この街の朝の寒さにも三日目となれば随分と慣れて来た。深夜にちらついた雪が木々の葉の上で揺れているのを見て、また懐かしい気持ちになる。

 向こうではほとんど雪は降らない。過ごしやすくて嫌いじゃないけれど、会長なんかは同じ雪国の生まれにも関わらずクリスマスの日は残念そうにしていたっけ。

 吐いた息が空に溶けていく。かすかに残った雪が地に染みを作り、消えていく。

 昨晩、帚桐が捕らえた蝙蝠は闇に消えていった。そうしてくれるよう僕が頼んだ。


「おはよう、詠歌君。よく眠れた?」

「それなりに、ってところです」


 スーツ姿の阿桜さんが横に並ぶ。目のクマは随分と薄くなっていて少しだけ安心した。


「いよいよ、なのね」

「はい」


 あの蝙蝠にはスケッチブックに書いた手紙をくわえさせた。感情を乗せず、簡潔に時刻と場所だけを書いた。それだけでいい、文字で伝えられるものじゃない。


「素直に来るかしら」

「来ますよ」


 今もまだ僕らの前に現れないのなら、アイリスは必ずやって来る。彼女はきっともう二度と背を向ける事はしない。


「信頼してるのね」


 複雑そうな表情の阿桜さんに首を振る。僕もそう思っていた。短い間でも共に死線を超える内に信頼関係を築いていたと、そう思っていた。でも、そんなものは最初からなかったんだ。


「ただの経験則ですよ」


 信頼なんてものがあったのなら、僕はこの場には立っていないのだから。

 ただ互いに強引に本心を暴き合っただけ、そこには親愛も信頼もなかった。ただ自分たちの意思がぶつかり合い、心が零れ落ちただけだ。


「すいません、勝手に進めてしまって」

「別にいいわよ。時間も場所も、過程だってどうでもいい。私はただ復讐出来ればそれでいいの」


 互いに共感し、笑みを見せても阿桜さんの意思は揺るがない。当然だ、それだけの思いの積み重ねが彼女を此処に導いたのだ。

 その全てを知る事は他人である僕には出来ない、けどそれが確かめられただけで十分だ。


「六年前に決着を……終わらせましょう」

「ううん、君は始めるのよ」


 阿桜さんは悲しげに微笑む。分かってしまう。今日、全てを終わらせる事が彼女にとって幸せなのだと。復讐を果たせばもう生きている意味はない。復讐を為せないのなら生きている意味がない。それだけのものを今日まで賭けてきた。それだけの為に今日まで生きてきたのだと。

 ……それは僕がずっと迷っていた選択肢だ。


「阿桜さん、六年前を生きられた事は幸福でしたか」


 残酷な質問だと思う。それに答える事は死んでいった者たちへの冒涜だ。

 それでも阿桜さんは一瞬の間を置いて、淀みなく答えた。


「いいえ」


 その否定にすら、僕は共感する。

 ああ、その通りだ。こんな思いをするぐらいなら、苦しんで悩んで、それでも生きなくちゃならないのなら……あの時、死んでしまえればよかったのに。

 だけどもう遅いのだ。僕にはもう出来ない。阿桜さんのように押し潰されそうな思いを背負う事も、心を燃やし尽くす程の復讐の炎に焦がされ続ける事もしなかった僕にはその選択は選べない。

 全てが遅すぎた。知る事も、背負う事も、心を焦がす事も。だから僕は始めなくちゃならない。


「よう、おはよーさん」


 遅れて帚桐が姿を現す。レスクヴァさんの姿はない。


「もう見張る必要もねえだろ。それにぐーすか寝てたからな」


 随分と迷惑をかけてしまったな。その責は後で負う。今はそのまま眠っていてもらおう。此処に居ても危険なだけだ。

 ――展望台から見下ろす街並みは平穏そのものだ。一歩間違えれば僕はこの光景を六年前に戻してしまうかもしれない。万全を期したとしてもこの不安からは逃れられない。なにせ僕が選んだ事なのだから。


「そう気張るなよ。何も難しい事はねえさ」

「……そんな簡単に済むものなの? この魔導書の力は感じたし、失敗するなんて思ってもないわ……でも」

「済むさ。その為に仕込んできたんだ。姐さんは意識と目的をはっきり持って呪文を唱えるだけでいい。俺と久守は万が一にも邪魔されないよう、姐さんを守ればいい。それで済む、そういう理不尽なもんなんだよ、対攻神話プレデター・ロアってのは」


