8

「あつしくん!ねえ、起きて!」

 身体を強く揺さぶられる感覚に、意識が呼び戻される。

「もうそろそろ、目を覚ましたほうがいいわ」

 目の前で、誰かが大声で話しかけてくる。

「随分深く眠っていたから、さすがに心配になってきて。色々思い出せたかもしれないけど、あんまり一度に夢に入り込みすぎちゃうと、戻ってこられなくなるわよ」

「――――」

 自分が今どこにいるのか分からなかった。夢に入りすぎる?どういうことだろう。

 最初に感じたのは、額に置かれた誰かの手のひらの感触だった。心臓がドキドキと脈打っていて、ひどく息苦しかった。

「大丈夫?」

 その言葉を聞いた後、ようやく夏の暑さが戻ってきた。全身が汗まみれになっていて胸の辺りがむかむかした。

 ……僕はここで、何をしていたのだっけ。

 考える間もなく誰かに上体を抱え上げられ、強制的に水を飲ませられる。

 何か言おうと口を開きかけると、コップに入った水の残りを思いっきり顔に引っ掛けられた。おかげで水が気管に入り込んでしまい、苦しくて、ひとしきり咳込んだ。

「しっかりして!こっちに意識を戻すのよ」

 そう言いながら、誰かがびしゃびしゃに濡れた顔を着物の袖でごしごしと拭ってくれている。

「あ、の……あり、が、とう」

 やっとのことでそう口にした。

 本当は「いや、君のせいでこんなことに」ぐらいのことは言ってやりたい気分だったが、目の前にある必死の形相を目の当たりにしているうちに、そんな気持ちも萎えてきた。こちらの言葉を耳にしてようやく安心したのか、彼女は気が抜けたようにぺたりとその場にへたり込んだ。

「ああぁ、よかったぁ」

 心底安心したような顔で、手をぱたぱたと動かしながらこちらに風を送ってくれる。

「一瞬、ぞっとしたわ。篤くんがこっちに戻ってこられなくなるような気がして」

「いや、まさかそんな」

 そうだ。夢、だったんだ。長くて、とてもリアルな夢を見ていたんだ。

「夢は夢だし」

「いいえ、それは普通の夢じゃないわ。それはあなたの『記憶』なの。それにここは何が起こるかわからないところよ、絶対に油断しちゃだめ。わかった?」

 強い口調に押され、訳が分からないながらも「はい」と答えた。

「で。私の名前、覚えてる?」

 そう言われ、改めて彼女の顔をじっと見つめる。

「……すみません、分からないです」

 その言葉に彼女はがくりと肩を落とし、大きなため息をついた。


***


 実花に助けられながらやっとのことで下山すると、水浴びをして汗を流し、風通しのいい屋敷の縁側で休ませてもらった。い草の枕に頭を置き、氷嚢を目頭の上に載せて寝転んでいると、いよいよ病人になったかのような心持ちになった。

 ――僕に寄生するこの種の本来の持ち主は、もしかしたら小枝さんだったのかもしれない。

 そう思うたびに頭の芯がずきずきと痛んだ。こめかみに両手を当てて目を閉じると、はあっと大きく息をついた。

 さっき見た夢のおかげで、小枝さんと種の関係について考えないわけにはいかなくなっていた。はっきりとした確証があるわけではなかったが、彼女の持っていた種が今、自分の中にあるような気がしてならなかった。

 夢で聞いた前田さんの話によれば、小枝さんは息子さんの死から立ち直れず、長い間苦しみ続けているらしい。……とすれば、だ。息子さんの記憶を取り去ってしまえばきっと、彼女は新しく生き直すことができるのかもしれないのだ。

 今、この地上で生きている人々のどれほどがその種を必要としているのか。それは見当もつかないことではあったが、今残っている記憶を総動員して考えてみても、自分と接点を持つ人々の中で彼女ほどに深刻な状況に置かれている人は思い当たらなかった。きっと小枝さんは、種にまつわる一連の事柄に深く関与している、そんな気がして仕方がなかった。

 だけど……。

 それは同時に、あの人が「死」に近い場所にいるということではないのか?

