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 実花に肩を借りながら小屋を出て、細い山道を下る。ふと来た道を振り返って見上げると、先ほどまでいた小屋が、木々の茂みの隙間からほんの少しだけその姿を覗かせていた。

 こんな山奥に来たのは初めてのことだった。ここが地理的にどの辺りに位置するのかも、実のところよくは分かっていなかった。だが、地区の名前だけは知っていた。

 天ヶ瀬地区。この地区の入り口には古い木造の吊り橋があって、そのたもとに立てられた立派な木の札に、流麗な文字で「天ヶ瀬」と書かれてあったのだ。その札の隣には、古めかしい木製の郵便ポストが立っていた。大人ひとり歩くのがやっとであるその細い吊り橋は、どうやら村に入るための唯一の通路であるらしく、この村に車やバイクで立ち入ることはできないようだった。ポストが橋の手前に置いてあったのは多分、郵便局員が毎日あの危なっかしい橋を渡らずに済むためにとの配慮なのかもしれない。ある時代で時を止め、日本が近代化する前にすっかりと忘れられ、取り残されてしまったようなところである。

 実花と並んで細い山道を下っていくうちに、木々の間から天ヶ瀬の人々が暮らす小さな集落が見えてきた。急な斜面に沿って猫の額のような段々畑が行儀よく並んでいて、その隙間を縫うように、古ぼけた数件の家が建っている。その中の一番大きくて立派なつくりの家に、実花は案内してくれた。

「龍樹おじさまぁ、只今戻りましたぁ」

 大声でそう呼びかけながら広い土間を通り抜け、上がり口で草履を脱ぐ。彼女に促され、こちらも慌てて靴を脱いだ。

「ここで待ってて」

 客間らしき広々とした部屋に案内してくれるとすぐに、実花は一人で部屋を出て行った。

 ぽつんと広間に取り残されてしまい、寄る辺ない気持ちで辺りをきょろきょろと見回す。

 なんだか時代劇のセットみたいだな、と思った。テレビで時々田舎の古民家として紹介されるような、元豪農の屋敷という雰囲気である。その部屋に家具らしいものは一切置かれておらず、開け放たれた襖の向こうへと続く広々とした座敷の奥には、見慣れない形の神棚らしきものが据えられていて、きれいに盛られたご飯やら榊やらが行儀よく供えられていた。

 ただでさえ馴染みのない場所だというのに、何もないだだっ広い空間というのは、人をますます落ち着かなくさせる。誰の気配も感じられなかったので、きっちりと正座していた足をそろそろとゆるめると、気分に任せて、着ている服を触ったり、くんくんと匂いを嗅いだりしてみた。それはこの家で借りた土色の作務衣のような装束だった。相も変わらず香草でいぶしたような強烈な匂いがつんと鼻を刺激する。

 そういえば実花さんも、いつも同じような色で同じような匂いのする着物を着ているな……そんなことをぼんやりと考えた。おしゃれに煩い年頃の女の子であるはずなのに、こんな浮世離れした恰好で不便極まりない暮らしを強いられて、果たして平気なんだろうか。この村には未舗装の山道しかないし、このご時世に窯で焚いた火で風呂を沸かし、水は山からひいたものを飲んでいる。どの家も天ヶ瀬姓ばかりで、時々人が畑に出ているのを見かけはするが、住人と接することは極端に少なかった。この集落に入るには、あの今にも壊れそうな危なっかしい吊り橋を必ず渡らなければならないし、この平成の世にあるとはちょっと考えられない村である。そう思えばあの橋を境に、外の世界とこの村とでは、あまりにも色々なことが違うように思えた。

 忘れられた村……いや。

 もしかしたら逆なのかもしれない。天ヶ瀬の人々のほうがむしろ、外の世界を拒んでいるんじゃないか?

 そんな風に考えてみると、突然えもいわれぬ不安が覆いかぶさってきた。住んでいた街から、世界から、僕は今、隔離されているのかもしれない。僕が住んでいた街は、もっと全然違ったはずだ。確か、もっとにぎやかで――

 ……にぎやか、で?

 あれ、と思った。そこで突然暗幕が引かれたかのように、記憶が袋小路に嵌ってしまう。気付けば、自分がいた街の風景が不思議なくらい思い出せなくなっていた。

 にぎやかだったとか、車の音やたくさんの人たちが歩いているイメージだけは辛うじて残ってはいるけれど、通学にどんな道を通っていたか、そこにどんな建物があり、どんな人たちが歩いていたか、そういう具体的な細部のひとつひとつが、脳にフィルターがかかったかのように真っ白で何一つ思い浮かばない。

 視界は欠けることがあると聞いたけど、まさにそんな感じで、記憶が少しずつ欠け始めているかのようだ。そう気付いた途端、ぞっとして背筋が冷たくなった。あわてて何かを思い出そうとしても、頭がしびれたようになってうまく働かない。

その代わり、夢でみたあの黄色い車のキーホルダーだけが頭の中でぶらんぶらんと揺れていた。

 