 抵抗は出来ても対抗する術はない。聖剣も魔槍もこちらにある今、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの力が対攻神話プレデター・ロアに勝る事はない。


対攻神話プレデター・ロアは異教の神々すらも恐れる力、そもそも此処まで吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが生き延びている事の方が異常だ。しかも今度は人を媒介にした化身でも、人の思惑に踊らされる人形でもない。薄めてるとはいえ正真正銘の神性を降臨させようとしてるんだ」

「本当に危険はないのか」

「あるに決まってんだろ。けど異教の神話を相手にするなら、対攻神話プレデター・ロアが最初に喰らうのはそいつらだ。それが自分たちの力を強める事に繋がるって分かってるからな。だから事が済んだら真っ先にその魔導書の断片を処分しろ。感傷は後回し、それは強者の特権だ」


 忘れるな、僕たちは弱い。これは戦いではなく、弱者の足掻きだ。必定の結末を覆す、運命に抗う、弱者の抵抗なのだ。

 もう一度自分の心に深く刻み付ける。僕という矮小な人間の立場を。


「断片さえ処分しちまえば姐さんじゃ『クトゥグア』を留める事は出来ず、『クトゥグア』も留まる事は出来ない。対攻神話プレデター・ロア本来の使い方だ」

「阿桜さん、帚桐」

「あん? ってか今更だけど俺は呼び捨てなのな……」


 終わらせる前に、始める前に、伝えておかなきゃ。


「ありがとう、あなたたちのおかげで僕は決心がついた」


 帚桐は肩を抱き身を震わせたが、阿桜さんは目を見開き、昨日見せたのと同じ微笑みを浮かべた。


「私からもありがとう、詠歌君。君のおかげで私の復讐に一つだけ明るい光が灯ったの。……君はこんな所でいつまでも立ち止まっていちゃ駄目。私の炎が少しでも君の未来を照らせたなら、私が生きて来た意味が一つ増えるわ」


 ……ああ、こんなになっても彼女は優しい言葉を紡げるのか。

 もしももっと早くに出逢っていたとして、僕は彼女のようになれただろうか。

 答えなど出るはずはない。けれど止まらない堂々巡りの思考を打ち切ったのは、街に響く鐘の音だった。

 ゴーンゴーンとこの高台にまで届く鐘の音の中、掻き消されるはずの足音を僕は確かに聴いた。


「こいつが……!」


 示し合わせたように僕たちが振り返ればこの場所へと続く階段から徐々に、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの威容が現れる。

