46th try:True End
天井に浮かび上がった魔法陣の光が薄れ、灰のように剥がれ落ちて消えてゆく。
それと同時に、あたり一帯を、奇妙な騒音が包んだ。
春先の通り雨のような。
微かな潮騒のような。
どこか遠いところから響いてくる、儚げな、ざわめき。
地面が微かに震えているのを、俺は感じ取る。
「これは……?」
「魔法がとけたのさ」
ハイネが言った。
「夢は覚めた。まやかしは消えた。……この国は、あるべき姿に戻るんだ」
そんな魔王の言葉を合図にしたように――辛うじて形を保っていた地下の広場が、崩壊を始める。
壁のひび割れが広がってゆき、地面の石畳が、無数の瓦礫が、急速に風化して崩れ始める。天井からの落盤が、俺たちの頭上に届く前に、ライムグリーンの淡い光を放ちながら、粒子となって空気に溶けてゆく。
「……さあ、ここから出るぞ。生き埋めになりたくはないだろう」
そう言ってハイネが手をかざすと、目の前に黒いブラックホールのような黒い穴が開いた。
「怪我人も多いからな。貴様の呪いを書き換える前に、まずは全員を一気に城まで転送――」
「待ってくれ」
俺はハイネの言葉を遮った。
怪訝な顔をする彼女に、俺は頼む。
「俺以外の人を、先に送ってもらってもいいか?」
「……なぜだ?」
「まだ、やり残したことがあるんだ」
俺は立ち上がる。
そう。
どうしても伝えたいことがあった。
全部が終わってしまうその前に。
※※※
城から出た俺は、黄昏に消えゆく街を目の当たりにした。
大通りの両脇に居並ぶ商店。その屋根の先端から、少しずつ、少しずつ、淡い光の粒子が赤錆色の空へ溶け込んでゆき、建物の輪郭を淡い光の中で薄れさせる。
街を歩く人たちも同じだった。その頭上から、水晶のようにきらめく光の柱が、天に向かって伸びて、溶けてゆく。だが、誰もそれを気に留める様子はない。
光の粒子は街の頭上で渦を巻き、ひとつの銀河を為している。
そこから聞こえるかすかな音が、さっき聞いたさざめきの正体だった。
(何を考えているのかはだいたいわかる。――急げよ。日没前には、すべてが消える。人も、街もな)
魔王の言葉を思い出しながら、俺は足早に歩く。
これまでに幾度も通った道筋を。
大通りから一本外れた商店街。
そこをまっすぐに抜けた、人気のない突き当り。
いつも人でごった返していたその店は、見てきた他の建物と同じように、淡い光を放ちながら静かにたたずんでいた。
うっすら一部が透明になっているドアのノブに、おそるおそる手をかける。手ごたえはまだあった。それを確かめながら、ゆっくりと開く。
カウンターから窓の外を眺めていた少女が、蝶番のきしむ音に振り返った。
「あっ……えーっと、ごめんなさい! 今日はもう、店じまいで……」
その懐かしい声に、涙が出そうになる。
カールした栗色の髪と、華奢な身体。
小動物のような、悪意のない笑み。
この店で、なんど彼女と話したことだろう。
なんどその明るい声に助けられたことだろう。
「あぁ……いや、買い物に来たわけじゃないんだ」
俺は平静を装って言う。
この店の看板姉妹の姉、ミミ・ミリアーテに。
「?」
「ナナは、いまどこに?」
「へ? もしかしてナナのお友達ですか? えっと……さっきまで居たんですけど。あれ、買い物かな? おーい、ナナ―? お客さんだよー」
無邪気に呼ぶ声を聞きながら、俺は悟る。
彼女がもう、ここにはいないことを。
「おっかしーなー。いまはまだ道場の時間でもないし、店にいるはずなんですけど……。おーい!」
「いや、いいんだ」
首を傾げて店の奥を覗き込むミミを制する。
「できれば二人いっしょに、話がしたかっただけだから。――君たち姉妹の、お父さんのことで」
夕陽が店内に落とす濃い影の向こうで、彼女が息を呑む音がした。
「……父の、お知り合いなんですか」
「ああ。むかし戦線で、お世話になってね。ただ俺は、その……怪我のせいで除隊になって、最後までは一緒にいられなかったんだけど」
「そう、ですか……」
「残念だったね」
いつかもそんな嘘をついたことを思い出す。
あのお祭りの日。櫓のうえで彼女は、自分の父が魔物との闘いで命を落としたと俺に伝えた。
だが、それは事実じゃなかった。
アルメキアは――魔王ハイネが侵攻を開始するよりもずっと昔に滅びている。
魔王ではなく、他国の侵略によって。
魔王に連れ去られてから、聞かされた話だ。
「ただ、君たち姉妹のことは、よく聞かされてたよ。……自慢の娘たちだって」