***


「おい、大丈夫か」

 そう声を掛けられてはっと目を上げた。

「顔色が悪いぞ」

 年齢は四十代くらい、長身でがっしりとした体格の男性が玄関近くの土間に立ち、こちらを眺めている。すっかりと着古してくたくたになった作務衣姿で、ぼさぼさの長髪は後ろで無造作に留められている。どことなく似た雰囲気の人をテレビで見たことがある気がした。ええと、あれだ、時代劇で時々見かける職にあぶれた素浪人、みたいな。身なりに構わぬ飄々とした雰囲気が、余計にそんな印象を強くしている。

「ええと……」

「俺が龍樹。忘れちまったか?」

 そう言われ、かなり気まずい思いをしながらも、正直に首を縦に振った。

「うん――まぁ、仕方ないわな」

 龍樹は下駄を脱ぐとのしのしと近づいてくるなり、目の前にどさっとあぐらをかいた。

「あの……さっき実花さんから聞いたのですが、解毒?とか、してくれるって」

 龍樹は、解毒ねぇと言って笑う。

「そうそう、解毒。早いことやっちまわないとなぁ」

「それで、あの、どういうことか……色々忘れてしまっていて」

「ああ。実花から聞いてるから、そんなに申し訳なさそうな顔すんな」

 龍樹は、さっき実花がやったのと同じように、ずいと顔を近づけてきた。そうしてしばらくの間、こちらの目の中をじっと覗き込んでいる。ここの人たちは他人の顔がそんなに珍しいのだろうか。戸惑いはしたが、何か必要があってやっていることのようなので、とにかくじっと我慢して座っていた。

「……随分と、取られ始めているな」

「?」

 なにが? と聞く前に龍樹は続けた。

「記憶が、種に取られている」

「……きおく、ですか」

 よく分からないまま、鸚鵡返しにつぶやいた。

「まず最初に、確認するぞ」

 こちらの様子に構うことなく、龍樹は続ける。

「おまえは、佐伯篤。中学二年生。首都近郊のベッドタウンでご両親と三人暮らし。俺が見たところ真面目すぎるくらい生真面目な性格で、どうやらサッカー部に所属しているらしい。この辺りのことはまだ覚えているよな?」

 生真面目な性格かどうかは別として、それ以外の事実は合っていたので、こくりと頷いた。 

 よかろう、と言うかのように、龍樹は大きく頷いた。

「では。今からおかしなことを言うからな、とりあえずは何も言わず、よく聞いてくれ」

 ……おかしなこと?

 その発言自体が既にまともじゃないような気もしたが、反射的にもう一度、こくりと頷いた。

「今、おまえの身体にはな、記憶を奪う種が棲みついているんだ」

「記憶を奪う、タネ……ですか」

 タネって、あの、草や木が生えてくる、あの種のことでしょうか、と訊ねると、龍樹は頷いた。

「そう。だけどただの種じゃない。宿主である人間の記憶を奪って育つ種だ」

「……」

 自分の口から、はぁ、と、相槌ともため息ともつかない声が漏れた。

 どんな顔をすればいいのか分からなかった。そんなものあるわけがないでしょうと言いたかったが、相手が至極真面目な顔をしているので、何となくそう言える雰囲気でもなく、結果、龍樹が次に口を開くまでの間、男二人で黙ったままお互いの顔を見つめ合うことになってしまった。

「ここ天ヶ瀬にしか生息していない特殊な樹木から取れる種だ。普段、種は厳重に管理されてあるんだが、時折、その存在を知った人間に分けて欲しいと頼まれることがある。その場合は俺が見て、それを本当に必要とする者だと判断すれば分けてやることにしている。しかし、どういうわけかこの種を飲む資格のないお前がそれを飲んじまった。これは本当に、ゆゆしき事態なんだぞ」

 種を人に譲る時には必ず、軽々しく扱ってくれるな、関係者以外への譲渡はご法度だと再三念を押しているんだがなぁと、龍樹は独り言のようにぶつぶつとこぼしている。そんな彼をぼうっと眺めているこちらに気が付くと、彼はゴホンと咳払いをして、やおら居住まいをただした。

「この種はだな、人の体内で育つんだ。取り込んだ人間の身体に宿り、宿主の記憶を奪うことによって力を得、発芽する。発芽時期は個人差があるが、どの種も皆、宿主の表皮のどこかを突き破って芽を出す。宿主は、体内から伸びてきた芽を確認次第、速やかにここ天ヶ瀬を訪れ、体から苗を引き抜き、この山に植樹せねばならない。そうすれば、宿主の記憶は持ち主を離れ、苗にすべて封じ込まれて、やがてはこの山の一部となる」

