛館派と芹沢一派が合して成った壬生浪士組は、近藤勇と芹沢鴨、二人の局長を頂いている。が、芹沢は、年長であり家格も上であることを言い立て、近藤を差し置いて筆頭局長を名乗り、やりたい放題だ。


 力士を相手取って喧嘩をし、大店や金貸しに強請ゆすりをかける。花街での悪評は特にはなはだしく、飲み歩く先々で店を破壊したことも、肌を許さぬ芸妓の髪をばっさりと断ったこともある。


 金戒光明寺を辞した後、夜のとばりの下りた鴨川のほとりを歩きながら、土方は沖田に言った。


「空にてんとうさんは二つもいらねえ。近藤さんが照らしてくれりゃあ十分だ。芹沢殺しは俺とおまえでやっちまおう。近藤さんには正道を歩んでもらわにゃならねえ」

「芹沢さんも年貢の納め時だなあ。逃げられやしないね。土方さんを本気にさせちまったんだから」


 そう、逃がしゃしねえさ。


 剣の腕で身を立てよう、本物の武士になってやろう、近藤さんを幕臣にしてやろう。いくつもの野心を抱いて多摩の田舎を捨ててきた。俺の野心の前に立ちはだかる敵は皆、必ず除く。


 土方は鏡を覗くように、胸中に棲む鬼と同じ顔で笑った。血がたぎるのを感じた。



***



 夜半、いのうえげんざぶろうの先導で二人の芸妓が八木邸を後にした。足音は、降り続く雨と遠雷のうなりに紛れた。


 芹沢暗殺の巻き添えになりたくなければ、ひいの旦那を捨てて逃げよ。そう諭すと、女たちは一も二もなくうなずいた。


「御梅姐さんは逃げはらへんのどすか?」


 旦那の命など気にも留めぬ女たちだが、芹沢の妾の梅には思い入れがあるようだった。梅は、愛くるしい中にもどこか物悲しげな美人で、もとは島原の芸妓だったのを、四条堀川に大店を構える呉服商が落籍して妾に囲っていた女だ。


「あの女は駄目だ」


 土方も沖田も山南も同じ判断をした。


 梅は芹沢に惚れている。呉服商の妾奉公が苦界よりなお苦しかったと見える。さもありなん、件の呉服商は、借金の取り立てのために色仕掛けでもしてこいと、梅を荒くれ武士の屯所へ寄越すような男だ。


 身の上話を聞いた芹沢は、梅を呉服商のもとへ返さなかった。梅は芹沢によろめいた。


 八木邸の本玄関に忍び込むと、左手の四畳半で平間が眠りこけている。土方と沖田、後衛を担う一刀流出身の山南敬助と槍の名手のはらすけは、視線を交わした。全員、覆面をしている。


 平間は捨て置け。ここで余計な物音を立てるのは上策ではない。


 うなずき合った一行は、奥のふすまに手を掛けた。敷居に塗った油のおかげで、湿気を含んだ襖も静かに開く。


 無人の六畳間である。さらに奥の十畳間に、芹沢と梅、平山が眠っている。


 原田が襖を閉じ、抜身の刀をぎらつかせて仁王立ちになった。仕損じて標的が逃げ出そうとすれば、原田がここで食い止める。


 奥の間の襖を開けた。中央のびょうを挟んで、右に芹沢と梅、左に平山。芹沢は丸裸で、梅は腰に湯文字を付けるのみだ。乱れた布団を見るに、泥酔しながらも事に及んだらしい。


 土方は、沖田と山南に目配せをした。すっと三つの気配が動き出す。


 山南が平山の枕元に立ち、刀を構えた。殺気がほとばしる。その瞬間である。


「何奴!」


 芹沢の銅鑼声が響いた。


 沖田が芹沢と梅へ屏風を蹴倒し、踏み付ける。山南が平山の首をねる。芹沢の腕が枕元の刀に伸びる。その腕に土方が斬り付ける。沖田が屏風越しに芹沢を突く。幾度も突きまくる。


 芹沢が凄まじい叫びを上げ、屏風の下から転がり出た。梅は布団の上で虫の息だ。芹沢は部屋の奥、縁へと逃れた。血まみれの腕で、いつの間にか刀を抜いている。


 土方と沖田が芹沢を追い、山南は梅にとどめを刺した。沖田の快剣が芹沢の刀をね飛ばす。土方が踏み込んで刺突する。体勢を崩しながら芹沢はかわし、隣室へ向かう。


 隣室には八木家の母子が休んでいる。人質に取られては厄介だ。

 芹沢は障子を蹴開けるや、部屋に駆け込もうとした。


 がつんと硬い音が鳴った。芹沢の向こうずねが文机にぶち当たったのだ。悪運はここに尽きた。芹沢が倒れる。


 土方は刀を振りかぶった。稲光が部屋を照らした。鬼の面が白々と、秋雨の夜闇に浮かび上がる。ぎょろりと飛び出た金箔張りの目の奥に、冷ややかな黒い瞳がきらめいた。


 渾身の斬撃が芹沢の肩に食い込み、骨を叩き割りながら背をえぐった。二度三度、刀を振り上げ、振り下ろす。勢い余る刃が部屋の鴨居を叩き、畳を裂く。八木家の奥方は我が子を両腕に抱き、壁際で身を縮めている。


 土方は、芹沢が動かなくなっても、完膚なきまでに刀を振るい続けた。血みどろの肉塊と化した芹沢を見下ろす。血と脂を吸って重くなった刀を懐紙で拭い、鞘に収める。


 そして土方はきびすを返し、庭へ飛び出した。沖田、山南、原田が続く。畑を突っ切って通りへ抜ける。


 殺戮の返り血も足下の土も全て洗い流す雨の中、鬼の面を外した土方はふと、軒下から己を見上げるまなざしに足を止めた。


「土方さん、どうした?」


 囁く沖田に、土方は密やかに笑った。


「顔を見られちまった。ほら、なりは小せえが、大したべっぴんだぞ」


 土方は三毛猫を抱き上げた。とっに刀の柄に手を掛けた沖田が、相好を崩して肩の力を抜く。


「脅かさないでよ。猫じゃないか」

「美男が好みらしく、俺にだけ懐いているんだ。よう、猫よ、今ここで見たことを誰にも言っちゃいけねえぞ」


 濡れた腕で抱いているのに猫は嫌がりもせず、土方に頭を摺り寄せ、喉を鳴らした。



***



 うち、そのとき知ったんえ。


 土方様の御体の香りは、甘いだけと違う妖しい香りどす。肌と汗とびん付け油と、御香と匂い袋、それだけやあらしまへん。


 血の匂いがしてはりますのや。どれだけ雨に濡れたかて御風呂に入ったかて、血の匂いは落ちひんのどす。


 なあ、土方様のええ香りの秘密、誰にも言うたらあきまへんえ。あんたはん、あんじょう用心しなはれ。言うてしもうたら、壬生の鬼に斬り殺されされますえ。

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