⑬
一羽の蝙蝠、
直接出向くのは初めてだからか、その埃っぽさに顔を顰める。
「バートレットももう少しマシな場所を選んで欲しかったなあ」
廃屋を覆うようにユーリが用意していた結界を発動させ、ぼやきながら右腕を振るう。巻き付いていた触手が鞭のようにしなり、虚空へと繋がる。
綻んだ空間の穴を広げながら、何かが引きずり出されていく。
「ネタばらしも済んだし、もういいよ。隠れる意味もなくなった」
触手が繋いだのは『アイオド』が潜む異空間。現実とはズレた座標に潜む『アイオド』は通常、目で捉える事は出来ない。それが出来るのは『アイオド』と直接繋がった者か、同じようにズレた者だ。
ユーリは前者だった。『アイオド』の神託を受けながらもその姿を捉える事が出来なかったのはニコラの仕業だが、黒騎士の反乱という予想外の事態に『アイオド』の力を出し惜しむ余裕はなかった。あのままでは『アイオド』が召喚者であるニコラの手を離れる恐れがあったからだ。
詠歌は後者だった。現実を生きる肉体の中に在るはずの魂が剥がれ、彼の視点は一段上へとシフトした。肉体という枷から解き放たれたと言ってもいい。
アイリスが語ったように彼女の使う魔術と教団、というより人間の扱う魔術は異なる。そもそも人間は魔術を扱うのに必要な魂を肉体で覆っているが故に魔術に適していない。だからこそ人間の魔術は才能ある一部を除けば技術と何より下準備によるものが大きい。
ユーリが詠歌に使った薬品の理想形はユーリの言った通り、魂の改ざんだがそれを作り出すのが不可能と判断した研究者は魔術の才能を伸ばす薬へと用途を変えて改良を始めた。まだ未完成ではあるが、それでも詠歌は『アイオド』の姿を捉える事が出来たのは薬の効果だ。
「それで魂が完全に剥がれちゃ意味がないけどねえ。まあいい実験が出来たってあの人も喜ぶでしょ」
ユーリとニコラを始め、『審問会』の人間は皆、研究者からあの薬品を渡されていた。肉体を離れ、魂だけの存在になれば神に近づけるかも、なんていう触れ込みで。それを鵜呑みにした者は誰もいない。
召喚者であるニコラはユーリで試すつもりだった。『アイオド』は本来、人の生命力を喰らう邪神で喰われた者の魂は死体の中に永遠に囚われ続ける。それでいて『アイオド』が召喚者に求める生贄の数は多い、それを生ある者が生む恐怖でいくらかを代用しているがそれでも手間はかかるし、限界がある。
もしも魂を別の入れ物に移し替え、その後で生まれる恐怖を餌に出来るのなら効率が良いと考えていた。
「やっほー勇士くん、元気? SAN値チェックする?」
『……っ』
現実へと姿を現した『アイオド』。その中に囚われている詠歌の魂へとニコラは語り掛ける。『アイオド』が姿を現しても魂のみの存在となった詠歌ははっきりとは視認出来ない。ただその召喚者、宿主となったニコラには『アイオド』の内部で瞬く光の球として魂を感じ取る事が出来た。
『……君は』
「僕はニコラ、長い付き合いにはならないだろうから覚えなくてもいいよ?」
呼び掛けに詠歌の意識が目覚める。取り込まれ、全身をくまなく観察されているような居心地の悪さを感じるが、意外な事に痛みはない。
傷ついた体を癒す為に取り込まれたはずなのに、という疑問が浮かぶ。
「僕が直接出向いたからね。バートレットから吸い上げた恐怖で『アイオド』の傷は癒えた。魂だけの素っ裸の君から吸い上げると簡単に壊れちゃいそうだからさあ」
『……ああ、成程。分かりやすい……君が黒幕なんだ』
「あんまり驚かないんだね。でも
首を左右に振り(もっとも肉体はないが)、それを否定する。ユーリといい目の前の彼といい、そんな風に見えているのか、と少しばかり自分を見直したくなってくる。
「人生考え直した方がいいんじゃない? 今の状況、理解してる?」
『全然。僕はあっさり捕まって、それきりだから』
前回の事件以上の足手纏い。活躍出来るなんて驕りはなかったが、我ながら情けないものだ、と他人事のように自嘲した。
「なら教えといてあげる。君は人質で、今は君の御主人様たちが首を洗ってやって来るのを待ってる所。君の魂が囚われてるって知ったら誰も手出しして来なかったよ。いやあ君も運がないよねえ、
僅かに安堵する。この少年も知らないのだ、詠歌とアイリスの出逢いを。アイネのように神託として
