11

 温かな水から、くせの強い香りが漂ってくる。

 これは、あれだな。あの子が着ていた服の香りと同じ匂いだ。この匂いが結構好きだと言っていたっけ。

 あの子の名前、何だったかな……

 つらつらと考えているうちに、段々と胸がむかむかしてきた。だがその感覚が、長い悪夢から現実へと引き戻してくれる。

 ええと、そうだ……確か、「みか」だ。実花さんだ。

 そう考えた時、実花の不機嫌な顔がぱっと頭に浮かんだ。

 あつしくん、と彼女は怒ったような刺々しい声で呼びかけてくる。

 いい? あなたの名前は、佐伯篤よ。分かる?

 そうか。あの時池で聞いた「あつし」とは、自分の名前だったのか。

 そう思った瞬間、ぱちりと目が覚めた。と同時に、猛烈な吐き気に見舞われる。

「おっ、吐くか? 吐け吐け。ほらここにぶちまけちまえ」

 あまりの気持ち悪さにウッと呻くと、すかさず声を掛けられた。体を強引にぐいっと持ち上げられ、湯船の外に抱え上げられる。風呂の洗い場に身体を降ろされるや、四つんばいになって、置いてあった洗面器の中に思いっきり嘔吐した。

 辺りには蒸気が立ち込め、すべてがぼんやりとかすんでいた。どうやらここは風呂場らしい。気が付けばすっかりと裸にされ、今の今まで、例のきつい匂いがする薬草の風呂に入れられていたらしかった。吐き気はしばらく収まらず、胃がからっぽになってもしばらくは顔を上げることもできなかった。吐きながら、涙がぽろぽろと後から後から流れ出て止まらなかった。

「おい。自分の名前、言えるか?」

 ようやく吐き気が一段落した頃に、背後から、穏やかな声でそう訊ねる声が聞こえた。その言葉に小さく頷く。

「佐伯、篤……、です」

 泣きながらそう言うと、一息置いて、そうか、と返事が返ってきた。

「よかった。お前、俺が山で見つけて担いで降りてからも一日中喚くわ騒ぐわで大変だったんだぞ。名前を聞いても山田勲だとしか答えないし」

 山田勲。誰だろうと思ったが、すぐに気が付いた。それはあの池で異国の男を撃った、あの兵隊のことに違いなかった。

「ちょっとそこで待ってろ」

 声の主は目の前の洗面器を持って消えたかと思うと、どこからか大きなバスタオルを持ってきてくれた。

「あの――」

 ごめんなさい、と言うべきなのだろうと思った。あの山が恐ろしいところだという意味が、今になって身を持って理解できていた。だけど、意に反して言葉が何も出てこなかった。

「まだあまり喋るな」

 そう言うと、バスタオルを背中に掛けてくれた。ぎこちない動きで身体を拭き、やっとのことでタオルを腰に巻くと、彼は目の前にやってきて、こちらの顔をじっと覗きこんだ。しばらくそのまま真剣なまなざしでこちらを見つめていたが、やがて表情を緩めると、うん、もう大丈夫そうだ、と呟いた。

 そうか、この人だったんだ。あの時、あの池で僕の名を呼んでくれたのは。

 この人は――、龍樹さん。この山を守っている人だ。

「あの……」

「喋るなってば」

 そう言うと、彼はくるりと後ろを向いて屈んだ。

「背中に負ぶされ。上の家に連れて帰るから」

「でも」

「いいから。お前はまだ歩けんだろう」

 言われてみれば、確かにまだ脱力していて、立ち上がることもできなさそうだった。

 申し訳ないとは思いながらもどうしようもなくて、そのまま龍樹の背中に寄りかかった。

 よっこいしょ、と言うと、彼は立ち上がり、そのまま風呂場の扉を開けた。見れば、脱衣所にいつぞや屋敷内で会った小さなお婆さんが立っていた。

「すまんが、ばあちゃん、後片付けよろしくな」

 お婆さんは無言で頷くと、こちらにジロリと目を移した。

「もう大丈夫なのかね、この子は」

 ああ、と短く答えると、上でしばらく休ませるから、と言い、龍樹はその家を出た。

 戸外は明るかった。蝉の声が相変わらずうるさい位に聞こえていたが、なんだかそれを耳にするだけで胸がいっぱいになって、またぼろぼろと涙が出てきた。ぐずぐずと鼻を鳴らしていると、龍樹が声を掛けてきた。

