風が肌を刺す事も不意の衝撃が襲う事もない、快適な道中。

 景色が流れていく速度だけは以前、街中を駆けた時とほとんど変わらない。


(それってつまり三百キロ近いスピードが出てたって事だよな)


 新幹線の車窓から見える景色から視線を手前にずらし、、窓側の席に座るアイリスを見る。ユーリ程ではないが彩華とほとんど変わらない小柄な体型、そんな彼女に必死にしがみ付いていた時の事を思い出して、とんでもない存在なのだと再認識する。

 当の本人は珍しそうに窓の外を眺める事に夢中で詠歌の視線には気づいておらず、他人から見ればただの外国人観光客にしか見えない。


「堕ちる時に見えたのはこの乗り物だったのだな。上からは見た時は蛇のようだったが」

「出会った時はぼろぼろだった割りに余裕があったんだね……」

「天上と地上を行き来するのは単純な距離ではないが、それでも十分近く落下していたからな。色々と見えたぞ」


 隠すつもりはないが誰かに話す気にもなれない、二人しか知らないあの月下の出会いだが他でもない本人によって崩されている事に詠歌としてはなんだかなあ、という感じである。

 勿論それは詠歌自身が勝手に抱いている感覚なので文句も言えない。しかしアイリスにとっても偶然とはいえ、勇士との出会いのはずなのだが。


「お前が乞うから付き合ってやったが悪くないな」

「いくら速くても君に何時間も掴まってられないよ……」


 アイリスは予告通りに一日明けた今日、目的地へと自分の足で出発するつもりだったのだが、詠歌がそれに待ったを掛けた。

 もしかして、という嫌な予感はあったので昨日の『非科学現象証明委員会』の活動の後で新幹線のチケットを取り、それを突き付けてアイリスを説得した。

 初めは渋々といった様子だったがどうやらアイリスも満足しているらしい。とはいえ物珍しさからだろうから、帰り道の説得はより大変になりそうだと今から頭が痛い。


「私が抱いてやるからお前はマントに包まっていればいい」

「その言い方はやめてくれ」


 車内は満席ではないが、それでも前後と通路を挟んだ隣の座席は人で埋まっている。聞かれればあらぬ想像をされかねない。詠歌からすれば北欧神話や対攻神話プレデター・ロアの事を聞かれるよりも避けたい事だ。

 アイリスを咎めた後で改めて首を横に振る。


「それでも落ち着かない。良識は求めないけど常識は持ってよ」


 天上では自他共に認める悪、良識を抱けというのは無理にしても地上に居る以上、常識は必要不可欠。詠歌も出来る限りサポートし最低限、国家機関のお世話になる事だけは避けるよう言い含めているが、住んでいた世界が違ければ常識の違いは発生する。


「小娘と比べれば私は十分に常識的だろう。彩華に勝るとも劣らないはずだが」

「ユーリは少し世間知らずな所があるだけ。会長は常識を忘れやすいだけ」


 本人たちが聞いていれば頑として認めないが、今回は二人だけ。詠歌を咎める者はいなかった。

 素知らぬ顔で言う詠歌の視界の端の窓でちらちらと何かが舞う。


「雪だ」


 目的地は雪国、詠歌たちの住む街では滅多に降らない雪が三月を迎えてもまだちらついていた。

 積もる程ではないが、外は冷え込みそうだ。


「天上にも四季はあるんだっけ」

「ミズガルドとアースガルズにはな。とはいえヴァルハラ、グラズヘイムには存在しない。あそこは館の中にある閉じた世界だからな」


 グラズヘイムはアースガルズにある黄金の宮殿の名だ。ヴァルハラはその中にあると神話では語られている。

 実際に見た事もこの先見る事もない世界、詠歌には想像もつかない。

 ただ外の雪に興味を示していないという事はアイリスにとっては珍しいものではないのだろう。


「だがヴァルハラにもいずれ冬が訪れる」

「フィンブルの冬、だよね」

「ほう、知っているのか」

「たまたまだけど」


 北欧神話について書かれた本で読んだ事があった。

 ラグナロクの前兆とされる三度続く冬。世界が吹雪に包まれ、戦乱が起こる。そして兄弟たちが殺しあうのだという。

 それ以上の具体的な内容は分からないが、そこから世界は終末へと向かって行く。北欧神話がオーディンが地上に遺した予言書である以上、

 それはいつか必ず起こる事のはずだ。


「フィンブルとラグナロク、そしてオーディンの死、それを予言した運命の女神の名は『ヴォルヴァ』。オーディンに未来を見る力はない、言ってみればこの地上に遺された北欧神話の生みの親か。もっともオーディンの怒りを買って三人に分かたれたがな」

