💘36 もう止められない。それなのに

 スパポーンのグローブが大山先輩の顎に入る。


 ただし咄嗟に先輩が後ろに傾いたためクリーンヒットにはならず、先輩は二、三歩バックステップをするように間合いを取って構え直した。


 空手部員たちが見学する対面にはいつの間にかムエタイ同好会のメンバーも揃っていて、部長同士の対決を皆が食い入るように見つめていた。




 スパポーンが勝ったらあたしがムエタイ同好会のマネージャーになるなんて、当のあたしが承諾するわけがない。

 だからこの賭けが成立することはあり得ない。

 一方的に賭けを仕掛けてきたスパポーンの独りよがりで片付ければ済むことだ。




 でも、もし──




 大山先輩がマネージャーあたしを必要ないと思っていたら……?


 もし、先輩が負けた時にはスパポーンの要求を飲むつもりだったら……?




 混乱する心の内にそんな不安がむくむくと湧いてきたとき、大山先輩の顔つきが変わった。


 拳サポーターを着けたこぶしはぐっと顎のあたりまで引き上げられ、獲物を狙うような鋭い目つきも軽快なフットワークも、先輩が本気モードに突入したことを伺わせた。

 スパポーンもそんな先輩を前に武者震いのように肩を上げ、にやりと笑う。


「せぃやっ!!」


 スパポーンが左足を上げてタメを作ろうとした瞬間、ダン!と踏み込んで間合いを詰めた先輩が電光石火の正拳突きを水月みぞおちに当てた。

 たまらず身を屈めたスパポーンを見届けずに背中を見せたかと思うと、踏み込んだ足を軸に流れるように体をひねり上段の後ろ回し蹴り。

 しかし、スパポーンがグローブで側頭部をガード。先輩は下りた足をそのまま軸に素早く中段の回し蹴り。

 バシッと音がしてスパポーンの脇腹にヒットするも、よろめいたスパポーンが構え直す。



 固唾を飲んで見守っていた空手部員たちが、先輩の優勢に「主将ナイス!」「いけいけーっ!」と声援を送り始める。

 それに呼応して、ムエタイ同好会のメンバー達もスパポーンコールを始めた。


 スパーリングの勝敗の行方はもはやあたしを賭けた戦いの域を越えて、空手とムエタイ、双方の面子を賭けた緊迫の一戦となっている。




 だめだ。これはもう止められない。



 それなのに──



 体育館全体が白熱している中、空気の読めない堕天使が一人。




『こんな一方的な賭けは続けちゃいけません! 僕が止めてきます!!』


 そう叫んだリュカが飛び出した。


「あっ! 待って――」


 あたしが慌てて伸ばした手はリュカの翼を掴めずに空を切った。




 あんな戦いの中に飛び込んで、一体どうするつもりなのよっ!?




 にじり寄る先輩から間合いを取りつつ態勢を整えたスパポーンが、軽く体を沈ませた次の瞬間先輩の懐に飛び込んだ。

 至近距離からのラッシュと膝蹴り。空手とは異なる間合いからの攻撃に、たまらず後ろに退く先輩。

 ムエタイ同好会の歓声がひときわ大きくなる。


 間合いが開いた隙をついてスパポーンの左足が上がった。強烈なキックがくる!




 ところが──




『やめてぇぇぇっ!!』



 右肘を体に寄せてガードの態勢をとった大山先輩の前に、なぜかおネエ口調のリュカが飛び込んできた!!


「リュカッ!! あぶな──」


 先輩のこめかみを狙ったスパポーンの左足が、軌道を描く途中でリュカの肩に当たった。


โอ๊ยああっ!!」

『う……っ!!』


 左足に渾身の力を込めていたスパポーンがバランスを崩す。



 ダーーーン!



 体育館に響く音。

「あっ!」と皆が小さく叫んだ瞬間には、スパポーンは背中を硬い床に打ちつけて倒れていた。





 会場が静まり返る。

 リュカがはっとして跪く。

 大山先輩が構え直した拳をゆるめて声をかけた。




「おい……。スパポーン……?」



 先輩の声に反応し、スパポーンがぴくりと動いた。

 首をもたげて床に肘をつき起き上がろうとして……。

 ゴン、と鈍い音をさせてまた床に沈んだ。



 異常を察した大山先輩が「おいっ! 大丈夫か!?」と駆け寄った。

 倒れたスパポーンの傍らに跪いていたリュカが顔を上げる。

 目が合い、あたしも弾かれるように走り寄る。



「スパポーン! スパポーン!」


 あたしの呼び掛けにも、軽く眉をひそめるだけで目を開けないスパポーン。


『脈と呼吸が正常ならば、おそらく脳震とうかと』

 リュカの言葉に軽く頷き、あたしはスパポーンのグローブを外し、手首を取って脈を測った。

 かなり早いけれど、脈は規則正しく打っているし、呼吸も確認できる。


「転んで頭を打ったので、脳震とうを起こしたんだと思います。とりあえず救急車を呼びましょう」

 隣にしゃがみ込んで心配そうに様子を伺っていた大山先輩にそう告げると、「そうだな」と頷いた。


 あたしがハーフパンツのポケットから携帯を取り出して119番へとかけ始めると、周囲でざわついていた双方の部員達も倒れたままのスパポーンの周りにそろそろと集まり出した。


 電話越しに倒れた状況を説明し、応対した人の指示に従って待つこと数分。

 スパポーンが唸りながら薄目を開けた。


「สถานที่นี้อยู่ที่ไหน……?」


 タイ語で何かを呟いた。

 何を言っているかはよくわからないけれど、とりあえず意識は戻ったみたいだ!


 リュカがほうっとため息をついた後に、『“ここはどこだ?” と言ってます。頭を打ったせいで少々混乱しているようですね』と教えてくれた。


「スパポーン! 俺だ! わかるか?」

「あ……。マス……?」

「そうだ。お前は俺とのスパーリング中にバランスを崩して倒れて頭を打ったんだ。念のため救急車を呼んだからそのまま待っていろ」

「うん……」


 大山先輩とのやりとりに周りにも安堵の空気が広がっていく中で、サイレンの音が近づいてきた。

 ムエタイ同好会の部員が救急隊員を迎えに行き、程なくしてストレッチャーと二人の救急隊員と共に戻ってきた。


「脈拍、呼吸共に正常ですし、脳震とうの可能性が高いですね。

 転倒して頭を打ったとのことなので、念のため脳に損傷がないかの診察が必要です。どなたか病院まで付き添いをお願いします」


 救急隊員の要請に「あたしが行きます」と手を挙げると、大山先輩が「俺も」と名乗り出た。


 あたしの背後でも『僕も行きます……』と遠慮がちにリュカが言う。

 あたしが病院へ行くわけだからリュカが付き添うのは当然だと思っていたけれど、彼の口ぶりからしてスパポーンを転ばせた責任を感じているらしい。


(救急車の中は狭いから、リュカは空を飛んでついてきて)


 あたしが指示すると、彼は神妙な顔で頷いた。


 スパポーンを乗せたストレッチャーに続いてあたしと大山先輩が乗り込むと、まもなくサイレンが鳴りだした。


 こうして、救急車に乗ったあたしたちと空を飛ぶリュカは、合宿所から最寄りの総合病院へと向かったのだった。

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