 ――今このとき、その記憶を手放さない限り、この人は確実に命を絶ってしまうだろう。そう確信を持った人にしか、龍樹おじさまは決して種を渡すことはない――

 そう言った実花の言葉がずっと耳に残っていた。龍樹本人にことの真相を聞いてみるべきなのだろうか。この種の本来の持ち主は彼女であるのか、もしそうならば、彼女が本当に死を覚悟するほどに追い詰められていたのかどうかを。

「おーい、篤」と遠くから呼ぶ声が聞こえた。閉じていた目を開け、少し薄暗くなりかけた前庭を見やると、龍樹がこちらに近づいてくるのが見えた。

「どうだ具合は」

 こちらの物思いを見透かしたように彼はのんびりと近づいてくると、腕に抱えた大きな西瓜を手のひらでぱんぱんと叩いてみせた。

「スイカ、食うか?」

「……はい、頂きます」

 龍樹はにっと笑ってよっしゃ、と言い、一旦玄関のほうへと消えていったが、やがて大量の西瓜を切り分けたお盆を抱えて悠々とした足取りで戻ってくると、縁側の縁にどっかと腰をかけた。

「ちょっと切りすぎちまった」

 彼は笑い、こちらに手を伸ばして、もうぬるくなった氷嚢をひょいと取り除けた。そしてその代わりと言わんばかりに、カットした西瓜を一つ、おでこの上にぽんと置いてくれた。

「ほら。さっきまで裏の井戸で冷やしていたから、キンキンに冷たいぞ」

 額に西瓜の皮のひんやりした感触が伝わってくる。まだ体はぎこちなかったが、ゆっくりと身体を起こすと、西瓜の盆を挟んで龍樹の隣に腰を掛けた。目の前の赤い果実に大きく一口かぶりつくと、甘くひんやりとした感触が喉元を気持ちよく通り過ぎていった。

「今日は随分、思い出したんだな」

 まるで何でもない世間話でもするかのように龍樹は言った。

「え?……あ、はい」

 会ったばかりで何も報告などしていないのに、そんな風に言われたのが不思議だった。龍樹にはこちらのことがどこまで分かっているのだろう。色々聞きたい事だらけだったが、いざ本人を前にすると何から最初に話せばいいのか分からず、結局、西瓜を黙々と食べ続けることになってしまった。龍樹は「うまいなこれ」と言いながら、こちらの倍のスピードでむしゃむしゃとかぶりついている。

「なぁ。お前が思っていることだけどな」

 不意に、口をもぐもぐとさせながら、龍樹が言った。

「正しいよ」

「え?」

 西瓜をあっという間に一つ平らげた龍樹は満足げにふうっと息をつくと、続けた。

「お前の飲んだ種の本当の持ち主、彼女だよ」

「やっぱり、そうなんですか……って、あれっ、どうして」

「どうして分かったんですか、僕が考えていること」と訊ねると、龍樹は西瓜でべとべとになった手を作務衣でごしごしと拭きながら答えた。

「それぐらいのことが分からなければ、俺の役目は務まらん」

 そう言うと、二つ目の西瓜に取り掛かった。

 あまりに思っていたことを言い当てられたので、少し怖くなった。隣に腰掛けている龍樹を横目でちらりと盗み見ると、口元を赤い汁だらけにしながら、うまそうに西瓜をほお張っている。普通なら、頭の中を見透かされて気味が悪いと思うところなのかもしれないが、西瓜に集中するその有り様があまりに子供っぽく見えて、その様子に逆に救われたような気分になった。もし今、龍樹が深刻な表情を浮かべていたら、それこそこっちの心労はピークに達してしまったかもしれない。

「あの――、小枝さんの種がここにあるってことはですね」

 答えを聞くのは怖かった。そこまで言ってしばらくためらっていたが、勇気を出して、何とか口を開いた。

「あの人は、この種を飲まなかったってことですよね。とすれば、彼女に残った選択肢は……自ら、命を絶つってことになるのでしょうか」

「さあな」

「さあなって! だってそういう人にしか、あなたは絶対に種を渡さないって実花さんが」

「うん、それは確かに。だけどな、篤。おまえ、まだ全部を思い出してはいないだろ?」

「全部って?」と訊ねると、龍樹は西瓜をもぐもぐとしながら「おまえが種を飲むに至った経緯、全部だよ」と言う。

「種に奪われた記憶ってのは、単なる物忘れとは違う。奪われた記憶を人から教えてもらうのは簡単だが、それは単に思い出したような気になっているだけで、あまり意味のないことなんだ。そんな後付けの記憶なら何度でも種に奪い返されてしまう。だが、おまえ自身が自力で取り返した記憶なら、種にはそれ以上どうすることもできない。最終的には、自分の力ですべてを思い出すしかないんだ。その中に、おまえの問いの答えもある。だからそんなに心配するな」