「そういえば訊きたい事があったんだ。『アイオド』越しに見てたけど、君はどうしてバートレットを逃がしたんだい? アイネ・ウルタールのような異常者でもなければあんな事をされた奴の身代わりになろうなんて考えないでしょ。そのせいで余計な手間を掛けさせられたんだよ?」
それはそうだ。レラとの約束があったとはいえ、普通ならあの場は離脱を優先する。アイリスの時とは違う、ユーリには詠歌が手を差し伸べる理由はなかった。
『今だってあの子には腹が立ってるよ。危険な目に合う覚悟はしてたけど、だからって張本人を手放しで許せるわけじゃない』
そう、詠歌は今も苛立っている。ユーリにも目の前のニコラにも、自分自身にも。知らなければ、気付かなければ、こんな目には合っていなかったのに、と。
『僕のせいにするのは勝手だけどさ、アイネといいあの子といい、つける名前が安直すぎるからこうなるんだよ』
ウルタールにバートレット。そんなもの、知識があれば誰でも結び付く。
もっとも後者に関して知っていたのはタイミングが悪すぎた。
知らないままだったのなら、こうはなっていなかった。
『バートレットって言うのは洋梨の名前だ。そういう姓もあるのかもしれないけど、洗礼名としてはあり得ないだろう』
洋梨で用無しだなんて、あまりにも下らない。彼女はそれをあまりに誇らしげに名乗ったのだ。
ユーリのした事を子供のする事だと流すつもりはない。だが、そんな名前を授け、そうするように仕向けた者への怒りと苛立ちの方が強くなって当然だった。
『もう此処には
それを知ったアイリスや彩華がどうするかは分からないが、彩華ならきっと上手くやるだろうと信じて詠歌がレラへと伝えたメッセージ。
しかしニコラを前にそんな遠回しも、本音を隠す必要もない。此処には見栄や虚勢を張るべき相手はいない。
積もった苛立ちを解放するには丁度良かった。
『僕は
「……っは」
間を置いて、廃屋にニコラの哄笑が響く。もう仮面を被り直す理由はない。溢れ出る感情を抑える必要はない。
こんなにも滑稽な様を見せられて、耐えられるわけがない。
「あはははははは! 虫も殺せないような人畜無害な顔して、口だけは達者だねえ! 御主人様そっくりだ! 魂だけになって、死んだも同然の状態でよく言うよ!」
見逃したアイリスたちにはまだ抵抗の余地がある。当然だ、あえて残したのだから。歯向かって来るのなら大義が生まれる。憎たらしい異教徒を手ずから葬る理由が出来る。それならそれで構わない。
だが詠歌には抵抗の余地などない。手足どころか肉体の全てを失い、ニコラであっても『アイオド』の力がなければ認識する事も出来ない魂だけの存在へと成り果てた。勇気、蛮勇、虚勢、見栄、そのどれであってもニコラにとってはただ滑稽だった。
「決めた。君は最後にしよう。君の御主人様と友人から恐怖を搾りつくした後で、絶望に落ちる君の魂を生きたまま喰わせてあげる」
『……それは困るな』
「はあ?」
想像とは違い、苦笑を浮かべる詠歌をニコラが訝しむ。まだ状況が分かっていないのか、それとも
『僕はまだ死ぬわけにはいかないし、それに勇士を名乗った手前、魂をくれてやる事も出来ない』
「信心深いのか義理堅いのか、相手が相手ならさぞ熱心な同志になれたのに」
異教であっても名高き主神や
「結果は変わらなかっただろうけどね」
敵であっても同志であっても変わらない。過程が違っても最後には『アイオド』の餌とする。それが召喚者であるニコラの変わらない生き方だ。
「さて、君と話すのは結構楽しいんだけど、どうやら準備が出来たみたいだ」
周囲に張った結界が魔力を感知したのを察し、ニコラは指を鳴らす事で『アイオド』を再び異次元へと戻す。水底に沈んでいくような感覚と共に詠歌の意識が霞がかっていく。異次元から見る景色は現実感のない、夢のような感覚だった。
「そこで見てなよ。君の御主人様が下す決断と、その末路を」
ニコラの言葉を何処か遠くに聞きながら、ぼやけた視界の中で詠歌は見た。
廃屋の崩れた天井から覗く三日月。その月明かりよりもさらに眩い、紅いオーロラ。忘れるはずもない、出逢いのきっかけはあのオーロラだったのだから。
◇◆◇◆
廃屋を中心に地上に描かれる巨大な魔方陣。人の身では決して行えぬ神の如き魔術。
「――天と地を繋ぎて結べ、神と人とを隔てて別つ。
朗々と紡がれる呪文めいた言葉。それに応じるように魔方陣の輝きは増し、内と外とを隔てる結界が結ばれる。
