薄暗い屋内に女の荒い息遣いが響く。


「はっ、はっ……」


 額に汗を、瞳に涙を浮かべ、それでも十字架に磔にされたアイネは己を甚振る少女を睨みつけた。


「まさに異端審問だな……我らの教えは世に語られる神の教えで救われぬ人々の為に、司祭様はそう語っていたというのに。そんな愚かな歴史を繰り返すとは」


 対する少女は何も言わず、パチンと指を鳴らした。ただそれだけでアイネの苦痛は強まる。


「うぐっ、ぐぅぅぅぅ!」


 アイネの体に外傷はない。ただ触手によって十字架に拘束されているだけだ。しかし拷問に掛けられているように、苦痛は止まらない。


「……魔術による幻影、人の精神を犯す審問。肉体を傷つけず、精神だけを踏み躙る……お前たちが忌避されるわけだ」


 今もアイネの肉体はまるで火刑に処されているかのように熱を持ち、幻の業火が精神を疲弊させていく。

 世の影に潜む教団であっても、人が死ねばそれを隠し通す事は困難だ。法治国家であるこの国で一人であっても人間の死、その真相は暴かれなければならない事柄である。

 それでも尚、教団の存在が明るみに出ていないのは彼女のような存在が居るからだ。人の死を隠すのではなく、そもそも起こさない。精神を破壊し、生きた屍とする。

 無論、それだけではない。アイネの知らない教団の暗部にはそれよりも凄惨な行いをしている者たちも居る。


「たとえ邪教とされていても、それでも救われた者は居る……私もそうだ」


 だからこそ、アイネは己を救いたもうた司祭と『クタニド』に忠誠と祈りを捧げていた。……盲目であった事を認めよう。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが言ったように、アイネには見えていなかったものはあった。


「だがお前の行いは、おぞましい悪そのものだ……!」


 それが今、目の前で牙を向いている。目を逸らして来た邪悪がアイネを呑み込もうとしている。


「はぁ、やっぱり吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアや異教の勇者と関わってあなたは変わってしまったんですね」


 困ったように溜め息を吐き、ユーリはアイネに近づくとその顔を見上げた。


「かつてはその身に神を宿し、皆を導く存在になるはずだったあなたはもう居ない……ああ、なんて悲しい事でしょう」


 大仰に胸に手を当て、世を嘆く様にユーリは言う。同胞の堕落に痛む心に耐えるように。


「こうして改心の機会を与えられても、それを拒むなんて。再び祈りを捧げる事を拒むなんて!」

「たとえ心を壊そうと、奪う事など出来はしない。それが神であってもだ……」

「そうですか」


 アイネの拒絶をあっさりと受け入れ、ユーリは遊びに飽きたようにわざとらしい演技をやめた。けれどそれはこの審問――拷問の終わりを意味しない。


「では今度はさらに深く尋ねましょう。あなたの心に、じっくりじわじわと……拷問いましょう」

「があああああああああ!?」


 業火が収まった後にアイネを襲ったのは痛みとなった電流だ。まるで電気椅子に掛けられたかのように、意志に反して拘束された体が痙攣する。血液が沸騰したような錯覚に襲われ、肉の焼ける臭いが全身から漂う。

 それが幻覚だと頭で分かっていても逃れる事は出来ない。この廃屋は既にユーリの領域、アイネの現実はユーリの幻覚に完全に犯されている。


「あぐっ、ぎ……っ!」

「考えて下さい。異教の神々に見捨てられ、我らの神々にも見捨てられて、何処に救いがあるんです? 確かにわたしたち審問会は疑わしきを罰す、けれどわたしはこうして拷問う。あなたたちは本当に異端へと落ちたのですか、と。それはあなたたちを信じているからです。本当はそんなつもりじゃないんでしょう? 神様への信仰は今もあるのでしょう?」