「でも……そんなの待ってたら、いつになるか」

 自分の中に種があるってことは、小枝さんはこの種を飲めなかったってことで、それは結局、彼女を苦しみのなかに置き去りにしてしまったってことじゃないのか。彼女は今頃、どうしているのだろう。そう思うと不安で胸が苦しかった。こんなところでのうのうとしている間に小枝さんに何かあったら、僕はどうすればいいのだろう。

「悪いが、俺にそれ以上のことは言えないんだ」

 そう言うと、龍樹はこちらに顔を向けた。

「ごめんな」

「…………」

 どうしようもない無力感がのしかかってくる。食べかけの西瓜を膝に乗せ、うつむいた。

 もしかしたら、僕が今こうやっている間にも、小枝さんは自ら命を絶ってしまうなんてことがあるだろうか?

 死、という言葉の持つ絶対的な響きに、頭がフリーズしたような感覚だった。だって、死んでしまえばすべて終わりじゃないか。息子さんの記憶を失うことは確かに辛いことかもしれないが、種を飲めば、その辛さそのものも含め、すべてが消えるのだ。そうやって新しく生き直すほうが、死を選ぶよりどれほどよいだろう。

「僕は、もしかしたら取り返しのつかないことをやったんじゃないでしょうか」

 どんな経緯があったにせよ、もし自分が彼女から生きる選択を奪ったのであれば、それは許されることじゃないような気がして仕方なかった。

「龍樹さんからもう一つ種を分けてあげることはできないんですか?彼女に」

 ん~、と龍樹は唸ると、「それは無理だなぁ」と言った。

「どんな訳があろうとも、彼女は受け取った種を自分以外の他人に飲ませてしまった。禁忌を破った人間には、再び種を渡すわけにはいかないな」

「そんな! それだって、僕が悪かっただけかもしれないのに――」

「なぁ篤、落ち着けって」

 少し呆れたような目で、龍樹はこちらを眺めた。

「今更そんなに慌てたって状況は大して変わらないんだぞ。それに、人の心配をする前におまえ自身のことをもっと考えろよ。種が出て行ってくれないと、お前の体は本当に大変なことになるんだからな」

「でも」

「でもも糞もない、彼女のことは大丈夫だから心配するな。今は自分のことだけ考えろ。分かったな?」

「…………」

 うつむいたまま彼の言葉に反応せずにいると、龍樹は深くため息をついて、そのまましばらく夕暮れの空を眺めていたが、突然何を思ったのか、こちらににゅっと顔を近づけてきた。

「……おまえってさ、ほんとにさぁ、」と小声で囁きかけてくるその顔をチラリと見て、思わず拍子抜けしてしまった。彼は先ほどとは打って変わった少しからかうような目線で、こちらの顔を覗きこんでいる。

「人がいいっていうかなんて言うかさぁ――」

 笑いを堪え、少し遠慮したように声をひそめて、彼は続けた。

「そんなに、彼女のことが好きだったのか?」

「――は?」

 思いもかけない言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。

 こんな時に、なんだよ、それ。

 よくそんなことが言えるなと、最初は正直ムッとしたが、あまりに緊張感のない表情でこちらをにたにたと眺めてくる龍樹を前にしていると、自分の心にぴんと張り詰めていた緊張がぐにゃりと折れ、それと同時に、顔がかあっと火照ってくるのが分かった。

「うわっ、真っ赤になりやがった。ほんとかわいいな、おまえ」

 龍樹はそう言うと、今度は何の憚りも無く声を上げて笑った。

「なっ……ちょっと何なんですか?こんな時に」

 絶対に嫌がらせだ。恥ずかしさでいたたまれず、龍樹から急いで目を逸らせた。

「好きだとか、今はそういう話をしている場合じゃないでしょう? ほら、なんていうか、これはもっと人道的な話じゃないですか。人として、みたいな。……もう、ちょっとやめてくださいよその目つき」

 そんな言い訳をしたって龍樹に通用しないのは分かっていた。それに、こちらの気持ちをほぐすためにわざとそんな話をしてくれていることだって、理解できないわけじゃなかった。でもだからってこんなやり方は反則すぎる。まだ微妙に腹を立てつつも、この謎だらけで、けれど人を遠ざけることのない不思議な雰囲気を持つ龍樹のことを決して嫌いにはなれそうになかった。

 とりあえず落ち着かねば。自分に言い聞かせつつ、まだにやにやとこちらを眺めている彼に背を向けると、お盆の西瓜をひっ掴んで、ひたすらにがつがつと食べた。

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