中毒③

「その薬、意味があるの?」

 放課後、いつものように相談室へ足を運ぶと、開口一番に智夜子が言った。

「え?」

「薬よ。頭痛薬。持っているんでしょう?」

 千秋は困惑気味に智夜子の顔を窺いながら、鞄に入っていた錠剤の片割れを出す。

「意味あるの? それ。貴女、じゃない」

「え……やだなぁ、雅日さん。そんなわけ……」

 静かに言う智夜子に、千秋は首を傾げる。

「とぼけても無駄よ。最初から分かっているのよ、私は。その指も、頭も、それに……」

 智夜子はスっと人差し指をこちらに向けた。それは千秋の左胸を真っ直ぐに指し示している。

 何もかも、全て、見抜かれているのだと、千秋は彼女から視線をずらした。

「……確かにこの薬じゃ、あまり効き目はないかもですね」

 観念したように、千秋はへらりと口を緩める。智夜子の眉が少しだけ釣り上がったが、すぐに元に戻った。指を下ろし、千秋の前へ一歩近づく。

「ねぇ」

 声を投げられても、千秋は視線を戻さなかった。智夜子の顔が見られなかった。どうしても、その見透かすような目を見ることが出来ない。

 智夜子は構うことなく、また一歩近づいた。

「貴女は、自分に無関心すぎる、と私は思うのだけれど、気がついてた? 小早川さん」

 その言葉に、千秋は顔を引きつらせる。

「どういう、ことですか」

「あら。貴女が一番よく知っているはずよ。だって、そうでしょう? 貴女のその指も、頭も、胸も、誰にも言わない。言いたくない。心配して欲しくない。迷惑かけたくない。気づかないで欲しい」

 淡々と並ぶ声。千秋は思わず後ずさった。それでも、智夜子の顔は目と鼻の先にある。

 やはり見抜かれていた。これでは何も隠し通すことができない。今まで、上手く隠してきたのに。

 その焦りが混乱に、そして恐怖に変わる。途端、指がむず痒くなり、絆創膏を剥がそうと脳が叫ぶ。

 剥がしたい。剥がしたい。剥がしたくて堪らない……

「駄目よ」

 智夜子の声が鋭く切り込んだ。ざわめく脳の囁きが切断され、千秋は我にかえる。

「駄目よ。耐えなさい」

「でも……もう……」

「耐えなさい」

 そうは言うが彼女の声には必死さがなく、本当に引き止めているのか疑わしい。寄り添うでもなく、もぞもぞと蠢く指を掴むでもなく、ただ自分を見ているだけ。

「癖、というのは自分との闘いなのよ」

 またざわつく脳の囁きの中、冷たさでコーティングされた言葉が割り込む。

「約束、守れるわよね?」

「……えぇっと」

 答えは出せない。そう簡単に決断は出来ない。

 もし、約束を破ってしまったらどうなるのだろう?

 しっかりと守れる保証だってない。最初から守れる自信のない約束なんて、出来るわけがない。

「その癖、治したいんでしょう?」

 指先に冷たさが伝わる。智夜子の指が触れたのだと気づくも、振り払うことは出来なかった。

 体が動かない。頭はもう真っ白だった。

「ようく考えてみて。どうして、爪を剥がしたいの? どうして、頭痛を我慢したいの? どうして、自分を放ったらかしにしたいの?」

「そ、れは……っ」

 から。

 答えは喉元まで出掛かっている。しかし、それを口に出すのが――怖い。

「私は……」

「小早川さん、ここには人はいないわ。親しい友人も、親も、兄弟もいないのよ」

 智夜子はゆっくりと穏やかに言う。それまでの冷たさが嘘のように、柔らかな色を帯びている。

 喘ぐように息をしていた千秋はようやく彼女に視線を合わせた。

 真っ赤な夕焼けに包まれたそこには、自分と雅日智夜子以外誰もいない。自分の中にある弱くて脆い、我侭わがままを曝け出してもいいのだろうか。

 この奇妙な癖の理由をぶちまけても、大丈夫だろうか。

 ――いい、よね……?

 大きく深呼吸をすると、左胸の奥がじくじくと痛んだ。


 ***


「お姉ちゃん」

 気が付けば、自分は「お姉ちゃん」だった。

 名前では呼ばれない。ただの、家族での立ち位置。

 しかし、弟たちが学校へ入学すれば周囲からは「小早川の姉ちゃん」と認識され始めた。

 ここでも、家族の立ち位置を押し付けられる。

「小早川千秋」はどこにも生きてはいなかった。

「お姉ちゃんの言うことを聞きなさいね。お母さんだと思って」

 それは弟二人に放たれた言葉であったが、千秋をも締め付ける言葉だった。

「でも、お姉ちゃんだからと言って、特別扱いはしない」

 それはなんのことだったろう。

 お年玉の数、お手伝いの数、褒められる数、愛情の数……?