「運命を受け入れなかった……まるで人間みたいだ」


 リシュライナーーレラが言っていた事を思い出す。現代の人間は死を恐れるようになり、告げられた運命を受け入れるのではなく、抗うようになった。現代に生きる詠歌にとってもそれは当たり前の事だ。誰かに運命を決められて、それをただ受け入れる事など出来はしない。

 だが運命の女神が当たり前に存在する世界で運命に反逆する事の重大さは想像に難くない。

 北欧神話の世界において運命とは絶対の物。自らの運命を知る者は限られているが、運命に歯向かう者は存在しないという。

 勇者エインヘリアルという仕組みもそうだ。死という運命から逃れられないと知っているからこそ、英雄は死を恐れない。安穏とした生よりも命を賭して何かを為す事を選ぶ。そうして何かを為した者が勇者エインヘリアルに選ばれる。


「強欲に智慧を得た結果だ。私を生んだのもその愚かしさ故だろうが、なら何故ラグナロクを引き起こす終末者を今討たないのか、何故この地上に予言を遺したのか。運命を否定したあのジジイが何を考えているのかは知らんし、興味もない」


 オーディンの死も運命によって定められている。神々ですら逆らえない運命をオーディンは否定しようとしている。

 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを生み出したのは戦力である勇者エインヘリアルたちの力を高める為だろうが、それ以外の理由など詠歌には想像もつくはずがない。それに知ったところで詠歌には関わりのない事だ。早々に思考を打ち切った。


「だが、くくっ、人間のようだ、か。お前も言うな」

「君の話を聞いての、ただの感想だよ。会った事も、会う予定もないんだから実際どんな人、神なのかなんて分からない」


 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと人間の価値観の相違は未だ埋まらない。しかし、だからこそ面白いとアイリスは笑う。


「確かにあのジジイは現実主義者リアリストの人間のようだ。だとすればその娘である戦乙女ヴァルキュリア共が夢想論者ロマンチストなのだから、哀れな事だ」

「……成程」


 何故か納得した様子で深く頷く詠歌だが、その視線の先に自分が居る事にアイリスは気付かない。


(君を見てればロマンチストっていうのも納得だ、なんて言ったら怒るかな)


 時折、思わず赤面してしまいそうな台詞や行為に晒される詠歌はその言葉を呑みこみ、気付かれる前に会話を続けた。


戦乙女ヴァルキュリア夢想論者ロマンチストって言うのは?」

「純粋なる人の願い。無垢なる人の祈り。戦乙女ヴァルキュリアとはそういう絵空事のような綺麗事に惹かれ、求めに応じる。まるで恋する乙女のように、な。奴らは冷酷でありながらも夢見がちな乙女なのさ。シグルズに一度は恋したブリュンヒルテがいい例だろう」


 アイリスを地上へと堕としたブリュンヒルテは地上においては悲恋の物語の中の登場人物として名を残している。その物語の後、勇者エインヘリアルとなったシグルズと彼女が今、どういった関係なのかは詠歌には分からない。アイリスなら知っているのかもしれないが、自分が聞いていい事でもない、と詠歌は口を噤む。


戦乙女ヴァルキュリアもまた人間のようだと言うのなら、ブリュンヒルテのように夢見た者に出逢う戦乙女ヴァルキュリアが現れるかもしれんな。……釘を刺しておくが詠歌、お前は戦乙女ヴァルキュリアには祈るなよ」

「そんな目で見なくてもしないよ……」


 ジト目で見られ、何を思ってわざわざそんな事を言うのだ、詠歌は呆れてしまう。


「そもそも地上からの祈りまで届くの?」

「……ふむ、それもそうだ。天上に関わりがなければ届きはしない、か。……ともかく予言を知る者は神々を除けば限られている。勇者エインヘリアルの中ではシグルズと一部の者だけが、戦乙女ヴァルキュリアも全員が知っているわけではあるまい」


