彩華の部屋で応急処置を終えたアイリスが無造作にマントの内側から聖剣を取りだした。

 己の勇士がせめてと残した聖剣を忌々しげに見つめ、その柄頭へと触れる。


「っ……!」

「エリュンヒルテ様!?」


 だが次の瞬間には弾かれたように聖剣を取り落としていた。聖剣の柄を持っていた左手を見れば、熱せられた鉄棒を掴んだように焼けただれている。


「やはり私だけでは抜けんか」


 予想はしていた。聖剣、はジュワイユーズ。アイリスがそれを振るえるのはその聖剣が鞘に納められているからだ。

 ジュワイユーズの柄頭に埋め込まれた、神の血に濡れた槍の穂先。本来なら聖者が持てばジュワイユーズと同等以上の輝きを放つ聖槍の欠片だが、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが持てばそれは神を滅ぼす魔槍となる。

 しかしそれを抜き放つという事は即ち、ジュワイユーズも真の輝きを取り戻すという事。強大な聖纏気を持つ聖剣、それが解き放たれればアイリスには触れる事すら叶わない。

 聖剣と魔槍は互いにとって鞘の役割を果たしている。それが陽であれ陰であれ、強すぎる輝きは争いの火種となる。だからお互いを鞘として、封じたのだろう。


「武具の形を持ちながら争いを避けるというのも、矛盾した話だがな。彩華、剣を持て」

「は、はいっ! ……あ、あれ?」


 アイリスに言われるがまま、ジュワイユーズを持ち上げようとした彩華だが、床に転がった剣は吸い付いたように離れない。


「んーっ! んーっ! な、なんで? あの時は私でも持てたのに……」


 確かにあの時、詠歌が残したジュワイユーズを黒騎士に奪わせまいと、彩華は無我夢中にそれを掴み、アイリスへと投げ渡した。火事場の馬鹿力というだけでは説明がつかない程に今の剣は重く、動く気配がない。


「聖剣らしく使い手を選ぶか。我が勇士を選んだ、というのは悪い気はしないが、役に立たん剣だ」

「つ、つまり、あの時は詠歌君が聖剣を奪わせまいとしていたから、剣がその意をんだと……?」

「恐らくな」


 この様子ではたとえ床に転がったままの状態で彩華が触れていても槍は抜けないだろう。


「今も私が振るえるのは聖剣が使い手としてではなく、運び手として選んだだけ。生意気な事だ」


 ジュワイユーズを拾い上げ、何の抵抗もなく持ち上がったそれをマントへと仕舞いこむ。

 元々期待はしていなかった。それに今分かっている敵は黒騎士だ。亡霊が相手では聖剣はともかく、神殺しの魔槍ヴェルエノートはその力を発揮しない。であれば敢えてそれを使う理由もない。

 だが、彩華の表情は不安げだった。決して口にはしないだろうが、言わんとしている事の察しはつく。


「思う事があるなら口にするがいい。不敬だなどと処断はせぬさ」

「……はい。僭越であるとは分かっています、でもエリュンヒルテ様……あの槍なくして、以前のような力を使えるのでしょうか」


 シグルズすら不覚を取った『ウルタールの猫』を滅ぼした力。それは決して槍の力だけではなかった。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの戦装束は今も彩華の心に焼き付いている。あの禍々しくも神々しい、アイリスの姿が。


「何故そう思う?」

「あの黒騎士との戦いで、エリュンヒルテ様はあの力を使いませんでした。シグルズや『ウルタールの猫』と比べれば、黒騎士の実力は決して優れたものではなかったからでしょう」

「ふん、それでこのザマだ。詰めが甘いと言われても仕方あるまい」


 自嘲するアイリスに彩華は悲しそうに首を振った。そんな事を言いたいわけではない、アイリスを責めようなんて気持ちを持ってはいない。気に掛かったのはそこではない。


「でも、詠歌君が攫われようとしてもエリュンヒルテ様は使おうとはしなかった。それは使いたくとも使えなかったからじゃありませんか? 私にはあの状況でエリュンヒルテ様が力を出し惜しむような方だとは思えないんです」