 ユーリが両手を前に出すとそれに引きずられるように拘束が解け、痙攣を続けるアイネの両手も動く。

 その手を組み、胸へと抱く祈りの形。アイネの体は苦痛の表情と裏腹に、真摯な祈りを捧げ始める。


「ですから祈るのです。ああ、神よ、どうか我らの無実を証明してください、と。そうすればきっと、神様は応えて下さる。救いを与えて下さる」


 アイネの嗚咽交じりの叫びを賛美歌に、ユーリの祈りは彼女の信じる神に向けて続く。


「おまっ、えの……ような!」


 この領域ではもう、アイネに幻覚を破る事は出来ない。しかし幻覚であるが故に、気力によって抵抗する事は出来る。少なくともまだ、アイネにはその気力が残っている。

 司祭を失い、信仰を失くし、無気力であったアイネだが、その芯は今も変わらない。信頼する司祭も信仰していた『クタニド』もアイネという人間の芯を支えていた。それを失った今でも、その芯は折れてはいない。

 この状況において、それを自覚する。ああ、そうだ、と。


「お前のような子供に……! こんな真似をさせる神に! 祈る事などないっ!」

 

 閉じられた心の扉、その奥に仕舞い込まれていたモノに光が差す。忘れていた願いを思い出す。

 司祭であったサエキは決して善人ではなかったのかもしれない。自らの内に宿った神性を利用する為だったのかもしれない。けれどそれに救われた。

 信仰を捧げていた『クタニド』に祈りは届いていなかったのかもしれない。この苦痛の内にあっても救いの手を差し伸べてはくれない。だがそれでも教えを示してくれていた。


「世の神に見捨てられた者たちに救いを! それが我らのあるべき姿だ!」


 それは久守詠歌が、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアにした事。

 それは天音彩華が、アイネ・ウルタールにした事。

 それこそが彼女がしたかった事で、成り立ちがどうであれ、教団の本来あるべき姿のはずだ。


「……ああ、そうですか」


 アイネを襲う電流が収まった。息も絶え絶えに、ユーリの様子を窺って、絶句する。


「本当にくだらない。対攻神話プレデター・ロアなんてものを信じておいて、そんな言葉を口にするなんて」


 そこにはより昏く深まった少女らしからぬ瞳があった。


「そんな聖女ぶった事を言うなら、聖女らしく凌辱の海に沈みなさい」


 ぞわぞわと背後の十字架が脈動するのを感じる。意思を持つ生き物のように、アイネの体を這い始めるのを感じる。


「祈りではなく、その肉体を神に捧げてください」


 そして、アイネの意識と肉体は闇に沈んだ。幻覚ではなく、非現実的な現実として。

 その最中で願う。差し伸べられた二人目の手、どうかその手がもう二度と自身に差し伸べられる事がないように、と。

 その手を拒んだ自身には相応しくないと。




 ◇◆◇◆




 無言のまま、何も言わず、何も聞かず、黙々と彩華はアイリスの手に包帯を巻きつける。

 公園から彩華のマンションに移動する事を提案した彩華に、アイリスは何も言わずに頷いた。今もされるがまま、彩華の介抱を受けている。


「エリュンヒルテ様、失礼しますね」


 マントを脱がすと中に着ていたどくろマーク入りのTシャツと過剰なまでに身につけられたチェーン状のシルバーアクセサリーが見える。以前、アイリスの好みに合わせて彩華が選んだものだ。それをめくれば、病的にも近い白い肌が露わになるが、腹部のほとんどが青白く、痛々しく変色していた。

 思わず顔を顰め、彩華は謝罪の言葉を口にする。


「……すいません」

「お前が責任を感じる事ではない。それにこの程度、大した傷ではない」


 消毒液のしみ込んだガーゼを押し当てながら目を伏せる彩華に、ようやくアイリスは口を開いた。決して重苦しいものではない、本心からの言葉に聞こえる。


「でも、私の我が儘にエリュンヒルテ様や詠歌君を巻き込んでしまった」

「お前が動かずとも、詠歌は動いていたさ。そうするように焚き付けたのは私だ」

「……それはアイネちゃんの為ですか?」


 呆れたように首を振り、アイリスは否定する。


「詠歌は私の認めた勇士だ。であればそうらしくあれ、そう思っただけだ」

「だから詠歌君が手を出した事に腹を立てたんですね」

「……」


 その言葉にアイリスの瞳が細まる。その様子に安心したように笑い、彩華は自らの立てた予想を述べた。


「以前出会ったシグルズと詠歌君。どちらも同じエインヘリアルと呼びながら、エリュンヒルテ様は明らかに二人を区別していました」

「当然だろう。戦乙女ヴァルキュリアの選んだ勇者と吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが選ぶ勇士ではな」


