雨と巡査とバス亭と

木船田ヒロマル

4月1日(金) 曇り後雨

「ふぁー……あ」


 夜の交番に一人。赴任して来たばかりの新人警官、堀田和臣ほったかずおみは大きな欠伸あくびをした。

 時刻は夜の十時を回った所。天気は雨。街と里とを結ぶ国道とは名ばかりの一車線の田舎道。農業用水をまたぐ傘舞橋のたもと、小さな地蔵尊のかたわらにぽつんと立つ交番に訪れるような人物がある筈もなく、増して解決すべき事件がある筈もなかった。

 日中、先輩警官である定年間際の老巡査、たちばなから聞いた話では、大体十時辺りから日誌を書いて、十一時にはシャワーや食事を済ませて二階に上がって寝ているらしいから、自分もそれに習おうと思った。

 傘舞橋南詰かさまいばしみなみづめ交番は、交番としては大きな作りで、後ろ半分は丸々民家のようになっている。橘の先代まではこの交番兼住居に、駐在として警察官とその家族が実際に住んでいたのだ。その為いささか古いことに目をつむれば、シャワーを始め、トイレやキッチン、押入れや寝室など、宿直どころか居住に耐える設備がそのまま使用可能な状態になっていた。

 土地がやや斜めになった前庭の狭い駐車場にはくたびれたミニパトが止まっているが、エンジン保護の為に橘がたまに警ら--パトロールに使っているのと、ごくごくたまに本部である南署との連絡に使う以外には、完全に置物として風景の一部になっているらしい。


 堀田は大きく伸びをして、勤務日誌の台帳を開いた。

 前日までの橘の記載を参考にしようとぱらぱらと数日分のページを遡って見たが、日付と曜日、天気の下に「特記事項なし」の六文字が並んでいるばかりで苦笑した。

「ま、警官が暇なのはいいことなんだけどな」

 聞く者とてない狭い交番で、眠気を払おうと堀田は大きく独りごちた。彼の赴任初日は、全く何事もなく終わろうとしていた。

 日付と曜日を日誌に書き終えた堀田は、ふと誰かに見られている気がして視線を上げた。


 ゾッとした。肌が泡立つ。堀田は息を飲んだ。

 交番の真向かいのバス停に、白い顔があったのだ。


 それは髪の長い女のようだった。交番の入り口の戸口は上半分が普通のガラス、下半分が磨りガラスになっている。その普通のガラス越しに目が合った。若い女だ。「傘舞橋南詰交番前」というその古いバス停にはトタンの待合小屋があり、そこには裸電球の灯火と、年季の入ったベンチがある。女はベンチに座っているらしい。整ったその顔からはどんな感情も読み取れず、黒っぽい服装は電球の灯りの下でなお雨の夜の闇に滲んで輪郭も判然としない。


 堀田は迷った。その女の正体を確かめるべきかどうかを。

 例えば万が一、人間以外のものだった場合。どう対処したらいいのか彼には皆目見当が付かなかった。思わず腰のホルスターに手をやって確かめるが、幽霊や妖怪の類に拳銃が通用するかどうか分からない。同期と比べても真面目に勉強して来た警察学校のカリキュラムの中にも、流石に人外の妖魔に対する逮捕術は扱いがなかった。

 堀田は頭を振った。

 待て待て。現実的な判断をしよう。人間だったとして、放置できる筈もない。

 家出人かも知れないし、何かのトラブルに巻き込まれているのかも知れない。事情があっての帰宅困難者かも知れないし、徘徊癖があって、例えば捜索依頼などの対象者かもしれない。


 堀田は決意した。


 まずは正体を問いただそう。対応を決めるのはそれからだ。

 端が破れて少しスポンジのはみ出た事務椅子から立ち上がった彼は、傘立てからビニール傘を手に取り、ガラス戸を開けた。思ったよりも強い雨足。差したビニール傘を叩き、荒れてざらついたアスファルトを叩き、くたびれたミニパトを叩き、またトタン屋根を叩く雨の音。屋根の雨漏りを受ける為か、誰かが待合小屋の隅に置いたブリキのバケツに、垂れた水漏れの水滴が落ちる、ぺてん、ぺてん、という音。取り巻く様々な水の音を潜るようにして、堀田は道を渡って待合小屋の中に佇む白い顔に近づいた。


 雨。雨が奏でる音。

 夜の闇を頼りなく照らす電球の灯と硬質な沈黙の中で、巡査と少女は対峙した。


 少女はセーラー服を着ていた。近くで見れば小柄で顔立ちもあどけない。立てかけられた赤い傘。白いソックスと黒い革靴。いる場所と今の時間を別にすれば普通の中学生のようだった。近づいた堀田に挨拶をするでも表情を変えるでもない。ただ「なんの用?」とでも言いたげに、その冷静そのものの視線を、堀田の顔に向けただけだった。