「……大したものだ」


 アイリスは否定しない。彩華の予想は的中している。図星を突かれた、そう言ってもいい。

 内心でアイリスは彩華の評価を改めた。彼女は知識持つ者ではない、まさに智慧ある者だと。


「それだけの理由か?」

「自信を持って言えるのは。でももう一つ、エリュンヒルテ様は短いとはいえ魔力を使う時に呪文を口にしていました。以前はそんな様子、ありませんでしたから」

「その通りだ。だが分かりやすい呪文それではなく、私の在りようの方を自信を持って断言するとはな」


 悪と断じられる事には慣れている。しかしアイリスにとってこんな断じられ方は初めての経験だった。

 はにかむ彩華に、思わず呆れの混じった溜め息が零れた。


「確かに今の私では以前のように無造作に魔術を行使する事すらままならん。奴との戦いが始まる前に結界を張っただろう。あれであの時は打ち止めだった。使えなかったわけではないが、魔力の消費があまりに違い過ぎるのだ」

「北欧神話の魔術というのは本来であれば口頭による詠唱やルーン文字を記して発動するもの、なんですよね。それを行わずに行使するのなら、それだけの魔力が必要になる……そういう事ですね」

「私の口にするのは正確には呪文ではない、この国で言う所の言霊のようなものだ」


 恐らく彩華であればそう遠くない内にアイリスの現状を察するだろう、なら隠しておく必要もない。


「そもそも、生きる世界の違う私とお前たちの言葉が通じると思う? しかもこの世界は共有の言語こそあれ、国や人種によって無数に分かれているのにも関わらずに」

「それは……エリュンヒルテ様たちが人よりも高次の存在だから、ではないんですか?」

「くくくっ、確かにそういう見方も出来る。ブリュンヒルテが聞けば大いに頷くだろうさ。だが私はそうは思わん」


 アイリスの力が不完全である事を知っても尚、尊敬の籠った彩華の言葉に楽しげに笑いながら、アイリスはそれを否定する。


「言語とは人が意思を伝え合う為に智慧によって生み出されたものだ。私たちは元からその意思を伝え合う力を持っているに過ぎん。そういうものなのだ。翼持つ鳥たちは空を舞うのはそれがそういう生き物だからだろう? それと変わらん」


 翼を持たない人は、空を飛び回る事は出来ない。しかし現代の空を飛ぶのは鳥だけではない。空も、その上のそらにも、人の手は伸びている。


「私は私自身が人よりも劣っているなどとは微塵も思わん。だが人は長い時の中で成長した。元々は言語など解さぬ者が、それを獲得したのだ。人が優れているとは言わん、だが全てが劣っているなどと思いもしない」


 対等の存在である、とは言わない。けれどアイリスが詠歌を、彩華を、人間を認めているのは確かだった。


「……」


 彩華は言葉が出なかった。そんな言葉を掛けられるなど、思ってもいなかったのだ。

 非科学を探し求め、ようやく出逢えたアイリスにそう言われて、言葉に出来ない歓喜に震えている。


「あっ、ありがとうございます!」


 どうにか礼の言葉を絞り出し、首が千切れんばかりに頭を下げる。感無量だった。


「話を戻すが、私たちの言葉というのはお前たちがそう受け取っているだけだ。言葉は持っても言語は持たない、とでも言えばいいか」

「だから言霊だと……」


 それを聞いて、合点がいく。そもそも吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアという言葉自体がおかしな響きなのだ。北欧神話の原語は古ノルド語であり、ヴァルキュリアもそれだ。しかしヴァンパイアは英語である。北欧神話に属する存在であるなら同じ古ノルド語で表すべきだろう。

 けれどアイリスの言う通り、神話の存在たちが言語を持たず、意思を直接伝えているというのなら、納得がいく。アイリスが堕ちてきたのが例えば日本でなくドイツだったのならヴァルキューレ・ヴァンピーア、英語圏だったならばヴァルキリー・ヴァンパイアなどと呼ばれていたのだろう。