「やっぱり千秋は頭がいいわね。弟たちの勉強も見てあげてね」

 頼まれたことはなんでもやった。自分が分からないといけないからなんでも先取りして、弟たちに教えなければいけない。

 責任感は確かにあった。でも、頼る相手がいないと気づいたのはあまりにも遅すぎた。

 小学校高学年に上がれば、授業もそれなりに難しい。

 千秋は分数が苦手だった。それでも、頼ってはいけないのだと思い込んだせいで誰に聞くこともできなかった。

 それよりも、弟たちの面倒を見なくてはいけない。

 自分は後回しだ。

「千秋は病気一つしないわね。弟たちに比べたらお金がかからなくて助かるわ」

 どうやら風邪をひいたらいけないらしい。元気でいなくてはいけない。

 喉が痛い、頭が痛い、とは言えなかった。隠さなくてはいけない。

 咳をすれば、バレてしまう。元気なフリをしなくては。

「なんでこんなことも出来ないの! ちゃんとしてねって言ったじゃない!」

 突然の怒号は、あまりにも理不尽だった。

 ほんの少し手伝いを怠けただけ。帰りが遅くなっただけ。弟たちがいうことをきかないから……しかし、それは聞き入れられない。

 だって「お姉ちゃん」だから。

「成績も落ちてきたわね。部活、辞めなさい」

 そのテストの日は具合が悪かっただけだ。

「あぁもう、これじゃあ頼れないわね」

 そうして、信頼はあっさりと破壊された。少しのことが出来なかっただけで。

「お姉ちゃん」は万能じゃない。それなのに、成長と共に期待も大きくなっていく。

 千秋はその期待に押しつぶされた。

「小早川千秋」は、どこに生きているのだろう。

 探しても見つからない。どこにもない。誰の中にもいない。

 いるのは「お姉ちゃん」だけだ。


「私は、ただ、安心したかった。ここにいるって、『小早川千秋』は消えてないって。だから……」

「それで、痛みに逃げたのね」

 吐き出した言葉は熱を帯びた涙へと変わっていた。洟をすすり、静かにしゃくりあげる。

「大声で泣いてもいいのよ。ここには誰もいないんだから。誰も咎めないんだから」

 淡々とした声でも、言葉には救いがあった。 

 塞き止めていた想いが溢れてくる。こみ上げてくる。

 ――もう、駄目だ。

 嗚咽が漏れ、それはみっともなく不甲斐ない音だと思った。

 それでも、我慢は出来なかった。

 千秋は止めどなく溢れる涙も声も抑えることなく、全て流した。座り込み、床に手をついて泣く。悲鳴にも似たその泣き声は止むことがない。

 智夜子は泣き喚く千秋の指を見下ろした。

 彼女の生み出した「痛み」は剥がされた爪よりも深い。彼女は剥がし尽くしても足りないのだ。満たされないのだ。気づいたときにはもう手遅れだった。

「貴女の癖は、治らない。そう簡単には治らない。でも、治療は出来る。時間はかかるでしょう。傷つかない日なんて来ないのだから、嫌なことがある度に貴女はまた爪を剥がしたり、痛みを放置してしまうのよ」

 泣き声は、次第に薄れてきた。千秋はぐしゃぐしゃになった顔を上げて、目の前を見下ろす智夜子を見る。

 その目は、強い光を放っている。

「なお、し、ます……」

「そうね。貴女ならそう頑固に言うと思ったわ」

 溜息混じりに言われる。面倒そうなその表情に、千秋は涙を拭きながら苦笑を漏らした。

 声が枯れている。泣くのまで下手だとは、思いもよらない。

 息が整ってきた頃、千秋はようやく立ち上がり、智夜子にふてくされた顔を見せた。

「雅日さんって、冷たいですよね。優しくしてくれないから、私、立ち直れないかもしれないです」

「あら、貴女にはこれくらいの突き放し方が一番だと思うのだけれど」

 腕を組んで鼻息を飛ばす智夜子。千秋は意味が分からず首を傾げる。

「心配されるのが大嫌いな貴女なのだから大丈夫よ。無理矢理にでも立ち直るでしょ」

 千秋は息を飲み込んで黙った。

 確かに、巴絵の心配を跳ね除けた感情を持っていたのは事実だ。風邪をひいたって、具合が悪かったって、家族に心配されるのは嫌だった。

 自分は人への頼り方が下手くそだ。智夜子への頼り方も間違っていたことにようやく気が付く。

 千秋は力なく笑った。

「……私よりも私に詳しいですね、雅日さん」

「別に、貴女に限ってじゃないわよ」

 ぶっきらぼうな声が返ってくる。彼女はゼミテーブルに腰掛けると、文庫本を開いた。

「さて、そろそろいいかしら? 私のやることはもう終ったから。気が済んだらでいいからお帰りなさい」

 それから智夜子は物言わぬ人形のように、音を立てず、ただそこに存在していた。

 ――もう迷惑はかけられない。

 千秋はもう一度、顔を拭うと、智夜子に向かって深々と頭を下げる。

「失礼しました」

 それだけ一方的に告げた。返事など期待していない。

「あ、お礼を言うの忘れてた!」

 ドアが閉まり、部屋を出てから咄嗟に気が付く。

 もう一度だけ顔を覗かせようと振り返った。

「え……?」

 相談室の看板は


 ***


 後日談。

 千秋の絆創膏はそれから半年が経っても、一年が過ぎても、剥がされることはなかった。

 カラフルな指のまま、袖をめくって歩いている。

 痛みは今のところはない。

 ただ、傷つかない日はこないのだから、その時にどうやって立ち直ればいいか……頼れる人を探せばいいのか、それとも逃げ場所を作ればいいのか。

 いずれ、どちらかを選ばないといけないのだろう。

 それを忘れないように、と絆創膏は同じものを持ち歩いていた。


《case4:中毒、了》

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