「こんばんは」

 先に口を開いたのは堀田だった。

「こんばんは」

 抑揚の少ない、だが、凛と通る声で少女は挨拶を返した。


 どうやら間違いなく普通の人間のようだ。

 堀田は安堵した。同時に彼の中で少女に対して腹の立つような気持ちといぶかしむような気持ちがむくむくと膨らんだ。


「自分はそこの交番勤務の堀田巡査だ。君はここで何をしてるんだ?」

「バスを待っているの」


 堀田は思わずサビだらけの停車時刻の案内板を確認したが、「7:09」「17:38」以外の表記は無く、翌朝七時過ぎまで次のバスが来る予定はなかった。

 少女に声を掛けたことが切っ掛けでもあるかのように、雨足は弱まり始めた。


「バスは来ないぞ」

「ここはバス停でしょ。バス停でバスを待ってちゃいけない法律でもできたの?」

「明日の朝までここでバスを待つ気か?」

「いつ来るか分からないものを待ってちゃいけない法律があるなら、私は有罪ね」


 なんだこの娘は。

 顔立ちが涼やかに整っているだけに、不機嫌な表情をして嫌味を言うと、その言葉の先端は鋭利に刺さってくるようだった。

 雨は更に弱くなり、小降りになってゆく。


「有罪か無罪かじゃない。自分の仕事は管轄内の秩序と生活安全を護ることだ。よく分からない理由で深夜に一人外出してる未成年がいるなら、事情を確かめて必要なら保護する職責がある」

「だから、バスを待ってるんだってば」

「家出か? それとも理由があって、お家に居られないのか?」

「お巡りさん目は見えてる? 耳は聞こえてる? ここはどこ? バス停よね? 私は、バス停で、バスを、待って、いるの」

「親御さんに連絡する。名前は? 家か親御さんの携帯の番号は?」


 堀田は胸ポケットに納めていた支給されたての警察手帳を取り出しながら少女に尋ねた。


「帰る」

「……なに?」

「バスを待つのはやめた。帰って寝ます。お騒がせしました」


 少女は傘を持って立ち上がると、ぺこり、とお辞儀をした。雨はいつの間にか上がっている。


「家はどこだ。送って行くぞ」

「すぐそこだから大丈夫。お巡りさん新しい人よね。巡査? 名前は?」

「……堀田和臣巡査だ」

「ありがとう。堀田巡査。あなたが誠実なお巡りさんだってことはよく分かったわ。じゃね」


 少女は口元だけで笑みを作ってそう言うと、傘舞橋を渡って雨上がりの夜道を、里の方へ向かってぱたぱたと駆けて行った。


「……なんなんだよ。一体」


 夜空を仰ぐ。雨は止んだものの今だ雲は厚いようで、星は見えない。


「なんなんだよ。一体」


 少女の去った橋の向こうに視線を移し、堀田はもう一度呟いた。



***



「そりゃあ、サヤカやな」


 翌朝、九時きっかりに出勤してきた先輩警官の橘は、堀田から昨夜の出来事の報告を受けてそう言った。


「サヤカ?」

「スミワカの安達さんとこの三男坊んとこの娘さ。三男坊とその嫁さんは昨年の暮れに事故で亡くなったらしゅうてな。里の長男夫婦ば頼って身を寄せちゅうがじゃ」


 堀田は失敗した、と思った。昨夜、彼女の身分を質す中で、親について言及してしまっていたのだ。辛い思いをさせたかも知れない。


「アダチ、サヤカ……その子がなんで深夜のバス停に? 例えば、預かりのお家で何かされてて居づらい、とか」

「イジメとか虐待とか? ヨシ坊がか?」


 かっかっかっか、と橘は否定の意味で手をひらひらさせながら笑った。


「なかなか。ヨシ坊はこまぁか頃から知っとるが、そげな性根やない。眼鏡の青びょうたんで、サヤカば心配して胃薬ば飲みよらすような奴やぞ。サヤカがヨシ坊ばイジメることはあるかも知れんばってん、逆はなか」


 橘はまた、かっかっか、と笑った。

 堀田は自分の真剣な心配を鼻で笑われて、やや憮然となりながら橘に尋ねた。


「なら尚更ですよ。なんでサヤカちゃんは夜のバス停で、一人でぼーっとなんてしてるんですか?」

「さあそこよ」


 橘は笑いの余韻を口の端に残しながら答えた。


「来たばかりの頃からああやって時々夜中に来てはバスば待つとやん。なんばしよっと、とは聴くばってんバスば待ちよるとしか言わっさんとたい。ヨシ坊には言うたばってん謝るばかりで理由はさっぱり。実害もないし、家は歩いて五分のとこやけん、まあよかろうとほっとっとうとたい。思春期やけん、本人にしか分からんなんかがあるとやろもん。危ない目にだけ合わんですむごた、気に掛けてやってや」


 橘は制帽を上げると、禿げ上がった頭をつるりと撫でて制帽をかぶり直した。



「そういや、バス停に来るのは決まって雨の時たいね」



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