悪夢②

「――それで、こんな時間に来たのね」

 話を一通り聞き終えた智夜子の表情は見えない。真っ赤な夕日を浴びて隠れてしまっている。

 小さな溜息がこちらの耳にまで伝わってきた。それが何故か、心を落ち着かせる。

 ミナミはそのままの姿で相談室へ駆け込んでいた。赤い空気に包まれた教室は、時計の音すら聞こえない。

「貴女の家の猫なの?」

 淡々とした問い。ミナミは咄嗟に声が出ず、ゆっくりと頷いた。

 頬には大粒の涙がボロボロと垂れ落ち、呼吸は荒々しい。それでも、ここへ飛び込んできた時の状態に比べたらいくらか大人しくはなっている。息を吐けるくらいに安定はしてきたが、視界は未だ涙でぼやけていた。スカートを握りしめ、ただただ嗚咽を漏らす。

「……ふうん……そう」

 こんな時でさえ、彼女は冷たい。どうしてそんなにも無慈悲な声が出せるのだろうか。そう思っていると、智夜子は溜息交じりに言った。

「貴女、その猫を放置して来たんでしょう」

 思わず、息を止めた。

 ――そうだった。

 あまりの恐怖に逃げ出してしまった。バラバラになった、かつての大切な友人を置き去りにしてしまった。

「可哀想に。猫に罪はなかったのにね」

 簡単に、淡白に、その言葉を智夜子はミナミに放つ。

 顔を上げると、目の前に彼女の真っ黒な瞳があった。そして、ゆっくりと真っ赤な唇が開く。

「その子、死んでしまったのね」

 ――死ンデシマッタ……

 ソウ。

 私ガ、ヤッタノ。

 私ガ、殺シタ。

 殺シタ。

 殺シテシマッタ……――

 脳内に言葉が羅列され、それらは叫びとなって響く。ミナミは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

「違うわよ」

 智夜子の声が不協和音を両断する。

「この調子だと、答え合せをしたほうがいいわね」

 静かな声が耳を通り抜けてきた。

 顔を上げると、いつの間にか近くにいた智夜子がミナミの頬に指先を這わせている。触れられれば、その冷たさに身震いしてしまう。

「ミナミさん。貴女のせいではないのよ」

「……え?」

 智夜子の言葉を脳内で作り、反芻するも意味が上手く浸透しない。判断を司る機能がぱったりと停止してしまったように。

「可哀想に。ほら、涙拭きなさい」

 智夜子はミナミの頬に残っていた涙を指先ですくった。そして、自分のスカートのポケットからピンクのハンカチを出して差し向ける。

 ミナミは言われるままに受け取ると、その滑らかな布を握った。

「あ、の……」

 声は掠れていて上手く言葉に出来ない。咳払いをし、まだ呼吸も整えていないまま息を吸った。

「私のせいではない、ってどういう意味ですか?」

 問えば智夜子は「ふむ」と唸る。なんと説明しようか、思案するように眉を寄せて天井を見やる。しばらく、彼女は首を上に傾けたままだった。

 待つこと数分。長いように思われた時間は、可視化してみれば僅かな程度であることにミナミは気づくことが出来なかった。

 智夜子の長い漆黒の髪がさらりと落ち、ようやく彼女はこちらへ視線を向ける。

「……貴女がしたこと、ではないからよ」

 熟考した割に、どうも腑に落ちない説明だ。意味が分からず首を傾げる。

 彼女なりの慰めなのだろうか。しかしこの際だ。気休めはよして欲しい。

「どういうことですか?」

「言葉通りよ。貴女がしたわけではないし、猫が死んだのは今日でもない。確かに、死んでしまったけれどそれはもう随分前の話なの」

 そうして、智夜子はミナミの手のひらを触った。まだ慣れない彼女の温度に、ミナミはいちいち肩を震わせる。

 智夜子が触れる自分の指先に目を落とした。

 目を瞠る。その両手は、先ほどまで真っ赤にぬらりとした血で染まっていたはずだ。それが何故、綺麗な手のままなのだろう。

 智夜子の口からクスリ、と微笑が落ちてきた。

「分かったかしら」

「……や、え、でも……どうし……?」

 戸惑うあまりに、声が言葉にならない。

 確かに、この目で見たはずだ。黒い毛、目玉、三角の耳、爪が飛び出した脚、一つ一つがばらけている――見たはずだ。それが、幻だと言うのか。

「幻、じゃないわね。だって、貴女が現実に見たものなのだから。でも、時間がズレているだけなのよ」

 思考に入り込むように、智夜子が言う。猫を殺してしまったというショックが脳内にこびりついて剥がれないままで、どれだけ「貴女はやっていない」と言われても信用できるはずがない。