 この国で吸血戦姫きゅうけつせんきと呼ばれなかったのは、音だけではヴァルキュリアだと理解出来ない事と、外来語が多様に溢れている為だろうか。


対攻神話プレデター・ロアに属する者たちが使う魔術であれば、呪文もあるだろう。だが本来であればそんなもの必要のない私が呪文めいた言葉を発するのは、お前の言う通り力が戻っていないからだ。剣士が剣を構えるように、銃士が引き金を引くように、今の私はそうしなければ以前のように魔力を扱う事が出来ない」

「……なら!」


 決意したように彩華は立ち上がり、着ていたチュニックを引っ張り、首元から肩までをガバリと晒した。


「どうか! わ、私の血を吸って下さい!」


 天音彩華、今月で二十一になる牡羊座。自ら肌を晒す初めての経験である。

 同性であっても恥ずかしさに顔が紅潮するのを感じるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。詠歌とアイネを取り戻すにはアイリスの力がなければ不可能、その力を少しでも取り戻す為なら、いくらでも肌を晒す、いや血を捧げる覚悟だった。


「いや必要ない」


 しかしそんな彩華の覚悟を知ってか知らずか、アイリスはにべもなく拒絶した。一世一代の覚悟を不意にされ、はだけた服を丁寧に直した後で彩華が崩れ落ちる。


「隠していたつもりもなかったのだがな」


 居たたまれなさからか、天井を見上げてアイリスが呟く。彩華の申し出を拒絶したのは、決して己の持つ誇りからではない。


「我が身は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア吸血鬼ヴァンパイアでもなく、戦乙女ヴァルキュリアでもない混じり物。お前たちの想像する吸血鬼のように、血から何かを得る事はない」

「え……?」


 想像外の言葉に、彩華は伏せていた顔を上げた。


「血を求めるのは単なる嗜好、単なる欲望。故にこそ戦乙女ヴァルキュリアは我が名を忌む。意味もなく血を求む我が身を奴らは悪とした。理由なく血を求む悪として我が身を神は生み落とした」


 ただ意味がないからだ。差し出された首筋に牙を突き立て、血を啜っても魔力が満たされる事も、腹が満たされる事もない。

 それでも抑え切れぬ欲であるが故に、そうあれかしと生まれた故に、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは悪を為して血を啜る。

 胸の内から湧き上がる欲求に従う、ただそれだけの行為。

 だがそれが一体何に基づく欲求であるのか、アイリスはまだ知らない。そうと定められたものだと、そこで思考を止める吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは気付かない。


「私に供物も報酬も必要はない。我が身は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア、思うままに悪を為し、望むままに血を啜ろう」


 口角を上げ、確かめるように自身の在り方を口にする。たとえ天地が逆転しようと変わらない生き方を。

 それを聞き、彩華も決意を瞳に宿らせる。アイリスが己の現状を明かしたのは、彩華を認めてくれたから。そんな彼女の前で、これ以上の恥を晒すわけにはいかなかった。


「休息は終いだ、彩華」




 ◇◆◇◆




 アイリスは彩華を伴い、再び街へと繰り出していた。残り少ないとはいえ外に放出するのではなく、内部に集中させる治療魔術の真似事なら今のアイリスにも容易だ。休息と情報整理に部屋で費やした二時間と合わせれば万全とはいかないまでも肉体自体はそれに近い状態にまで回復させられる。


「詠歌君の居場所が分かるんですかっ?」

「あの戦いで使い魔の維持も出来なくなったが、それよりも先に使い魔の一つが消えた。首なしの仕業と考えるのが自然だろう」


 彩華を抱えて駆ける事はせず、あくまで悠々とした調子でアイリスは街を往く。実際には辿り着くまでに肉体を回復させる為だが、それを明かす事はしない。隠す必要はないとはいえ、アイリスは基本的に見栄っ張りである。それは彩華も、虚勢の下の顔を知る詠歌相手でも変わらない。

 夕刻とはいえ、中央区の人通りの多さに鬱陶しそうに顔を顰めながら進んでいく。


「私も一緒でいいんですか? 勿論、アイネちゃんの事をお願いしたのは私です。でも私は足手纏いになるだけじゃ……」

「自分の立場を良く理解しているな。どこぞの勇士とは大違いだ」


 悪態を吐いてもそれに言い返す声はない。だから連れ戻すのだ。

 そんなアイリスが彩華を伴ったのは今度こそ奪わせないという意思の表れだが、それだけではない。


「あの首なし、黒騎士が詠歌を攫ったのはあの小娘の命令だろう。詠歌を狙ったのか、お前でも良かったのかは分からんがな。どちらにせよ私を敵に回すつもりでしたのには違いあるまい。狂信者――今の背信者と同じでな」

