💘48 わかっているのに、それができない


 翌日の早朝練習は、海岸沿いのジョギングから始まった。


 昨晩懇親会場へ戻った有紗ちゃんは何事もなかったかのように明るく振舞っていた。

 あたしに対しても、いつもと同じ調子で屈託なく接してくる。

 スパポーンの忠告が耳に残るあたしとしてはその態度に違和感があるけれど、あたしへの罪悪感や赤フン同盟への恐怖がいくらかでも薄れたことで心が軽くなったのかもしれないし、あまり気にしすぎても仕方ない。




 それから――


“大切なちえりを幸せにするために、僕は迷いを捨てたはずなのに……”


 苛立ちを込めたため息と共にそんな言葉を口にしたリュカは――




 今朝はいつも通りあたしの横へぴったりとつき、穏やかな空気を纏っている。




 赤フン同盟や大山先輩に対して積極的な策を講じようとしないのは、あたしの身勝手な理由からだ。

 リュカに謝り、恋の成就のためにもう一度彼と共に前進していく決意を固められれば、彼を苦しめることはないんだろう。




 わかっているのに、それができない。




 濁りながらかき乱れるあたしの心は、清らかに澄んだリュカの心からますます遠く離れていくように感じていた。




「ちょっト、藤ヶ谷サン! スポドリ粉末こぼしすぎジャない?」


 スパポーンの声に、はっと我に返る。


 脳震とうを起こしたために数日間の運動を禁じられたスパポーンは、合宿中は空手部のマネージャーとしてあたしと一緒に活動しながら空手部の練習を見学することになった。

 今は部員達がジョギングしている間に、二人でスポーツドリンクを用意している最中だ。


「あ、ごめんごめん! でも、ちょっとくらい零れたって味は変わんないよ」

「まあ、それハそうカモしれナイけド……」


 スポドリが用意できたら、みんなが裸足を拭いて建物の中に入れるように濡れ雑巾とバケツを玄関に準備する。


「藤ヶ谷サン。この雑巾、端ノ方がちゃんト濡れてナイんだケド」

「え? そう? でも、濡れてるところで足を拭けば問題なくない?」


 いつも誰かさんと交わしてるような受け答えをするあたしに、スパポーンが形の良い眉をひそめてため息を吐いた。


「マネージャーやってルわりニ、藤ヶ谷サンって意外トズボラなのネ……」


『スパポーン、僕の苦労をあなたと分かち合えるときがくるとはっ!

 今度一緒に語り合いたいくらいですっ』


 スパポーンの嘆きに激しく同意したリュカが彼の両肩をがしっと掴むものだから、面食らったスパポーンが「慣れないコトしてるカラ、ひどい肩こりヲ感じルわ……」としきりに首を回していた。


 👼


 早朝練習と朝食の後、休憩時間をはさんで体育館での練習が始まった。


 今日の午前中は空手部と合気道同好会が体育館を使用することになっていて、体育館の半分のスペースには畳が敷かれ、合気道同好会が練習を始めていた。


「押忍! よろしくお願いしまーす!」


 大山先輩の号令で整列した部員たちが一礼すると、合気道同好会の部員達も練習の手を止めて挨拶を返す。


 真衣と目が合い軽く手を振ると、彼女はあたしの横にいるスパポーンに気づいた途端に真っ赤になった。

 真衣ってば、純情すぎて可愛いな!




 基本練習が始まるとノートに記録するあたしの横で、スパポーンは熱心に空手の練習を見つめていた。


 彼の視線の先には、きびきびとした号令を出し、ひたすら練習に打ち込む大山先輩がいる。


 流れる汗を拭う動きすら惜しむような無駄のなさ。

切れ長の瞳が放つ鋭い眼光。

途切れることのない気迫。




「練習時間ガ重なることガ多いシ、空手部ノ練習をじっくリ見学したコトなかったケド……。

 マスノ空手ハ本当に美しいシ、空手ヲ愛しテいるノが伝わっテくるワね」


 ため息まじりにスパポーンが呟いた。


「そうなの。空手をしているときの先輩はとても崇高で美しいの。

 あなたにそれが伝わって嬉しい。

 スパポーンもムエタイを愛しているんでしょう?