周囲をオーロラのように揺らめく幾何学模様の半透明のカーテンが覆い、この場に不似合いな廃屋だけがその姿を残す。
「結界を張るのにこうも手間取るとはな。不便なものだ」
『残り少ない力を使ってまでする必要があったのか』
月明かりを掻き消すオーロラの輝きの下で
「力を振るうにも相応しき舞台がある。それに詠歌から口酸っぱく言われたのだ」
『何と?』
「警察とやらの世話になる事だけは絶対にするなと。あまりにも真剣な顔で言うので思わず頷いてしまったからな」
『……』
それは切実な願いだろうが、妙な所で律儀なものだとレラが沈黙する。
「戦場に部外者が紛れ込んでも不快だ。流れる血は戦士のものだけでなくてはならん」
視線の先、キィと音を立て、廃屋の扉が開く。そこからニコラがひょこりと顔を覗かせた。
「随分と派手な登場だねえ。まーたニュースになっちゃうんじゃない?」
周囲を見回し、残された廃屋の存在が酷くアンバランスに映って思わず笑ってしまう。
「普通の魔術師には到底出来ない結界だけど、センスがないねえ。もうちょっと景観を考えて欲しかったな」
「お前には似合いのあばら家だろう。本来なら貴様も我が戦場には不釣り合いだが、今回は特例だ」
「あらそう。それで、二人だけ? 僕は全員揃って来るように言ったはずだけど?」
アイリスとレラの姿しかない事に不満げに言う。またマントに隠れて潜んでいるのかとも思ったが、マントはアイリスが羽織ったままだ。
これでは尋ねるまでもなく、答えが出ている。
「結局歯向かう事にしたんだ?」
「貴様もその方が都合がいいだろう? 貴様からは慣れ親しんだ敵意を感じるからな」
天上で最も多く向けられたそれをニコラからはずっと感じていた。以前のアイネと同じかそれ以上、アイリスの存在を決して認めないという敵意が漏れ出ている。
「ははっ、心遣いどうもありがとう。不愉快極まりないよ」
「それは重畳だ。私は貴様の悔恨と屈辱に歪んた顔を見に来たのだから」
マントの内から聖剣を抜き、その切っ先をニコラへと向ける。
掴んだ聖剣の脈動をアイリスは感じていた。早く持ち主の手へ、そう急かす様に熱を帯びている。
「一応言っておくけど、勇士くんの魂がどうなってもいいのかな?」
「その目は知っている。我が
それは確信だった。数多の
「間違ってはいないね。だって人質なんかいなくても僕は負けないから」
否定する事もなくニコラは頷く。詠歌はあくまで万が一の保険。詠歌に求めるのはアイリスを殺した後、それによって生まれるだろう恐怖の感情だからだ。
だが詠歌の安全が保障されていても、魂がニコラの手の中にある限り勝利はあり得ない。
それを理解して尚挑んで来る以上、何か策がある事は明白。けれどそれすらも叩き潰す自信がニコラにはある。
「来なよ、異教の化け物。テメェの主神に代わって、僕が断罪してあげる」
取りだした仕込み杖を刺突剣へと変え、アイリス同様に切っ先を突き付ける。手を覆うように触手が剣まで巻き付き、ニコラの腕が異形の右腕へと変性した。
「これではどちらが化け物が分からんな」
『我らは元より人外。だが汝も既に人でなしだ』
触手によって肥大化した右腕。人体にはあまりにも不釣り合いな剛腕、二人はニコラを人から魔へと認識を変える。あの異形のシルエットは人外の魔性とカテゴライズするのが相応しい。
「月並みではあるけど、人を越えたって言って欲しいなあ。その証拠にほら」
異形と化し、剣と一体化した右腕が振るわれる。本来、刺突に特化したはずだった剣は風切り音と共にコンクリートの地面を抉った。
生身は言うまでもなく、たとえレラの鎧であっても防ぎきる事は叶わないだろう。
「でもこうやって力を見せつけるのって雑魚っぽくて嫌だね」
「ほう、意外だな」
感心したように呟いたアイリスの言葉をレラが続ける。
『自覚があったとは』
紡ぎ終えるよりも速くレラへと放たれた斬撃をアイリスが聖剣を振るう事で弾く。発生した風圧に黒髪とマントが揺れた。
『礼は言わない』
「謝罪なら聞いてやる」
ニコラは浮かべていた笑みを消し、怒りのままに二人を睨みつけた。
「可燃と不燃、ゴミが二つ。まとめてスクラップにしてやるよ」
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