「ならどうして最初に嘘を……? あの時、アイネちゃんが居たとはいえ結界も張って、戦う準備自体は整っていたのに」


 黒騎士を使い、アイリスを襲ったのは自らの結界の外、アイリスの張った結界は自身の力を高めるものではないが、相手の土俵には違いない。あの夜、アイネが寝返る可能性を考えて嘘を吐いたのなら、黒騎士単騎で敵の土俵に飛び込ませるというのは同じくリスクが高いはずだ。

 そんな疑問にアイリスは言っていなかったか、と今更になって気付く。


対攻神話プレデター・ロアは異教の神話を侵す。生き物でいう本能に近い所でそういうものなのだ。背信者は命令で動いてこそいたが、最後にはその本能のままに私を狙った。『クタニド』とやらが私やシグルズ相手に動かなかった理由は知らんが、そういう神なのだろう?」


 以前、彩華が語った『クタニド』は対攻神話プレデター・ロアの中でも異彩を放つ善神。ならばそういう例外もあるのだろう、とアイリスは深く考えない。元より教団どころか対攻神話プレデター・ロアにも興味はなかった。


「何故、私を直接狙わなかったのかは知らんが、あの小娘もそんな対攻神話プレデター・ロアに当てられたのだろうさ。まるで寄生虫だな」


 宿主を見定めて内部に潜り込み、泳ぐ事の叶わない身で川へと身を投げさせる寄生虫と同じ。

 それは天上の勇者エインヘリアルも変わらない、対攻神話プレデター・ロアの信奉者と違うのはその身に終わりが存在せず、成長出来るというだけ。アイリスが地上へと堕ちる直前にはそのほとんどが一人では敵わずともアイリスを一度は殺した経験を経ていた。

 だが永遠の繰り返し、その始まりでは誰もがアイリスの前に膝を着き、荒野一面の骸を晒していた事を覚えている。


「ならあの小娘も哀れな犠牲者なのではないか、そんな顔だな」

「あっ、いえ……はい」


 彩華は慌てたように首を振ったが、観念したように頷く。アイリスの言った通りの事を考えていたからだ。


「彩華。お前は賢く、善人だ。お前のその在り方は好ましい」

「ありがとう、ございます」

「だからこそお前は選択しなければならん。戻れる今の内にな」

「それは……これ以上対攻神話プレデター・ロアやエリュンヒルテ様たち、北欧神話に深く関わる前に、エリュンヒルテ様や詠歌君と縁を切れということですか」


 既に自分が関わっているのがどれだけ危険な世界であるのか、彩華は思い知った。『非科学現象証明委員会』の会長、そんな肩書で踏み入っていい世界ではない事は分かっている。そんな覚悟ではこの先、もっと危険な目に合い、ともすれば命を落とすかもしれない。

