4月14日(木) 晴れ後雨

 夜半から降り始めた雨。


 天気予報からこうなることを予想していた堀田は予め早めに夕食を取り、交番の前の軒下に立番してその子が来るのを待った。


 田舎道の暗がり、橋の向こうに何かのシルエットが揺れる。

 暫く見ているとそれは段々と鮮明さを増し、傘を差しスカートを履いた女性の形を取った。


 あれから三度、雨の夜はあり、その度にサヤカはやって来た。セーラー服の時もあればジャージの時も、部屋着のようなラフな私服の時もあった。

 いつの間にかバス停に佇んでいる彼女。気が付いた堀田が黙って隣に座る。 

 そして雨が止むまで二人で並んで、座って過ごす。

 雨はすぐに止むこともあれば、明け方近くまで降り続くこともあった。その時でさえ堀田は、黙って一晩を、固くて微妙に段差のある古い木のベンチの上で過ごした。


 橋を照らす街灯の橙色だいだいいろの灯りを、傘が赤く反射する。

 水を跳ねる足音も聞こえて来た。

 セーラー服に濃いピンクのパーカー。確かに今夜は四月も半ばに差し掛かっているというのに肌寒い。

 彼女だ。堀田はささやかな満足感に包まれた。

 これまで何度かチャレンジしていたのだが、サヤカが来訪し、バス停のベンチに着座するその瞬間を、今まで見られたことがなかったのだ。

 橋を渡り切った彼女は、交番の軒下で立番する堀田に気付き、えっ、というような顔をした後、小さく会釈をした。

 堀田は会釈を返しながら、少しだけ彼女に勝ったような気持ちになり、緩もうとする頬を意識して引き締めて、しかめっ面を作った。


 しかし彼女は今夜に限っては何故かベンチには座らず、その後ろのベニヤの壁を掌で何度か撫でて、畳んだ傘を立てかけ、自分も立ったまま寄りかかった。

 サヤカの来訪自体は見られたものの、その着座の瞬間が見られず、堀田は70点を取った気分でややがっかりした。

 堀田は一度交番内に戻り傘を手にすると、また雨の道路を渡ってバス停のベンチに腰を下ろした。


 雨がトタン屋根とアスファルトを叩く音。雨漏りを受けるバケツの、ぺてん、ぺてんという音。

 いつも通り、雨の奏でる音だけが、暫くはその場の全てだった。


「ねえ」


 どれ位そうしていただろう。堀田の斜め後方に立つサヤカが声を掛けた。


「ん?」


 堀田は振り返らずに声だけで返事をした。


「拳銃、持ってる?」

「持ってるよ」


 再び沈黙がその場を支配する。だがそれは、長くは続かなかった。


「見せて。拳銃。ちょっとだけでいいから」

「……ちょっとだけな」


 堀田はまた振り返らずに返事をした。彼の背後で気配が動き、ベンチを右に回り込んで、彼のすぐ隣に座った。スカートの裾が彼の太腿の側面に触れ、ふわ、と甘い髪の香りが、堀田の鼻腔をくすぐった。


 堀田は腰のホルスターのカバー部分の留め具を外すと、脱落防止紐を手で払い、慎重に中の拳銃を取り出した。


「おぉ」


 サヤカが小さく感嘆の吐息を漏らす。


「ニューナンブ?」

「よく知ってるな……と、言いたい所だがこれはニューナンブじゃない。アメリカ製の拳銃を日本の警察用に仕様変更した特製ピストル。スミス&ウェッソンM360J。『サクラ』だ」

「へえ〜。銃に花の名前が付いてるんだ」


 相槌を打ちながら、彼女はまじまじと興味深げに拳銃を眺めた。


「引き金の後ろが塞がってる」

「安全ゴムだ。万一にも何かが引っかかって、暴発したりしないように」

「一発目は空砲なの?」

「どこで聞いたんだそんなデマ。実包だよ。一応一発目は威嚇射撃として上に向けて撃つよう服務規定があるけど、ケースバイケースで緊急時には一発目から威力射が必要になる場合もあるからな」