 いらぬ心配だった事に気付いたアイリスが誤魔化すように話を戻す。一瞬、詠歌は訝しむがその理由にまでは気付かない。

 これもある意味で価値観の相違か。彩華が居たならば詠歌を小突きでもしただろうが、生憎と今は自宅でユーリを着せ替えしている真っ最中であった。


「でも君は知ってた」

「分かたれた『ヴォルヴァ』の一人から直接聞いた。思えば奴の嫌がらせだったのだろう。運命を否定する為に生み出したであろう私を唆し、ジジイの計画を潰す為のな。運命を司る奴からすればジジイの暴挙を許せなくて当然だ。口車に乗ったつもりはないが、こうして私は天上から地上へと堕とされた」


 結局、アイリスと出会ってから詠歌が読み込んだ北欧神話も今は当てにならない。オーディン自身がその予言を覆そうとしているのなら、ただの参考程度に留めるべきだ。

 だが気になる事はある。元々神話を信じていなかった詠歌はそうして受け入れられるが、これから会いに行く目的の人物はどうなのか。


「ならこれから会うミズガルドの人も予言の事は?」

「ミズガルドの人間なら知るはずもない。だが地上に居る以上、もう知っているだろうな」

「大丈夫なの? 北欧神話の内容を知っているなら天上に戻りたくないのかもしれない。事情はどうでも其処に君が行ったら……ミズガルドの人が戦乙女ヴァルキュリアに祈るような事態にはしないでよ」

「心配するな、考えはある。事を荒立てるつもりもない」


 アイリスが平和的解決方を取るとは思っていなかったので今更遅いが逆に不安になる。

 大船に乗ったつもりでいろ、と自信ありげな表情だが信じていいものか。


(此処まで来たならもうなるようにしかならない、か)


 詠歌の不安を他所に新幹線は二人を目的地へと運んでいく。

 其処で待ち受ける運命も知らず、淡々と機械的に。




 ◇◆◇◆




 電車に乗り換えてさらに三十分、昼前にミズガルドの住人が住むという街へと到着する。

 駅のホームを出ると雪国の冷気を孕んだ風が頬を刺す。雪が舞い、吐いた息が白に染まって消えていった。

 新幹線が停車した街と比べれば目的の駅は寂れた雰囲気を発している。駅前の乗り場に停まったタクシーの車内で運転手が暇そうに体を伸ばしている。

 詠歌たちと共に下りた人々がバスや徒歩で離れて散っていく。その様子をぼんやりと眺めてから一度駅へと振り返る。


「……」


 駅名の立体看板の下に付けられた二枚の横断幕には『災厄の日から6年』『何度でも立ち上がろう』とスローガンが掲げられていた。

 無感情な瞳でそれを一瞥した後、隣に立つアイリスに目を向ける。彼女のマントから蝙蝠が飛んで行く。


「快適かとも思ったが座り続けるだけというのはつまらんな」

「帰りもあるけど我慢してよ。その人の店までは遠いの?」

「歩いて半刻程だ」


 蝙蝠を空に見送り、凝り固まった体を回してほぐしながらアイリスが答える。この駅から三十分も歩けば詠歌の住む周辺のような田舎道か工場地帯へ辿り着く。目的の人物は栄えた場所には居ないようだ。


「なら少し歩こうか」

「ああ」


 駅の敷地を出て目の前の河川敷に沿って歩き出した所でああ、と思い出して肩にかけた鞄に手を入れる。


「必要ないかもしれないけど」


 詠歌が差し出したのは赤いマフラーと黒の手袋だった。

 向こうでは三月になればコート一つあればそれ程不自由はしないが、こちらはまだ気温は一桁、朝晩は零度を下回る。

 もっともアイリスはマントの下は常に薄着、この程度の寒暖差で堪えるとは思っていないが念の為に持って来ていた。


「お前の分は?」

「僕は平気。暑いよりは寒い方が得意だし」


 寒さは感じるが中は普段より着込んでいた。多少手はかじかむが包帯の残ったままでは手袋は出来ない。それもコートのポケットに入れれば問題ない程度だ。


「ん」


 アイリスの返答は短く、マントを引っ張り、顎を上げて首元を開ける事で詠歌に催促する。

 呆れた表情で溜息を吐いてからマフラーを首元に回して結ぶ。顔が近づくその様子は遠くから見れば人目を憚らないカップルの情事に見えなくもないが、本人たちにそのつもりはない。価値観の相違、いや一致である。