 きっとそれに負けないくらい、大山先輩も空手を愛しているんだと思う」


 隣に座るスパポーンを覗き込む。

 吊り目がちの大きな瞳を一瞬見開いた後で、彼はやれやれといったように苦笑いした。


「……ほんと、藤ヶ谷サンにハかなわナイわ。

 こんなマスの姿ヲ見せラレたら、ムエタイに誘うノヲ諦めルしかナイじゃナイ。

 空手ハとても素晴らしい武道だワ。ムエタイと同じくらいにネ」


 ウインクをしたスパポーンは今までにないくらいチャーミングな笑顔を輝かせる。


「そうダ!

 今度ワタシのバイト先ニいらっしゃイヨ。

 お友達価格デ楽しませテあげル」


「スパポーンのバイト先って、多国籍ニューハーフバーだっけ?

 ってことは “男の娘” がいっぱいいるの?」


「もちろんヨ。

 まあ、ワタシが一番カワイイとハ思うケドね」


 それはぜひ真衣を連れて行ってあげないと!

 奥手な彼女のことだから、顔を真っ赤にして舞い上がるに違いない。


 あたしはそんなシーンを思い浮かべてニヤニヤしつつ、午前中の練習を見守ったのだった。



 👼



 午後はどのサークルも練習はお休みで、一緒に海水浴を楽しむことになっていた。


 スタイルに自信のある先輩達はラッシュガードを着ないビキニ姿で男性陣の視線を釘付けにしている。

 けれど、大山先輩の好みが “昭和の女” だとガセネタを掴まされていたあたしは、残念なほど地味なワンピースしか持ってきていなかった。

 男のスパポーンがあたしより可愛い水着タンキニを着てるってどうなんだろう。

 彼いわく、自分はメンズの水着でも構わないのだけれど、トップレスに間違えられることを心配した周りの人たちからレディース水着を勧められたんだとか。




 それはさておき、この海水浴での一番の見どころは──




 大山先輩の眩しすぎる水着姿だっ!!




 均整の取れた筋肉の陰影は夏の陽射しの下でより鮮明なコントラストをつくり出し、彫刻のように美しいシックスパックの下は、オフホワイト地のサーフパンツが海風に靡く。


 もう少しタイトで丈の短いショートパンツタイプなら白フンへの脳内変換がもっと容易になったのにと、唯一そこが悔やまれる。


 あんまり凝視すると刺激的すぎて鼻血が出そうだし、赤フン同盟の目がどこで光っているかもわからないから、あたしは真衣たちとビーチバレーをして気を紛らわせることにした。




『ちえりっ! スイカ割りはいつするんですか?』


 リュカがうきうきしながらあたしに尋ねてくる。

 真夏のビーチでの真っ黒な燕尾服姿は見てるこちらが暑苦しくなるけれど、当人は汗ひとつかいてない。


(もう少ししたら始まるみたいだけど、なんでリュカが気にするの?)

『スイカ割りって一度やってみたかったんですよ。

 僕がばっちり誘導しますから、ぱっかーんと割りましょうねっ』

(過保護に誘導されるスイカ割りなんて面白くもなんともないじゃない!)


「ちえりーっ! そっちいったよー!」


 興奮気味のリュカに呆れていたら、あたしの方へとボールが来た。

 慌てて打ち返そうとしたけれど、直前までよそ見をしていたせいで手元が狂ってしまい、スイカ形のボールはぽーんと大きな弧を描いてさざ波の立つ海面へと着水した。


「あー! ごめんっ! 取ってくるねー」


 ざぶざぶと波を分け入りボールを取りに行くけれど、小さくうねる波を越えながらボールは少しずつ沖の方へと離れていく。


『風もあるしボールがどんどん流されちゃいますね。僕が取ってきますよ』


 黒い翼を広げてあたしのすぐ上を飛んでいたリュカが、ばさりと羽ばたいてスピードを上げた。


 ボールに気を取られていたあたしとリュカがこちらに近づいてくる三人組に気づいたのは、リュカが拾ったボールをあたしが受け取り岸へ戻ろうと振り返った時だった。

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