 身を案じての言葉なのだろう、と知りながら敢えて聞き返す。否定してほしかった、アイリスや詠歌に必要とされていたかったからだ。


「そうだ。だが違う」

「……?」


 願い空しく、アイリスは肯定したが、同時に矛盾を残す。どういう意味か、真意を尋ねると、アイリスは口内の牙を晒して笑みを浮かべる。


「私がお前を手放したくなくなる前に、だ」

「……!」


 自分の武器が智慧である事を自覚し、同時に戦う術を持たない無力さを自覚している彩華にとって、それは何物にも勝る言葉だった。

 アイリスが勇士として詠歌を欲したように、自分の事も認めるばかりか欲してくれている。返す言葉は決まっていた。


「なら私は――」

「いやぁ良い話だ!」


 彩華の宣言を遮る声。それは唐突に、アイリスとその後ろを歩く彩華の間に割って入った男のものだ。

 ニコニコと人当たりの良い人を馬鹿にした笑みを浮かべる少年が脈絡もなく登場した。


「!」


 人通りが多いこの道で人にぶつからないように歩く以上、人の気配には気を配っていた。けれど彩華はその少年の接近に全く気付けず、その胸に当たり尻もちを着く。

 背丈はおよそ160センチ程、見た目だけなら中高生程度の純朴そうな黒髪の少年だが、彩華がぶつかってもその体はびくともしなかった。


「おい貴様」


 アイリスの冷めた声が少年の向こうから聞こえる。少年が壁となり見えないが、その声音だけでどんな表情を浮かべているか想像するのは容易かった。

 彩華の想像した通りの表情だったのだろう、振り向いた少年は大げさな手ぶりで両手を上げる。


「落ち着いてくださいよ、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアさん。僕は怪しくはあっても敵じゃありません。むしろこんな怪しい敵がいるでしょうか?」


 少年の言動にアイリスの苛立ちが高まり、彩華にも感じられる程に溢れている。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアとアイリスを呼んだ以上、一般人でない事は明らかだが街中で騒ぎになるのはまずい、と周囲を見渡す。しかし道行く人々は立ち止まる三人を迷惑そうに見るだけだ。

 その様子に彩華が気付く。結界ではない、アイリスの剣呑な雰囲気を人目から隠しているのは少年の立ち振る舞いによる技術なのだと。


「丁度同じような台詞を吐いた者がいてな。次に会った時は捻り潰すと決めている」

「あーらら! それはアレでしょ? うちのバートレットでしょう? いやぁ失礼しました!」


 たとえ周囲に漏れ出ていなくとも、アイリスの怒気は本物だ。それを正面から向けられても少年は表情を変える事はない。


「僕らとしてもアレには困り果ててるんですよ。僕たち『審問会』は教団の自浄機関だっていうのに! よそ様の神話にご迷惑をお掛けするなんて!」

「君も『審問会』……」


 アイネを連れ去った少女の仲間。アイリスたちは初めてユーリの呼び名を知る。

 口振りではユーリの行動は意図したものではないように聞こえるが、だからといってすぐに心を許せるはずもない。

 再度振り向いて差し出された手は取らずに彩華が立ち上がり、疑いの目を少年へ向けた。


「警戒は尤も! 確かに僕は敵ではなくとも味方でもない。そればかりはどうしようもない事です。だからまぁ、仲良くしましょうとは言いませんとも」


 手を拒絶された事を気にした風もなく、少年は語りを続ける。


「けど今回はこちらの落ち度。だからこうして僕が『審問会』を代表してお詫びに参上した次第で」

「失せろ」


 短く言い捨て、取り付く島もないアイリスに苦笑しながらも少年は黙る事はしない。


「要するに僕が責任を持ってバートレットを処断して、その首を献上します。それをのんびり待っててくれません?」

「彩華」


 発していた怒気を抑え、彩華の名を呼ぶと顎で先を指す。相手にするのも馬鹿らしいといった様子だった。

 少年を無視するのは気が引けたが、確かに構っている暇はない。一刻も早く詠歌とアイネを取り戻さなくてはならないのだから。


「ちょっとー! 待ってくださいよー!」


 両手をメガホン代わりに遠退いて行く背に叫ぶ。

 処断に献上、出て来た単語に後ろ髪が引かれるが彩華も振り向かなかった。

 ただ小走りで追いついたアイリスに尋ねる。


「良いんですか……? エリュンヒルテ様の話の通りなら、あの子もエリュンヒルテ様を狙うんじゃ……」

「奴からは以前の背信者やあの小娘のような濃い気配は感じない。神を連れていないのなら捨て置く」


 『クタニド』派の司祭、サエキと同じで単なる信奉者止まり。きっかけはどうあれ、サエキは野心によってアイリスを狙っただけでそこに神の思惑はなかった。あったとしてもサエキの行動はその外だろう。


「酷いなあ、確かに僕には神そのものは憑いていませんが、それでも祝福と加護は受けているのに」


 立ち止まらなかった二人を追いかけ、交差点の手前で少年は当然のように会話に入って来る。それを無視して進むが、少年はめげる事無く話続けた。


「本当の所、あなたにお伺いを立てる必要はないんですよ。聞く所によるとあなたは追放されたはぐれ者で、あなたを敵に回す事と北欧神話そのものを敵に回す事はイコールじゃないみたいですし。けどこうして話をしに来たのはそれが礼儀かなーと思っての事でして」