「それはつまり……、記憶が種によって吸い取られ、発芽した苗と共に、体から切り離されるってことですか?」

龍樹は頷いた。

「我々はそうやって納められた苗をこの山に植え、木を育て、それらを代々守り続けてきた一族だ」

 いやいや。これは何の冗談だろうか。

 龍樹の話を聞けば聞くほどに混乱は増すし、やたらと気味の悪い話でもあった。だが、自分の頭の働きが普通でないのも事実だったので、手放しで否定することもできなかった。

「……ええと。で、ですね。仮にそんな不思議なものがあったとして、なぜこの僕が、それを飲んでしまったんでしょうか」

「何故って? そんなこと俺に聞くな。自分で思い出せ」

 龍樹はこっちも迷惑してんだとばかりに顔をしかめた。

「種は本来、俺が飲む資格を認めた人間だけが手にするべきものなんだ。お前はまだ若いし、種など全く必要ない人間だってのに――」

 やっかいなことしてくれたなぁ、と、龍樹は再びぶつぶつこぼす。

「すみません、あの……資格を認めた人間、って?」

「簡単に言えば、自らの存在を脅かすほどの記憶を抱えている人間、だ」

「?」

「種の力を借りることで、自分が持て余している辛い記憶を捨て去り、新しく生きなおしたいと願っている人間。もしくは、苦しい記憶を抱える近しい者に種を与え、もう一度生き直させたいと願う人間だ」

「持ち主の存在を脅かすほどの記憶……」

「記憶ってのは、普通は時が経ち、新しい情報が脳に上書きされるにつれ、古いものはどんどん引き出しの下へと埋もれていくもんだ。だが、すべてがそうであるとは限らない。時が経つに従って心を蝕んでいく厄介なものだってある。この種はな、そういう種類の記憶を一番好むんだ。だから過去を持て余し、苦しんでいる者の記憶をそっくりと引き受けてくれる。そんなわけで、特定の記憶を手放すことを望む人間にとっては、とてもいい薬になり得るんだ。しかしおまえは若くて経験も浅いし、俺の見たところそういった種類の記憶を持ち合わせてもいない。そんな奴が不用意に種を取り込むと、種はお目当ての記憶を探し回り、かたっぱしからお前の記憶を奪っていくことになる。しかも、発芽するだけの力を蓄えることもできず、宿主の記憶をすっかりと奪いつくすまで体内に留まり、体の中で生長しつづけることにだってなりかねん」

「あの」

 あまり気は進まなかったが、とりあえず訊ねてみることにした。

「もしそうなった場合、僕は一体どうなるんですか?」

「まずは、経験による記憶がどんどん奪われていく。奪う記憶がなくなったら、生きることにまつわる本能的な知識を蓄えた部分をも蝕んでいく。そうなったら生活に支障が出ないわけがないだろ?」

「そう……なんですか……」と、言った。それくらいしか言うべきことも思い浮かばなかった。

 想像しにくいことではあったけれど、それが本当なら、相当にぞっとするような「ゆゆしき」事態であることには違いなかった。

「さっきお前が寝ていた小屋があったろう?あの小屋は『種』の世界の領域と、我々人間の居住する領域との境に作られている。お前は可能な限り種の世界に近づいて、種が体内に留まり続けぬよう、外へ向けて発芽するように促さないといけない。それと同時に、種に奪われた記憶を自分の力で取り返さなければならない。そうしなければ、お前の体の中で発芽した種はそこに留まって生長し続け、記憶のすべてを奪っていってしまうぞ」

「記憶を取り返すっていったって、そんなのどうやればいいんだか――」

「夢だ」

「夢?」

 龍樹は頷いた。

「お前の夢はすべてお前のものだ。種に奪われた記憶を、夢の中で取り返していくんだ」

 奪われた記憶だって?

 それならば、さっき夢で見た黄色いストラップと、あの白い手の女性は、種によって奪われた記憶の断片だったってことだろうか。

「とにかく。今、薬を煎じるから、それを飲んで今日は休め。種に棲み付かれていると身体に恐ろしく負担がかかるから、飯食って風呂に入ったら、ゆっくり寝ろ」

「はぁ……」

「何か質問は?」

 まるで学校の教師が生徒に尋ねるような口調でそう問われたものの、正直、何を聞けばいいかなど分かるはずもなかった。

「いいか篤。ちょっとややこしい話なんでな、このことはお前のご家族には秘密にしてある。今、ご両親はお前がサッカー部の合宿に行っていると信じておられる。合宿の期間は一週間。今三日が経過したので、タイムリミットまであと四日だ。その間に忘れていたこと全部、思い出せそうか?」

「いえ……何とも。でも、そうできるよう、がんばります」

 そう返すと、龍樹は少し困ったような、複雑な笑みを浮かべた。

「それはお前の本心からの言葉か?……いや、すぐに分かってくれるのはありがたいんだけどな、今の話をすぐにそっくり信じてくれる人間は、正直珍しいぞ」

 そう言いながら、龍樹は篤の頭に手を載せた。

「いや、多分、種に棲み付かれているからかな。だってほんとのお前は、ほらもっと……アレだ」

「アレ?」

 彼は一瞬何か言おうと考えをめぐらしたようだったが、やがてあきらめたようにふうっと肩の力を抜いた。

「……いや。なんでもない」

 龍樹はこちらを元気付けるように、頭をぽんぽんと軽く叩くと、今度はとても人懐っこい笑顔を見せた。

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