短編
アイネの受難 前編
太陽が昇るよりも以前、山間に響く鳥の囀りが私の意識を呼び起こす。
巨木の洞の中、背を預けていた枯れ葉がじっとりと湿り、少し居心地が悪かった。
「……リシュライナ」
洞から顔を出し、連れ合いの名を呼ぶ。
呼び声に反応し、巨木の前に仁王立つ首のない漆黒の騎士甲冑が此方を覗いた。鎧の隙間に溜まっていた水滴が滴り、地面に染みを作る。
……常々思うが、錆びたりしないのだろうか。
『目覚めたか、アイネ』
「ああ」
『よく眠れたか?』
「ああ。快適なものだよ」
皮肉ではない。湿気はともかく雨風を凌げるだけで十分だ。清貧を良しとする教えはないがこの程度で不満を抱くような生き方もしていない。
ただ少しだけ、居心地の良い場所というものを知ってしまっただけで。
『以前にも言ったが、汝だけでも人里で夜を明かしても良いのだぞ』
私を気遣い、リシュライナがそう言うのはこれで四度目だ。返す言葉は決まっていた。
「問題ない。路地裏で夜を越すよりも此方の方がマシだ」
あまり思い起こしたくはない、今となっては遠い昔。うっすらとした記憶しかないし、この国ではない異国の話だが。
それに路銀に乏しいというのもある。三日前に訪れた『クタニド派』の拠点の一つで信者たちの厚意に甘えはしたが、無駄に使いたくはない。
『そうか。なら良いのだが』
「ああ」
短い応答。決して会話が弾む仲ではない。そもそも私も彼女も口数が多いわけではないからな。
道中を共にしてもう一週間、互いの性格というのも分かって来た。
「川に向かおう」
『食材の調達は任せておけ。我には汝と違って洗う顔がないからな』
「お前自身の事だから不謹慎とは言わんが、面白くはないぞ」
そしてこの鎧は武骨なようでいて案外楽天的らしい事も分かった。私は一体どう反応すれば良いと言うのだか。
少し呆れながら共に近くを流れる川へと向かう。流れてくる風は時季も重なり、凍えるようだが目覚めにはちょうどいい。
ほんの半月程前まではこの程度で身震いなどしなかったのだがな。
……そう、たった半月だ。もう随分と経っているように感じるのは時間の流れが遅く感じるからではなく、それだけあの十日にも満たない『彼女』たちとの日常が私にとって濃密なものだったからだろう。
私……アイネ・ウルタールは神を宿し、神に仕える巫女であり戦士だった。しかし今の私はそのどちらでもない。いや、どちらでもなくて構わない。巫女としての私を求めるのならそう振る舞おう。戦士として戦う必要があるならそうしよう。けれど、自身の在り方にもう拘りはない。役割に縛られる必要はもうないのだ。
私は私であればいいと、私が望むままに善と信じる事を為す、とそう決めた。
背信者と呼ばれようと私は未だ神の、『クタニド』様の教えを信じている。彼の神は善なるものだと今でも信じている。けれど救いを求める事はもうしない。神に祈りは捧げても、縋る事はもうしない。
神に縋らずとも、
『どうかしたのか?』
川に辿り着き、手に掬った水を見つめていた私にリシュライナが声をかけた。その手では既に魚が二匹、びちびちと尾を揺らしている。
「何でもない。二尾いれば十分だ」
『足りるのか?』
「あまり此処に長居したくはない。冬場とはいえ人が来るかもしれない。火の用意を頼めるか?」
私の言葉に頷き……いや首はないのだが、鎧の空洞を私に見せてリシュライナは川辺に残った雪を払うと石を円状に積み、道すがらに集めた枝を中心に放った。もう手慣れたものだな。
最初に魚を獲った時は生のまま食べるのではないのかと悪意なく言われた時は頭が痛くなったが……『ウルタールの猫』を宿していた時でも生で食べはしない。そもそも猫とついているからといって神を獣と一緒にするな。私が信仰する神ではないとはいえ、流石に不敬だ。
『クタニド』派の信者の中には私の中の『ウルタールの猫』にも信仰を捧げている者がいたが、私にとって『ウルタールの猫』は信仰の対象ではない。何と言えばいいか、奇妙な存在だった。信仰の対象ではないとはいえそれなりの畏怖と敬意を見せるべきなのだろうが、どうしてもそういう対象には思えなかったのだ。恐らくは私の中であまりにも身近過ぎたからなのだろう。
だから
それからだ、
「『アイオド』のように寄生……いや、共生と呼ぶべきか」
……『ウルタールの猫』がいない今、私は魔術を少し扱えるだけ。
巫女ではなくなった私ではその位に立つ事は出来ない。せめて信者たちがユーリのように使い潰される事がないよう、そしてユーリの安全が保障されるよう、手を打たなくては。
司祭様がいればきっとそうしたはずだ。たとえ
けれどもう私一人の犠牲でどうにかなる問題ではない。私には司祭様のように他の誰かを犠牲にする覚悟もない。……これは甘さだな。
『寝起きからあまり考え込むな』
パチパチと火花を散らし始めた焚火の前に座り込んだリシュライナが私の思考を読んだように言う。……彼女の言う通りだな。
「すまない、悪い癖だ」