「ごめんな。俺が甘かった」

「――え?」

「おまえのこと、もっと気を付けてやらないといけなかったんだが」

 山道を歩きながら、やや神妙な調子で龍樹は言った。

「……いいえ。僕が悪いんです。あんなに実花さんに言われていたのに」

「種を、探しに行ったのか?」

「……はい」

「無謀なことするなぁ」

 そう言うと、龍樹はハハッと笑った。

「おまえは、聞き分けはいいんだけどな。時々信じられないくらい無茶なことをするから驚くよ」

「……すみません」

 まさかこの年で、人に負ぶわれるとは思わなかった。龍樹の広い背中に凭れて揺られていると、なんだか小さな子供に戻ったようで、高ぶっている気持ちも徐々に収まってきた。

「あの……、ありがとうございます。助けてくれて」

「おまえを探すの、大変だったんだからな。下手したら俺たち二人とも命を取られるところだったんだぞ」

「…………」

「もう二度と、あそこに入ってはいけない。分かったな?」

「はい」

 よし、と言うと、龍樹はまた無言で山道を登った。屋敷の近くまでやってくると、実花が前庭に立ち、こちらを見下ろしているのが目に入った。おーい、と龍樹が声を掛ける。

「篤はもう大丈夫だから。心配するな」

 その言葉に、彼女は「心配? するわけないじゃないそんなの!」と返す。

「あんたねぇ、自分が何をしたのか分かってんの? 下手したらおじさままで死ぬところだったんだから! あんた一人がのたれ死ぬのは勝手だけどね、他人を巻き添えにしないでよ。ほんっとバカみたい。あんたなんかね、山に命取られたって自業自得だってのよ――って、ちょっと!」

 屋敷の庭にたどり着き、実花のそばに寄っていった龍樹に「ほれ」と背中を向けられた途端、彼女はぎょとしたように目を見開き、すぐにくるりと後ろを向いた。

「ほとんど裸じゃないの! おじさまも浴衣ぐらい着せてあげなさいよ」

「少し、日に当てたほうがいいからな」

「なによそれ。人を椎茸みたいに」

 後ろを向いたままそう言うと、実花は突然、火が消えたみたいに黙りこんだ。

「あの……。ご迷惑かけて、ほんとにすみませんでした」

 やはりと言うか何と言うか、とにかくものすごく怒っているようだ。やってしまったことは取り返しがつかないし、謝ることぐらいしかできないので、ドキドキしながら無言のままの背中に声を掛けると、彼女は後ろを向いたまま、うつむけていた顔をぐいっと上げた。

「布団。部屋に敷いてあるから」

 それまでとは打って変わった低いトーンでそう呟くと、彼女はこっちを振り向かないまま、パタパタと裏庭のほうへ走っていってしまった。

「当然だけど……、実花さん、すごく怒ってますよね」

 恐る恐る訊ねてみると、龍樹はまぁな、と言って笑った。

「口ではあんなこと言ってるけどな、本当はお前のことをすごく心配していたんだぞ」

 彼に負ぶわれたまま玄関をくぐり、いつも寝泊りしている部屋まで運んでもらった。見れば、確かに布団が一式準備されている。龍樹はそこにゆっくりと身体を降ろしてくれた。

「風呂の支度から薬草の準備まで、実花にはあらゆることを手助けしてもらった。昨日俺たちが山を下りてから今まで、きっと一睡もしてないぞあいつ」

「あの……、あれからどれくらい経ったんですか?」

 今が昼間なのは分かったが、日時の感覚はまったく失われてしまっていた。

「今日は八月十日。山を降りてから一日半経ってる。お前がここに来て、六日目の昼だ」

 それを聞き、申し訳なさでいっぱいになった。

「さっきだってさ、あれ本当は、ほっとして泣きそうになってたんだと思うぞ」

 少し笑いを堪えたような顔で、龍樹は言った。

「あいつ、お前が正気に戻らなかったらどうしようって、本当はすごく不安だったはずだから」

「…………」

「実花は人に弱いところを見られるのが大嫌いだからな。今頃どっかで隠れて泣いてるよ」

「……どうしよう。龍樹さん」

 どうしようって言われてもなぁ、と彼は笑う。

「とにかく、無事でよかった。今、薬と着るものを持ってきてやるから、ちょっとここで休んでな」

 そう言って立ち上がろうとする龍樹の着物の袖を、思わずギュッと掴んだ。

「あの」

「ん?」

「僕の中にある種は、結局どうなるんでしょうか。もう時間もないけど――」

「ああ、それな」

 龍樹は穏やかな表情を浮かべ、座りなおした。

「お前が山に入ったせいで、種は急激に発芽を促進されたようだ。多分、次に眠ったら、奪われた記憶はほぼ取り返すことができると思う」

「……そうですか……」

「結果的に、種にとっては良かったんだがなぁ。何せお前自身にとって、この山は危険すぎたな」

「…………」

「だから種については安心していいぞ。それと、種の本来の持ち主についてだが」

「…………」

「本当に、心配はいらないから。彼女のために種を取りに行こうなんて、思わなくていいんだからな」

「……はい」

 よし、と言うと、龍樹は立ち上がった。

「じゃあ、すぐ戻るから」

 そう言って龍樹は立ち上がると、部屋を出て行った。

 一人取り残され、天井をぼんやりと眺める。

 どうやら、まだ幾分かあちらの世界に心が留まっているらしく、山田さんのことを思わないわけにはいかなかった。彼はきっと、あの記憶をこの山に捨てに来たのだろう。そして持ち主を失った記憶は、ああやって今も山の中を彷徨っているのだ。