 その首元にも手元にも赤いマフラーはない。いつものようにその背で靡くマントが身につけられているだけだ。

 僕たちと同じ高さに立った瞬間、以前感じた言いようのない感覚に体が包まれる。帚桐によって結界が貼られたのだと肌で理解した。


「待ってくれ」


 ボクシングのような構えを取り、阿桜さんへと目配せした帚桐を僕は制した。


「談笑も後回しにしとけ」

「僕らは三人、相手は一人。強者なんて此処には居ない。少しだけ時間をくれ」


 帚桐は何かを言いたげに僕を見たが、やがて溜息と共に視線を逸らした。

 もう疑う必要もない、確かに彼は弱者の味方だ。


「久しぶり、って言う程でもないよね」


 公園全体を覆うように張られた結界を見上げていた彼女に声をかける。どんな言葉が返って来るのか、少しだけ怖かった。


「もう随分と長い間一緒に居たような気がしたからな、私も久しく感じる」


 対話には応じてくれた。その瞳には力強い光が宿っている。あの月下を思い出す、僕を見定めようとしている瞳だ。

 信頼ではなく経験則、きっとそういう瞳をするだろうとは思っていた。


「問答をするというなら私から一つ問おう、久守詠歌。貴様が其処に立つのは如何なる決断の果てだ?」

「言うに事欠いてっ! まだ気づいてないのか、お前は!」


 アイリスの尊大で傲岸な態度に阿桜さんが耐え切れず叫ぶ。


「私怨か。我が身は生まれついての悪性。向けられる怨嗟の理由一つ一つなど覚えてはいない」

「ッ――!」


 そういう風に答えるだろうな、と想像は出来ていた。

 阿桜さんの炎に油を注ぐようなその態度が、僕には最初からありありと想像できてしまっていた。


「だがこの地上においてはそれ程大それた悪行は為した覚えはない。さて、一体どれの事だ?」

「お前……!」


 今にも襲い掛からんばかりの憎悪、それを辛うじて制御しながらも耐え切れないと一歩、阿桜さんが前に出る。


「この街で! 私と彼を前によくもそんな……!」

「ほう……安心した。まさか正義や善の為などという興醒めの理由ではないかと心配していたのだ」


 アイリスは目を細めて僕を見る。そこに嘘はないのだろう。

 善悪にらない選択を彼女は尊ぶ。もしも阿桜さんがそんな言葉を吐いていたならばきっと相手にもしなかった。


「……六年前、戦乙女ヴァルキュリアによってこの街に災厄が齎された。その災厄は阿桜さんの大切な人を、僕の大切な人を、永遠に奪い去った……!」


 知らない内に声が震える。被り続けた仮面が剥がれていく。


「それがお前なんでしょう!? あの時見た天使……いいや災厄の権化、天使の皮を被った悪魔!」

「――それが貴様たちを動かすものか」


 アイリスの雰囲気が変わる。恐らくは今相対している彼女こそが、天上に居た頃の吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアなのだ。

 数多の勇者エインヘリアルを屠り、数えきれない程の死と再生を繰り返していた頃のアイリスだ。

 対話は不要、語るものがあるならば己を打ち倒せ。そう言うように獰猛に、獣の如き瞳で僕らを射抜く。

 もう限界だ、と阿桜さんが魔導書の断片を掲げた。


「『ふんぐるい むぐるうなふ くとぅが』――」


 そして紡がれ出す呪文。心に直接訴えるような、声と音と言葉、一致するはずのそれぞれが擦れ合うような、表現しがたいノイズじみた奇妙な文言だった。


「始めるか」


 これ以上の対話は互いに不可能と判断したのか、帚桐もまた構えを取った。


「いいや、まだだ。大事な事を訊いていない」


 恐らくは無意味だと知っている。それでもこれだけは訊いておかなくては。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア、六年前のあの日……久永が死んだのは君のせいか」

「まるで縋るような、捨てられた犬か何かのような目だな」

「……答えろ」


 あの離別の夜、僕は確かめる事が出来なかった。

 肯定と否定、どちらが返ってきたとしてもその答えは僕の道を決めただろう。思考を放棄し、知る事を放棄し、選択肢を切り捨て、残った道を選んでいたはずだ。


「無意味だな。……だが忠言もある。敢えて今一度言葉にしてやろう――貴様が選べ。吸血戦姫である私を信じるか、復讐に燃え盛るその女を信じるか。己の心の命ずるままに」


 想像通りの返答。彼女が僕の道を決める事はしない、分かっていた。アイリスがどう答えるか想像出来ていながら、もしかしたらという恐れから僕は真実の答え合わせから逃げ出した。自分の目で真実を見極める為だと、そう言い訳して。

 そして僕はあの夜、逃げ出した先のこの場所で決めたのだ。

 戸惑いと躊躇いを抱え、後悔を覚悟して、それでももう迷う事はしない。


「……君を信じられたのなら、僕は此処に立ってなかったさ」


 仮面を自らの意思で脱ぎ捨てる。綺麗事は必要ない。僕にはアイリスを信じる事は出来ない。

 アイリスに命を救われた。けれどそれだけじゃ足りなかった。

 悪だと言って憚らず、いつも偉ぶって自分の弱さを隠して虚勢を張り続けて、肝心な事は何も言わない。そんなアイリスを信じる事なんて出来なかった。


「『ほまるはうと んがあ・ぐあ』……!」


 一度揺れた天秤は容易く傾いた。

 復讐に燃える阿桜さんを見て、信じる事なんて出来なかった。

 何より、久永の仇だと言われて信じる事など出来るわけがない。もう思い出の中にしかいないあいつは、僕が好きだったあいつは……!


「そんなに軽いものじゃない! いつも一緒だった! ずっと一緒に居られると漠然と信じてた! 気付かない内に好きだったんだ、気付いた時にはもう遅くて……っ! お前を信じられるわけないだろう!?」


 死者と生者、どちらを優先すべきかなんて決まり切ってる。

 だけど僕はそんな善人でもなければお人好しでもない……! 過去久永を忘れてお前を信じる事なんて出来やしない。


「ならばその選択に、決断に! 己の身を委ねろ! 憎いならば剣を取れ! 弔いならば剣を振れ! 力で以て我が身を討ち滅ぼしてみせるがいい――勇者エインヘリアル!」

「『なふるたぐん』……! 『いあ!』」


 ――呪文全てが紡がれるよりも速く、聖剣は曇る事ない輝きを煌かせ、その刀身を現した。


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