2-4 夜

 夜も白い風が吹いている。白い風力タービンは回り、白い幻影をかき混ぜる。ふおん、ふおんと揺れる羽は何も語らず、心地のよい風を送り出す。

 日夜問わず回り続ける白い羽根を、マリアはじっと目に焼き付けた。そうでもしていないと風力タービンを疑うということすら忘れてしまう。忘れて、幸せだけがやってくる。幸せという水が、疑問という泥を流してしまう。

「忘れることで私は幸せなの? そんなの、嫌。忘れたくないの」

 風力タービンに伝える。マリアの瞳には決意の色が揺らめいていた。その火はろうそくのように細く、けれど熱い。

 風力タービンから目をそらし、空を仰ぐ。何も生み出さな羽、何も生み出さない海、そして、空もまた、何も生み出さない。月も星も眠ってしまったのだろうか。藍色のスクリーンだけはゆるりゆるりとたなびいている。

 マリアは素早く踵を返し、白い床を蹴って走った。忘れてしまわないうちに行かなくては。マザーに見つからないうちに、やらなくては。

白い街の一日は規則性がない。シロのように気まぐれに動く。マリアも自由に動けるようになってきたものの、日中は呼び出されることも多く、どこかへ行くにもマザーに知らせなければならない。夜も同じく許可を得なくてはならないが、マリアは何も言わずに出てきた。

この焦りはすぐ幸せに変わるだろう。幸せに変換されてしまう恐怖もまた幸せに変わる。逃げなくては。幸せの波から早く逃げようと。

マリアは走る。マリアは幸せではないものを探す。マリアが落としてしまったのかもしれない、疑問の先にある「何か」を求めるためには探すための探偵が必要だ

息を切らし、白い家の前に立つ。クロの家だ。無防備な白い街は扉に鍵さえ付いていない。

「ねえねえ、起きて。私よ、マリア。お願い、起きて」

 クロは驚くことなく、ベッドからむくりと起き上がるとぼんやりとマリアを凝視した。辺りが暗いせいか、クロは真っ黒で、漆黒の瞳だけが輝いている。

「マリア……? なぜ、こんな時間に」

徐々に驚きを示すクロの隣で、シロが目を閉じたまま起き上がった。寝ぼけているのだろう。顔をしきりにこすり、舐めている。マリアはシロを見て思わずぎょっとした。

 幼い女の子は衣服を纏っていなかった。真っ白な体は何一つ隠さず、まだ凹凸のない体をさらけ出している。薄闇の光がなだらかな輪郭を浮かび上がらせ、少女とは思えぬ淡く優美な輝きを放っていた。まるで妖精が羽化したような、生まれたての透明な羽を彷彿とさせる。よくできた作り物にも見えたが、何度見てもシロだ。

 クロはシロを無理矢理布団中に押し込んだ。シロはそのまま寝息を立て、夢の世界へ飛び立った。数秒の出来事だが、マリアの目にははっきり記憶されてしまった。

「こいつは服を着るのが嫌いなんだ」

 猫だから、とクロは付け足したが、マリアは納得できなかった。確かに、シロは猫である。それは認めた。クロとシロは随分と年が離れている(クロはいくつかわからないが、恐らく二十歳半ばを過ぎているだろう)し、お互い飼い主とペットと認識している。……と、エイプリルから教わっている。

 それも認めてはいるが、シロは猫である以前に人間で、女の子だ。いくらなんでも羞恥心が芽生えている年齢であろうにも関わらず、それが猫であるという理由で済んでしまっていいのだろうか。マリアの混乱は長引いた。