おそらく彼の部隊は負けたのだろう。
祖国を守ろうと戦い、しかしその想いはむなしく、すべてが灰に還った。
そしておそらく、彼が守りたかった家族も――
「すごく親バカだったよ。きっと自分の命よりも大切に想ってたんじゃないかな」
そして彼は、女神に出会った。
出会ってしまった。
女神は彼の絶望を知ると、自らの魔力を分け与え。目の前で奇跡を起こしてみせ。そしてこう吹き込んだ。
――協力すれば、終わらない幸福な夢を見せてやる、と。
「いつのまにかその想いが、どこかで歪んじゃったんだろうね。まやかしとわかっていても、見ているだけでよかったはずなのに――。とらわれた時間が長すぎて、課せられた役柄から、自分でも抜け出せなくなったのかもしれない」
娘への愛。自らの役目。魔装技師としての偏執――それらはいつしか混ざり合い、娘に兵器としての機能を求める、いびつな執着へと変わっていった。
「あの、えっと。おっしゃる意味が……」
だけど、彼は夢から覚めた。
最後の最後、自分が消えるその瞬間になって。
「伝言があるんだ。君のお父さんから」
自己満足かもしれない。
言った本人も、伝えるべき相手も、とっくの昔に死んでいて。
その記憶と人格を受け継いだものたちも、いま消えようとしている。
最初から存在しなかったみたいに。
そりゃそうだ。
いつか覚める夢――それがこの街の、正体なのだから。
だけど。
動いて、話して、考えて、感じて。
彼らは、彼女たちはそうして確かに『生きていた』。
そう信じているから。
きっと俺には責任があるのだと思う。
彼の言葉を伝える、責任が。
「『ナナ。ミミ。……戻れなくて、ごめん』。……それが君のお父さんの、最期の言葉だ」
黄昏の光の中、彼女が一瞬、目を見開くのが見えた。それからすぐに目を逸らして、笑おうとして、それから何かを俺に言おうとして、それも失敗して。
結局、その目から一筋の涙が零れ落ちて。
「バカだよ……」
ようやく押し出されたのは、そんな言葉。
「謝るくらいなら、行かなきゃ、よかったのに。家族っ、みんなで、逃げればよかったのにっ……。バカだよ。お父さん……」
漏らす嗚咽を聞きながら、俺はただ、立ちすくむことしかできなかった。
この女神の呪いさえなければ。
きっとその涙を拭ってあげることくらいは、できたのかもしれないのに。
俺にできるのは、こうして言葉をかけることだけ。
「お父さんは、君たちを愛してた。たぶん、君たちが思ってるよりも、ずっとずっと強く。……死んでもまた、生まれ変わって会いたいと願うほどに」
嗚咽がひときわ高くなる。
泣きじゃくる彼女の涙が、落ちる途中で光になって消えてゆく。
彼女の身体の輪郭が、どんどんぼやけて薄れてゆく。
これで、いいよな。
俺は心の中で思い、彼女に背を向けた。
さよならは、言いたくなかったから。
「あの」
彼女の鼻声が、そんな俺を呼び止めた。
振り返ると、彼女は顔を涙と鼻水でぐじゅぐじゅにしながらも、その大きな瞳で、まっすぐに俺を見つめていた。
「なに?」
「あの、これ、ぜんぜん変な意味で言うんじゃないんですけど」
それから一瞬だけ、目を伏せて。
「……私、どこかであなたと会ったことありますか?」
心臓が一瞬、鼓動を止める。
あの時と、同じやりとり。
だけど……今度はきっと、これが最後の言葉。
呼吸を整える。
声が少しでも、しめっぽくならないように。
精一杯、明るい声を出すために。
そして俺は笑って言った。
「いや……これが初対面だよ」
「……うそつき」
「えっ?」
思わず聞き返した目に飛び込んできたのは――
鼻を赤くした彼女の、悪戯っぽい表情。
「ミミ……!」
呪いのことも忘れて伸ばした指先が、空を切る。
ライムグリーンの粒子が弾けて拡散する。
最後に見せたとびっきりの笑顔の残像だけを残し――ミミの姿はかき消えた。
だから。
その直後のことも、たぶん都合のいい幻想なのだろう。
でも、そのとき俺は確かに感じたんだ。
「ありがとね――シュウさん」
そう明るく言う彼女の言葉と。
俺の唇にかすかに触れた、柔らかい感触を。
※※※
街は消え。
見渡す限りの草原に、俺はひとり残されていた。
足下には、風化した家の基礎だけが、化石のように朽ちている。
西の涯で、夕暮れの残滓がくすぶっている。
赤くぼやける地平線を、俺は見つめ続けた。
太陽がすっかり沈んでしまってからも、ずっと。
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