「……」


 明らかな挑発を含んだ言葉も無視する。本来なら八つ裂きにする所だが、そんな場合ではない。

 わざわざ攫ったのなら詠歌やアイネがすぐに殺される事はないだろうが、教団の『審問会』のする審問がどのようなものなのか、想像するのは容易い。

 攫った理由は不明だが、そもそも詠歌が知り得る情報など大したものはない。たとえ吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの真実を知られた所で何が変わる訳でもないのだ。

 まさか個人的な興味だけで危険を冒す程、愚かではないだろう。組織の一員であるなら尚更だ。そう思っていたが独断専行と神の思惑が重なったのであれば、納得も出来る。


「それに今のあなたにバートレットをどうこう出来ます? 見た感じ、一度手酷くやられてますよねぇ?」


 マントの内側、シャツの下に包帯が巻かれている事を看破し、少年は嫌らしい笑みを浮かべた。


「あ、ムカつきました? 苛立ちました? でも無視するだけ。それはやっぱり無駄な体力を使いたくないからでしょ?」


 少年の言葉は当たっている。黒騎士との戦いは全力ではなかったとはいえ、敗北を喫した。

 油断はなかった。だが無駄な力を使うわけにはいかなかったのだ。アイリスを真に狙うのは対攻神話プレデター・ロアではなく、北欧の戦乙女ヴァルキュリア勇者エインヘリアルたちなのだから。時間的猶予の生まれた今の内に力を回復しておく必要があった。

 だが二度目はない。黒騎士を本気で叩き潰す。その為にはまず受けた傷を癒しておかなければならない。少年の相手をする余裕も慢心も今はない。

 それはアイリスも分かっている。天上に居た頃のようにただ闘争本能に従うだけではすぐ立ち行かなくなる事を理解している。


「だから任せてくれません? 頼りにならないあなたの勇士に代わって、この僕に。ああほら、何だったら目的地は一緒ですし、一緒に行って指をくわえて見ててくれればそれでもいいですよ」


 理解して尚、止まれない事もある。


「それにしても我が神の気まぐれには困ったものです。捨てる神あれば拾う神ありとは言いますが、今回は完全にマッチポンプですしぃ」

「黙れ」


 発した声は冷淡なものだった。浮かび続けていた少年の笑みが凍る程には。

 立ち止まり、少年を見るアイリスの目は氷のように冷たい。


「何処まで貴様が知っているかはどうでもいい。たとえ十を知ろうと、貴様に我が勇士を語られる謂れはない」


 怒気を通り越し、殺気となって溢れ出たアイリスの感情は少年の技術を以ても、隠し通す事は出来ない程だった。

 しかしそれは騒ぎを引き起こす事を許さない。周囲の人間たちの、動物としての人間の本能が騒ぎ立てず、ただ迅速にこの場を離れる事を訴え、それに従ったからだ。

 少年のような技術も魔術も必要ない。戦乙女ヴァルキュリアがその神聖さから余人が触れる事を躊躇うように、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの悪性が人々を厭わせた。


戦乙女ヴァルキュリア共が求める最強でも、最優でも、最良の勇士でもないだろう。だが私が唯一と定めた、天上天下にただ一人の我が勇士だ」


 人気の消えた交差点の真ん中、アイリスの声は遮る物なく少年へと届く。その言葉に含まれる明確な怒りと共に。


「それ以上口を開くのなら、貴様の手足をねじ切り、すり潰し、喋る事しか出来ん体にして曝してやる」


 少年は凍り付いた笑みのまま、両手を上げて後退した。それを見て今度こそ、アイリスと彩華は立ち止まる事も振り返る事もなく、交差点を渡り切り、夕刻の街に消えていった。

 脅威が消え、少年は大きく脱力する。額には汗が浮いていた。


「調子にのりやがって、まあ、異教徒風情が……!」


 街中に喧騒が戻って来た事に気付き、すぐに変化した表情を笑顔に戻すと騒ぎになる前に何でもない風を装うと、自身の目的の為に少年も姿を消す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る