「なるほどね。それはそうか」


 彼女は一人納得して、ふんふんと何度も頷いた。

 その表情や仕草は、物見高い年頃の中学生のそのものだった。だが堀田の目には逆に、これまでに見知ったサヤカの影のある大人びた様子からは、とても新鮮に感じられた。


「銃に興味があるのか?」

「今日ニュースで、警官の銃を奪って、その警官を殺害した犯人の裁判の話をしてて……」

「ああ、三島の警官殺害事件の。ニュースを見たなら有罪が確定したのも知ってるだろ。大丈夫。少なくとも君が生きてる内に、犯人が釈放されるようなことはないさ」

「そういうことじゃなくて」


 サヤカは口籠って言葉を濁した。


「……あなたは、なんなの?」

「警官さ」

「そういうことじゃなくて」

「雨の夜に、君の隣に座ることか?」


 彼女は頷いた。


「俺はサッカーが好きでさ」

「誤魔化さないで」

「まあ聞けよ。遊び半分に友達とやるくらいじゃ飽き足らなくて、親に頼んでジュニアのサッカークラブに入らせて貰ったんだ」

「……」


 雨足は強い。だが心なしか、その勢いは優しくなりつつあるようだった。


「好きこそものの上手とは良く行ったもんでさ、自分で言うのもなんだけど、俺はメキメキ上手くなって行った。勉強の成績は良くなかったけど、スポーツ推薦でサッカーで有名な高校に進学できた。寝ても醒めてもサッカーサッカー。読む本も、観る番組も、部屋の窓のカーテンまでサッカーだった。親は呆れてたが、俺は真剣にサッカーで身を立てようってそう思ってた」

「……それで?」

「厳しい練習。敗北と勝利。チームメイトとの絆。ライバル達との切磋琢磨……。高校の二年間には人生の素晴らしいものの全てが詰まってた」

「二年間?」

「怪我をしたんだ。三年になってすぐに」

「……」

「俺は走り続けられなくなった。フリーキックくらいなら蹴れるけどな。ボールを追い掛けてピッチを駆け回るようなことはできなくなった。一生ね」


 風が吹いた。強い風だった。サヤカはスカートの裾を抑えた。


「幾つも病院を回ったし、リハビリの専門家も何人も尋ねた。でもダメだった。サッカーしか無かった俺から、サッカーが無くなっちまった。何をしていいか分からず、どう生きていいか分からず、学校にも行かずに、毎日公園で座ってた。ぼーっとさ」


 堀田は左膝を撫でた。

 振り込んだ雨の水滴が、紺の制服の膝に模様を作った。


「ある日の夕方、中学の頃のツレが隣に腰掛けた。サッカーとは関係ない学校に進んだ奴で、正直そんなに仲が良かったわけじゃない。よっ、久しぶり、とそれだけを言って黙って隣に座るんだ。俺は返事もしなかった。日が暮れて真っ暗になって俺が立ち上がると、そいつも立ち上がって、じゃな、って言って帰って行った。次の日も。その次の日も」

「……それで?」

「で、俺は立ち直って警官になったんだ」

「ちょ……肝心な所を端折はしょらないでよ」

「端折ってないさ」

「端折ってるじゃない」

「今回のテーマは、俺が君の隣に座る理由、だったろう」

「……」

「もしかしたら的外れな行動なのかもな。でも俺には、他にできることが思いつかない。迷惑だったり怖かったりするならそう言ってくれ。次からは、しないから」


 風が吹き止んだ。ほぼ同時に、雨も唐突に止んだ。強い風は雲をも吹き飛ばし、夜空には星さえ輝き出していた。


「……雨が、止んだ」


 サヤカは呟いて立ち上がった。


「お休みなさい。堀田巡査。よい夜を」


 畳んだ傘をバンドで細く細く巻いた彼女は、橋の方へ歩き出そうとして、ふと立ち止まった。


「またね」


 振り返りもせずに、ぼそり、とそう言った彼女は、雨上がりの夜道を足早に去って行った。

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