「……」


 ただ、途中で下りた視線が唇を捉えると血を吸われた事を思い出して気恥ずかしくなり、すぐに離れた。

 具合を確かめるようにマフラーに触れるアイリスに手袋を押し付けて詠歌が歩き出す。


「詠歌」


 それを追いかけ、アイリスはコートのポケットにしまわれた詠歌の左手を引き抜く。何のつもりかと尋ねる前に毛糸の暖かみが手を包んだ。


「心遣いには感心するがやせ我慢だな。震えているぞ?」


 くつくつと笑いを耐えるアイリスにやせ我慢のつもりはないと言い返そうと思ったが、その言葉の通り自分の手が震えている事に気づく。思っていたよりも寒さが堪えていたのだろうか。


「転んで引っ張らないでよ」


 路面凍結注意! と書かれた看板を顎で指して言うとアイリスは気を悪くするでもなく、意外そうに詠歌の顔を見上げていた。


「断ると思ったがなんだ、妙に素直だな? あれか、旅の恥は掻き捨てという奴か」


 そんな言葉を何処で覚えてくるのか。良識はともかく、彼女も十分に地上に染まっているようだ。

 だが内容的には喜ぶべきかは何とも難しい。


「別にそんなつもりないけど。そこまで初心じゃないし」


 彩華やユーリの前なら拒絶しただろうが、そもそもアイリスは詠歌の家では警戒心の欠片もないような姿を晒す事も多々あったし、血を吸われる時と比べれば手を繋ぐ程度の接触は今更だ。


「彩華とは恋仲ではないのだったか、他に相手が居るとは思えんが」


 見栄か照れ隠しだったのか、余計な事を言ったと詠歌は少し後悔する。


「会長は無警戒だから慣れもするよ」


 熱が入って来ると彩華はスキンシップも激しくなるし、一度だけアルコールの入った時は大胆だったがそれは本人の名誉の為に伏せておく。

 しかし詠歌と彩華に噂が立っている事も知っている。実質二人きりのサークルだ、暫く休んでいるが熊切に指導を頼んだ時も尋ねられた。


「つまらん奴め。色を好めとは言わんが束縛するつもりもないぞ、勇士よ?」


 明らかに揶揄う調子のアイリスに二度目の溜息が零れる。


「サークルでは会長と二人きり、家では君と二人きり、そんな状態で恋人なんか作れると思う?」


 詠歌を取り巻く状況を思えば不可能に近い。即刻浮気者扱いされるに違いないし、詠歌自身にもそんなつもりはない。

 それは彩華も同様だろう。少なくとも本人からそんな話は聞いたことはない。詠歌は知らない事だが以前のアイリスとのやりとりから相当清い人物なのは確かだ。


「それに君の言う通り相手もいないし、作る気もない」

「ほう、操を立てた相手でもいるのか?」

「それ、僕相手に使うのは違くないか……? そんなんじゃないよ」


 呆れながらアイリスの言葉を否定する。彼女の貞操観念は分からないが、詠歌はそこまで徹底したものは持っていない現代人だ。誰かと結ばれるかもしれないし、そうならないかもしれない。少なくとも今はその時ではないというだけ。


「しかし今まで相手が居なかったという事もあるまい。好みはあれ、それなりに整った顔だ」


 突然の誉め言葉に気味悪そうに詠歌がアイリスを見る。本人はなんてことない表情で、照れもしていない。

 ただの客観的意見らしいが、面と向かって言われるのはむず痒い。


「なんか随分突っ込んで来るね」

「深い意味はない、単なる興味だ。彩華も背信者も、あの小娘も顔立ちは悪くない。浮いた話の一つでも出んものかとな」


 確かに年齢や置かれた立場を考えなければアイリスを含めて出会った者たちは皆美人だ。俗な言い方をすればレベルが高いとも言う。


「それに背信者も小娘もお前を憎からず想っているだろう」

「その上に会長が居るけど」


 アイネを立ち上がらせたのも、ユーリを救い上げたのも、どちらも彩華だ。詠歌には出来ない、それを分かっていたからユーリの事も任せた。

 もしも彩華が関わっていなければこうはなっていなかったはずだ。勿論、詠歌とアイリスが居たからこそではある、けれど彩華の存在はそれだけ大きい。


「僕にもそんな気はないし、今の友人みたいな関係がちょうどいいよ」


 そう言いながら、友人同士で手を繋ぐのは変だと気付くが、それを口には出さなかった。

 雪の散る寒空の下、繋がった二人の影は進んでいく。

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