『汝ら、教団の事情に我は明るくない。我にとってはユーリの安全さえ保障されればそれで良い。……だが、汝に貸す力を惜しむつもりはない。必要ならば我を差し出しても構わない』
「馬鹿を言うな。お前の力は借りる事を厭うつもりはないが、お前を犠牲にするつもりはない」
それでは意味がない。それではきっとユーリが悲しむ。始まりこそ恐怖の対象だったかもしれない、だが今は紛れもなく親愛の情をユーリはリシュライナに向けている。それを裏切る事など出来るはずもない。それはユーリだけではない、『彼女』を裏切る事でもあるのだから。
『……そうか』
「明日中には山脈を抜けたい。お前の足ならば十分可能なはずだ。また私を抱えてくれ」
『承知した。……だが本当にこの方角で合っているのか?』
リシュライナが見渡す周囲には山間を流れる川と木々に囲まれた山が何処までも広がっている。
私たちは人里を避け、この国最大の山脈、奥羽山脈を北上している最中だった。
「正確に言えばこの方角でも合っている、というべきだな」
『……? 向かっているのは教団の本部だろう? ならば進む方向は一つだけではないのか?』
「本部という言い方には少し語弊がある。派閥内部はともかく教団は縦に繋がった組織でもなく、運営に特定の派閥や個人が中心が居るというわけでもない。無論、力ある派閥というのはあるが」
リシュライナにならば明かしても構わないだろう。元は教団とは無関係、巻き込まれた被害者と呼べるが、一般人ではない。彼女も我々が知る深淵とは別とはいえ、もう一つの深淵の中の住人なのだから。
「それでもなお教団の中心、中核と呼べるモノ。教団全体へと意思を伝播させる唯一の方法。私たちが向かっているのはそこへと繋がる『門』だ」
――だがこれは『門』へと到達するまでの語りではない。
これは、其処へ至るまでの道中。世界に蔓延るもう一つの『ロア』との邂逅を語るものだ。
◇◆◇◆
今は人並み程度の身体能力と五感しか持たない私では夜の山を進む事は出来ない。どういった理屈なのかは見当もつかないがリシュライナは夜目が利く(私たちのように視界も一応はあるようだ)。日が暮れると道行は完全にリシュライナ頼みとなる。
暗闇に包まれる前に何度も地図を確認し、進むべき方角を擦り合わせていたのだが……どうやら迷ったらしい。
『我は確かに指示通り進んだぞ』
「いや、責めるつもりはないが……」
時刻はまだ早いが人工の灯りがない夜の山を進むには私は足手纏い。いや昼間であってもリシュライナに抱えられていなければ進む速度は半分七割以下だったはずだ。
体力はそれなりにあるが、山道を行くには今の私には少々無謀だった。平衡感覚も方向感覚も此処まで落ちているとは予想外だ。
正直な所。
「此処は……何処だ?」
奥羽山脈の中には村が点在しているし、巨大な幹線道路が横断もしている。山脈のすぐそばで栄える街もある。
それらを避けたルートを進んでいたはずだ。リシュライナの姿が人目に触れれば騒ぎになる。騒ぎになれば私にも後ろ暗い部分がある。だからリシュライナの気遣いを断り、此処まで来た。
しかし、だからこそ分からない。山中で迷うのならばまだ分かる。道なき道を進み、目印などほとんどない山の中だ。けれど……
『寂れた山村のようだが』
木々の間から眼下に見える、月明かりに照らされた
予定していたルートの近くに村はない。そこまで大きく道を間違えてしまったのか?
道に迷った事に対する焦りはない。どんな山奥で途方に暮れたしてもリシュライナの手を借りれば山を下りる事は横断になるにせよ縦断になるにせよ、容易い事だ。
だがなんだ? この妙な焦燥感は。過ぎていく時間に対する焦りか? いや、確かにゆとりのある旅路ではない。けれど一日を無駄にした程度で何かが変わるものでもないはずだ。
「……駄目だな。地図だけでは分からない」
努めて冷静に、差し込む月光を頼りに目を凝らして地図を確認してもあの村の名前も現在地も分からない。どの時点で道を間違えたか分からないのだから当然だ。
『汝だけでも村を訪ねてはどうだ。此処が何処か分からなければ修正のしようもないだろう』
「……そう、だな。いや、しかし……」
『我に気遣いは無用だ』
リシュライナの言っている事はもっともだ。私一人が村を訪ねればわざわざ危険を冒して山脈の外まで出る必要はない。
しかし、この焦燥感、胸騒ぎ。嫌な予感と言い換えてもいい。それが気にかかる。そうすべきではないと私の中の何かが告げている。
……今の私の感覚など当てに出来るものではないと分かっているのだがな。
「分かった。村の名前を確認したらすぐに戻る。だがもしも何かあればお前も村に来い」
『承知した』
私は思い違いをしていた。私が案じるべきはこの何処とも分からぬ山中に残す事になるリシュライナではなく、あの村に一人足を踏み入れる私自身だった。
私の予感は他者への危険ではなく私の身に降りかかる危機を察知し、叫んでいたのだ。
徒人となった自分の分を、身の程を弁えろ、と。
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