 それって、どうなんだろう? あの記憶、そしてそこにあったあの強烈な感情は、誰にも所有されないまま、これからもずっとあの虚ろな時間の中を彷徨い続けるのだ。それを考えると、やりきれない気持ちになった。

 目を閉じると、彼が殺した異国の男の顔がありありと浮かんできた。帰りたかっただろうに、と思った。ここに記憶を捨てに来ることができたのだから、きっと山田さんのほうはあの後、無事に帰国できたのだろう。

 涙がまた、ぽろぽろと流れてきた。悲しいのか悔しいのか、はっきりと分からないまま、涙が流れるに任せていると、龍樹が薬を持って戻ってきた。

「起きられるか?」

 泣き止めない自分が恥ずかしかったが、どうにもならず、龍樹に手を借りて身体を起こすと、ゆっくりと苦い薬を飲み干した。

「これ、肌着と浴衣な。枕元に置いとくから、落ち着いたら自分で着ろ」

「はい」

 しばらく、龍樹はこちらをじっと眺めたまま無言でいたが、やがて口を開いた。

「もう大丈夫だとは思うが、まだしばらくは記憶の混乱が起こる恐れがある。おまえは山田さんの記憶に、あまりにも接しすぎたからな」

「……あの人は、ここに来たんですね。あの記憶を持って」

 龍樹はしばらくそれにどう答えようか迷っていたようだったが、結局「ああ」と言った。

「数年前の、今日みたいに晴れた夏の日に、あの人は苗木を置いていったよ。病気が見つかって、死が目前に迫っている、って言ってた。色々迷ったが、この世のことはこの世のうちに別れることにした、あの世に行く旅路くらいはせめて、安らかな気持ちで臨みたい、そうおっしゃっていた。しっかりと供養して、苗木を大事に育ててやって欲しいと言われたよ」

「供養?」

「そう、供養だ」

 龍樹は、こちらをじっと見つめた。

「あの種を飲むということは、ある意味、自分の一部を殺すことに似ているのかもしれないな」

「……あの」

「ん?」

「龍樹さんは、どう思ってらっしゃるんですか?……ええと、その、種を飲むってことについて」

「良いか悪いか、って話か?」

「はい」

「……さあなぁ」

 龍樹は、困ったように微笑んだ。

「故意に特定の記憶を捨てるということは、本来人間には不可能な能力だ。もしかしたら、それは人の道にもとる行為なのかもしれん。だが、いいんじゃないか? それが例え悪いことだとしても。人は、よいことばかり行う生き物ではないんだから」

「……例え、それが自分を殺すことになるのだとしても?」

 ああ、と彼は言った。

「おまえはどう思う、篤」

「え?」

 逆に聞かれて、どきりとした。

「今でもおまえ、あの種を持って行って渡したいと思うか?彼女に」

「……分かりません。自分を消したいくらい苦しいのなら、そうすればいいとも思います。だけど――、なんだか山田さんの記憶に接して、すごく悲しくなって。だって、あの記憶はまだ、生きていたから」

「『トカゲのしっぽ』みたいなもんだからな」

「しっぽ?」

「記憶だよ。種に取られた記憶は、体から切り離されても生き続ける。長い時間をかけて、ゆっくりと失われてはいくけれど」

「…………」

「持ち主から切り離された記憶ってのは、それ自身悲しく苦しいものだけれど、それ以上に虚ろで寂しいものだ。だけど、その記憶はかつて、持ち主の存在を揺るがすくらい、とてつもなく大きな何かだったんだ」

「…………」

「背負うとその重みで自分自身が潰れてしまう、それほどに大きなものを人々はここに託していく。それはどんなに恐ろしく辛いものであっても、かつて彼らの血であり肉であったものなんだ。だから俺は彼らの代わりに、それがこの世にあったということを覚えておかねばならない。良いか悪いか、それは分からないが、俺は自分がそういう役目のために在るのだと思っている」

「何と言うか……、すごく体力の要りそうな仕事ですね。ってあれ、体力、ではないか」

 そう言うと、彼はハハハと笑った。

「まぁでも、その通りだな。こっちが重みに耐えかねて潰れてしまったら、どうにもならんからな」

 彼の話を聞いているうちに、心の底で固まっていた氷が解けていくような気持ちになった。彼がいてくれてよかったと心から思えた。この人がいるから、きっと誰もが安心して、この山に記憶を預けていくことができるのだ。

「さ、もう寝ろ。しっかり寝て、明日の朝には一緒に山に登って、苗を返しに行こう」

「はい」

 素直にそう返すと、彼はにこりと笑った。そして「おやすみ」と言うと、部屋を出ていった。


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