2 赦されない恋の花

第28話 赦されない恋の花 1

    1


 学校での私は変わらず浮いた存在。クラスに友達どころか話せる相手が一人もいない。朔を避けている今は本当に一人ぼっち。でもはっきり言って、学校での孤独はあまり私の精神を削ってはいない。学校の外にはたくさんの大切な人がいる。愛香ちゃんや中学時代の友達、オーストリアの友達とだって今でもメールのやり取りで近況報告をしたりもしてる。だから困るのは孤独じゃない。

 授業の変更を一人だけ教えてもらえないなんて事は当たり前に起こるから、自分で全部確認する。私を見てくすくす笑ったりされるのは地味に堪えるけど、決定的な事をされた訳ではないから反撃のしようもない。

 競争意識が高い子が多く在籍している所為か、表には知られていないだけでいじめはよくあるのかもしれない。そういえば、と愛香ちゃんを思い出す。彼女も大変な目に合っていたはずだ。愛香ちゃんははっきりと何があったとは言わないけど、私が諫早に行くと言った時に心配する様子を見せたのは彼女だけだった。

 最近では、物を隠される事が増えた。でも犯人は巧妙で、特定には至っていない。とりあえず対策として、大切な物は学校に置かないようにしている。そんな日々の中ついに、私への嫌がらせがエスカレートした。

 制服姿の私は今、全身ずぶ濡れ。トイレの個室で何故か滝のような豪雨に襲われた。ぽたぽた水を滴らせて歩きながら溜息を吐き出す。長年このダサ子スタイルで生きて来たけど、オーストリアでも中学でも問題はなかった。やっぱりこれは、諫早学園っていう特殊な環境の所為なのかなぁ。この学校の女の子達にはアイドルがいたり、顔出しの仕事を目指している子がいたりするから垢抜けている子が多いからなぁ……ジャージは体育の授業がある日以外は学校に置いてないし、ついてない。帰りたくてもこのままの姿じゃ電車には乗れないし、タクシーだって乗車拒否だろう。どこかで日向ぼっこでもしながら乾かそうと考え、私は校内を歩く。私が歩いた後は濡れた足跡が付き、なんだか幽霊みたい。笑える。

「おい。なんで水浴びなんてしてるんだ?」

 最悪。今一番会いたくない相手に見つかった。外に出るのは、授業の時間になってからにすれば良かったと今更ながらに思う。

「あー……そろそろ梅雨ですよね」

 顔を引き攣らせて乾いた笑いを口から漏らしながら振り向いた先、朔が眉間に皺を寄せている。手に筆箱と教科書にノートのセットを持っているから、移動教室から戻る所だったのかな。冷たくなった指先を伸ばして私は、怖い顔になった朔の眉間に触れた。人差し指と中指を使って皺を伸ばしてみたりして、平常心を取り戻そうとする。

「朔のおでこも、濡れちゃった」

 浮かべた笑みはきっと、とんでもなく情けなかったのだろう。朔の顔がより一層怖さを増して、素早く伸ばされた手にデコピンされた。地味に痛くて生理的な涙が滲む。

「お前はまた、笑ってんじゃねぇよ」

「大丈夫。私は強い子」

「――ほんと、バカ」

 腕を引かれ、ハグされた。

「朔まで濡れた」

「あぁ。だから帰んぞ。鞄取って来い」

「あいあいさー」

 送ってくれるって事だと理解して、敬礼してから私は自分の教室へ進路を変えて歩き出す。隣に並び、何故か朔もついて来る。一人で平気だよって笑って伝えたのに無視された。

 朔は何も言わない。だから私も無言で歩く。

 びしょ濡れの私が教室のドアを潜った瞬間、休み時間のざわめきが静まり返った。女子グループの一つがこちらを見て歪な笑みを浮かべたから、犯人の目星は付いた。笑っていたその子達は私の後について朔が現れたのを目にすると意地の悪い笑みを引っ込める。そのポーカーフェイス、君達は女優向きだねと心の中で拍手を贈った。

「寄越せ」

 自分の席で荷物を纏めようとした手は朔に止められた。意味を問う私の視線を受け止め、朔が答える。

「濡れんだろ」

 あぁ確かに。気が利くねぇなんて言って笑ったら睨まれてしまった。荷物を纏めて私の鞄を持った朔は、私の手首を掴んで歩き出す。次に向かうのは朔の教室。濡れ鼠の私が歩き回るせいで、廊下のあちらこちらに小さな水たまりが出来ていく。