 ミナミは持っていたハンカチを落としてしまった。それを仕方なさそうに拾い上げる智夜子。付いた埃を払い除けながら、彼女は「あ、そうだわ」と何やら思い立った。

「ミナミさん、貴女、もう寝なさい」

「え?」

 突拍子もない発言に驚くのは当然だった。

「夢を見なさい、と言ってるの」

 ――夢……それを、

「見たら……何か分かりますか?」

 問いが口をついて出てきていた。智夜子の顔が見えるよう、真正面に焦点を合わせて。

 すると、彼女はハンカチをポケットに仕舞いながら投げやりに応えた。

「かもしれない」

 かもしれない? それは、随分と曖昧な。

「それは、次第ということよ」

 はた、と目が合う。そして、智夜子の口が釣り上がる。まるで三日月だ。

 それを見ていると何故だろう、不思議と微睡んでしまう。

 ――どうして?

 今は寝たくないのに。あの夢を見たくはないのに……


 ***


 ここは学園相談室ラビリンス。その、へやの一角。

 暗がりに差し込む月明かりを浴び、そっと微笑むのは、濡れたように艶やかな黒髪の少女。ゼミテーブルの上に座り、目の前で唸る人物に言葉を投げる。

「そうね。貴方なら、もう分かっているはずよ」

 黒いフードをかぶった者。それはなんなのか。自身でさえその存在を認知していないのに、存在し続ける者。

「もう分かってるはず。貴方はあの子であって、貴方でもある。それがきちんと分かれば、もう苦しむことはないわ。ただ、合わなかっただけなのよね」

 彼女は無表情で告げると、それからはもう顔を背けた。

「さて。貴方はどうしたい?」

 後ろを向いたまま囁く。背後のその人物は、やはり唸っていた。低く唸る、それはまさに獣のよう。

 智夜子は影の中に笑みを漏らした。

「どうしたい?」

 再度、問う。

 ちらりと首だけを回して、黒いフードを見やった。視線に気づいたのか、それは唸りを僅かに弱める。

「……カワリタイ」

 ようやく口を開いたかと思えば、ただたどしい声。唸り声とは打って変わる少女の声だった。

 返ってきた答えに、智夜子は短い溜息を浮かべる。

「それは本心?」

 こくり、と。すぐに肯の意を示す。

「そう。それじゃあ何故、未だに私のところへ来るのかしら」

 存在を証明するための行動は既に始まり、終結を迎えようとしている。自分で決めたことなのに、ここまで好き勝手に動いておいて、結局は他人の判断を乞う。

 それが、黒いフードの正体なのだろう。器が違えど、その核は同じということ。ただ分離してしまっただけのこと。

「きちんとあの子にも伝えておくことね。でないと、彼女の状況次第では、私が貴方を制限する。それでいいかしら」

 智夜子の鋭い声に、黒いフードは肩を震わせた。その奥にあるはずの表情は何も見えない。窺えない。目を凝らしても、闇に埋もれてしまっている。

「……嫌だ」

 しばらくして、押し殺した声が返ってきた。苦し紛れの声。渇望の声。

 その意図は何なのか。どうしたいのか。分かたれた思いと記憶と衝動をまとめてしまいたいのか。それとも、どれかを消してしまいたいのか。

 ――かわりたい。

 その言葉の本当の意味を知ろうと、智夜子は見据えた。



 夜が更けていく。

 黒いフードの人物はしばらく唸り蹲っていたが、ふと立ち上がると滑るように教室を出ていった。それを追うことも、呼び止めることもせずに、ただ行く末を見つめるだけ。

 静かな寝息が、闇に漂う。

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