「……用がないなら、帰れ」

「ち、違うの」

 クロの声でようやく我に返ると、マリアは両手を振った。

「探し物をしてほしいの。あなた、探偵なんでしょ? と姉ちゃんに聞いた」

「こんな夜中に見つけてほしいものなんてあるのか。寝床か?それとも、眠る方法?」

「ジョークを聞きたくて来たわけじゃないの。お願い、私、真剣なの」

「真剣だったら、朝にしてほしい」

「こんな時間に来てしまったのは謝るわ。でも、早くしないと……忘れちゃうの。どうしてっていう疑問が、消えちゃう」

 クロも上半身は何も身につけていなかった。近くにかかっていた上着を手に取ると素早く着こみ、近くにある椅子に腰かけた。マリアはほっとして、クロの目の前に座った。

「私、自分が何か知りたい。どうして忘れちゃうのか。なのにどうして幸せなのか」

「それは悪いことなのか?」

「だって、怖いじゃない。よくわからないのに幸せって。何かあるから幸せじゃないの?」

「幸せは形じゃない」

「知ってるわ。違うの。もっと、漠然とした……ううん、こういう漠然じゃないの。根拠のある推理、みたいな根っこが欲しいの」

 クロは面倒そうにテーブルに肘をつき、頬杖をついた。その顔に表情はないが、話はまだ聞いてくれるようだ。

「不安、なの」

 マリアはいつの間にか俯き、スカートの裾を握りしめていた。白い手は僅かに震え、体は小さく縮んだ。こんなにも幸せなのに。穏やかな波が怖い。だがこの感情も、数秒立てば消えてしまうだろう。そして思い出すのだろう。夜でもひたすら働く、風力タービンの音色と共に。繰り返し、繰り返し。幸せと不安と忘却が回り回る。

 クロはしばし黙って、マリアの言葉を吟味した。表情も体も動かなかったが、心は何か動いているように見えたのは、マリアの気のせいだろうか。

しばらくして、クロは姿勢を崩し、前かがみにマリアを凝視した。

「俺は何も持っていない」

「それも、少しだけど聞いた。記憶がないんでしょ? 怖く……ないの?」

「何も。怖いという感情すら俺は持っていない。俺が持っているものは弾丸とシロだけだ。俺はそれさえあれば十分だと考えている。幸せかどうかと聞かれれば多分、幸せな部類だろう。ここは何もない。恐ろしいものすらないはずだ」

 名前の通り、真っ黒な瞳が輝いた。マリアを諭すような目は姉であるエイプリルと同じだった。満たされているのだ。だからマリアのことがわからない。それでもいいから、とマリアは拳を固めた。

「じゃあ、探してくれないの? 私の幸せ」

「逆に聞く。今の何が不満なんだ?」

 マリアは一瞬言葉に詰まったが、だがすぐに答えた。

「穏やかすぎて怖い。何もなくて、暇で、怖い。前は……いつに対しての前かわからないけど、うんと昔はもっと色々あった気がするの。でもそれを思いだそうとすると突然心があったかくなって、幸せな気持ちになるの」

「それでいいじゃないか」

「お願い。堂々巡りしないで……。だから不安なの。いいことなんて一つもないのに、幸せな気持ちになるの? 甘いお菓子も食べてないのに」

 小声だった言葉はいつの間にか大きく張り上げていた。ベッドで寝ていたはずのシロはいつの間にか起き上がり、じっとマリアを眺めていた。その視線に気づくと、マリアははっとした。

 七色に光るシロの光彩がマリアを責めている。いつも見せる楽しそうな瞳は異形を見るようにマリアを見ている。否――睨んでいる。奥底の暗い瞳孔がマリアを刺す。

「シ、シロ……。見ないで」

 裸体を浮かび上がらせながら、シロはゆっくりとマリアに近づいた。恐ろしいことなど一つもない。目の前にいるのは猫と信じている裸の少女。天使のような白くふんわりとした髪は嵐の前兆のような、暗い雲に見える。

 シロはマリアに顔を近づける。鼻と鼻が触れ合うほどすり寄ると、歯をむき出した。声はもちろんない。だがその口は明らかに「帰れ」と訴えている。それどころか、強く叫んでいるようにも見えた。

「ご、ごめんなさい! 帰るわ! おやすみなさい!」

 シロを軽く突き飛ばすように後ずさり、急いでその場を後にした。転げそうな体を必死に進ませ――いつしか足音は消え、いつもの白い世界が広がる。

 マリアは走った。マザーのいる白い塔、そこにある自分の部屋を目指して。ただ走る。風力タービンの音が後ろからついてくるが、耳には入ってこなかった。

 今あるのは穏やかな高揚。走っているうちに暖かくなった体は楽しそうに踊り始め、心はいつの間にか満たされていた。

 そうだ。私はいつだって幸せ。なのに。

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