「ねぇ朔。まるで幽霊みたいじゃない?」

 私の軽口に、朔はやっと怖い顔をやめて小さく笑ってくれた。

「そうだな。千歳飴、髪ボサボサだし」

 乾いている靴を濡らしてしまうのは嫌だったから外履きは鞄へ突っ込み内履きのまま外へ出た。見慣れた朔のバイクまで辿り着き、私専用ヘルメットを被る。日頃の恨みを込めて、朔の背中にぴったり張り付きびしょ濡れお化けの道連れにしてやった。

「さっさと風呂入れ」

「朔は?」

「気にすんな」

 我が家に着くと、教室の時同様当然のように朔が入って来た。多分朔は今、私に何もしない。だからバスタオルを朔に渡してから、私はお風呂場へ向かう。ぐっしょり濡れた制服を脱ぎ捨て熱いシャワーを浴びた。乾いた服へ着替えて、濡れた制服を絞りハンガーへ掛ける。

「朔も着替えたら? 背中濡れたでしょ?」

 朔がいるだろうリビングへ向かう前に、両親の部屋を探ってパパの服を出して来た。手に持っていた服を差し出すと、朔は受け取らず無言で制服を脱ぎ始める。濡れた制服を掛ける為のハンガーを渡して、着替え途中の朔に声を掛けた。

「私、ピアノ弾く。朔は帰る?」

「どうせこの後仕事だから。いる」

「テレビ観る?」

「いや。お前のピアノ聴く」

 パパの服に着替えた朔を連れてピアノのある練習室へ入り、私が奏でるのはショパン。ノクターンを第一番から全部弾いて、すっきりした代わりに少し疲れた。

「千歳飴」

「なにー?」

「ピアノは終わりか?」

「うん。ちょっと疲れた」

「寝る?」

「朔の前ではもう寝ない」

「何もしねぇよ」

 椅子に座った私と、ピアノの側の床で胡坐をかいている朔。会話する声は穏やかで、流れる空気もなんだか優しい。朔を見つめて私は、零すように言葉を紡いだ。

「朔は、どうして私を好きなの?」

 それまで指先で床の模様を無意味に弄っていた朔が、顔を上げてこちらを見た。

「……わかんねぇ」

 目を伏せて顔を逸らした朔を瞳に映したままで、私は、言うべきだった言葉を吐き出してしまう。

「私は、朔には答えないよ。洸くんが好きだし、待つって約束した」

「わかってる。……けど、消えねぇんだ」

「私にそんな価値ないよ?」

「それは俺が決める」

 顔を逸らしている癖に、言葉はまっすぐ。

「無理矢理は、犯罪だよ?」

「……もう、しねぇよ」

 あのキスで朔は、私の中に何を見つけたんだろう。目の前にいるのに、朔の声からも表情からも、私は何も読み取れない。

「なぁ千歳。あれ弾いて」

「あれ?」

 問い返した私を見上げ、朔が浮かべたのは泣き笑い。

「俺の失恋の歌。香水の」

 私が片想いの歌だと思っていたあれはどうやら、失恋ソングだったらしい。新たに知った事実には何も言わず、私は鍵盤にそっと指を置く。弾いたのは「Sweet scent」。珍しく、朔が歌う。結構上手くて驚いた。でも私の心を揺さぶったのは、歌詞だ。


 ******

 香りがこんなにも心を揺さぶるなんて はじめて知ったよ

 君はいつも いろんな感情をくれる

 手を伸ばしたらいけない存在の君 わかってるけど気になるこの気持ち どう処理すればいい?

 

 香りがこんなにも心を揺さぶるなんて はじめて知った


 背伸びした甘いパフューム 首からぶら下げられた誓いの証

 突っ張ってばかりで強いふりばかりの君が 年齢にそぐわないそれらを身につける

 本当は子供で 弱いくせに

 無理して拳握り締めて 震えながらも一人で立っているくせにね

 強がりの君に俺は 何をしてやれるんだろう


 香りがこんなにも心を揺さぶるなんて はじめて知ったよ

 俺の手には決して入らない 強がりな君に寄り添い甘えさせてあげる その役目

 無邪気な笑顔 守りたい

 君が君らしくいられる場所 この手で守りたい 


 君が変えた香りに揺さぶられながら 蓋した心が溢れ出す


 受け取られないのは知ってた 君の答えはわかっていた

 困らせたい訳じゃない 笑っていて欲しいでも

 どうか ねぇ 想い続けることだけは許して欲しい

 君に馴染んだ甘い香りも 愛しい君だと 思うから

 ******


 歌い終わった後で、朔は静かに涙を零す。私の言葉は迷子になって、心も迷子になって、朔が涙を拭うまでの短い時間、ただ必死に気付かない振りをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る