 一際腫れ上がる患部にガーゼが押し当てられ、アイリスの体がぴくりと動く。表情は変わらず冷ややかだが、それがやせ我慢である事は明らかだった。

 それを指摘する事はせず、彩華は治療を続ける。


「以前のシグルズや『ウルタールの猫』との戦いで詠歌君はそんなエリュンヒルテ様の期待に応える働きをしました。たとえシグルズが認めなくても、天上の戦乙女たちが認めなくても、勇士エインヘリアルと呼ばれるに相応しい活躍を」

「ふん、まだまだ頼りなくはあるがな。だがあのシグルズめの鼻を明かせたのはあいつが居てこそではあった」

「だからこそ、エリュンヒルテ様は」


 不敬かもしれませんが、と前置きし、彩華はそれを口にする。


「今度は自分が、そういうお気持ちだったのではありませんか?」

「……ほう?」


 手を止め、姿勢を正してアイリスの鋭くなった視線を受け止める。そんな視線に晒されても彩華に引く様子がない事を知ると、視線で先を促した。


「詠歌君は自分に相応しい活躍をしたように、今度は詠歌君に相応しい、その活躍に報いるようにと。……詠歌君を焚きつけてまで力を貸してくれたのは、その機会が巡って来たと思ったからでは?」

「……くだらん。言ったはずだ、我が身は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア。自らの意思に従うだけだと」


 アイリスは顔を背け、呆れたように肩を竦める。今朝、彩華たちに語った理由に偽りはない。


「ふん……」


 だが背けていても分かる、彩華のまるでそういう事にしたままでも構わない、とでも言いたげな視線。そんな生暖かい視線に晒され続ける事も、このまま彩華の善意に甘える事もアイリスのプライドは許さなかった。


「……詠歌から聞いたのか、私が天上でどういった存在であったのか」


 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに与えられていた役割。今となっては隠そうとしていたつもりもない。詠歌にそれを口止めする事もしなかった。


「え? いいえ、詠歌君からは何も……」


 しかし返って来たのは呆けたような返事だった。気を使って嘘を吐いている様子もない、本当に知らないのだろう。


「何……? ではどうしてそんな考えに及ぶのだっ」


 つまりは自爆したわけで、隠すつもりがないとはいえ好き好んで語りたい話でもない。動揺から言葉尻が上がっていた。


「ええと……見ていれば分かります、としか」

「なっ……!」


 アイリスの正体を知らずとも、彩華は最初からアイリスを尊敬していて、詠歌とも一年近くの付き合いを経ている。そんな詠歌がアイリスの為に叫んだ慟哭を聞いている。本人は隠しているつもりだろうが、最近になって色々な事を学び始めている事を知っている。詠歌がそうまでするならきっと、アイリスは自らが想像している通りの人柄だと、そう信じるには十分だった。


(どちらも中々素直になれないみたいだけど……)


 出会ってからずっと、彩華は姉のような心境で二人を見守っている。当人たちは気付かないだろうが。


「……まあ、いい。好きに取ればいい」


 プライドも大事だが体裁も大事である。これ以上話し合っても墓穴を掘るだけになりそうだと訂正を諦める。

 彩華の手から包帯を奪い取り、ぐるぐると乱雑に巻き付けていく。きつく縛ると傷が痛んだが、動けないほどではない。


「さて、癪ではあるがあの首なしにはしてやられた。単純な力だけならば天上にも並ぶ者はそうはいまい」

「あのシグルズでも、でしょうか?」

「力だけならな。対攻神話プレデター・ロアではない首なしでは奴の足元にも及ばん」


 アイリスはまくり上げたシャツを下げ、マントを羽織り、片膝を立てて壁に背を預けた。今はこれ以上、自分の事を語る時ではない。


「狂信者に続き、詠歌まで捕らえられた。ああ、認めよう。ともすればあのシグルズ以上に追い詰められているとな」

「……」


 彩華の表情が暗く沈む。状況は絶望的と言っても過言ではない。アイネも、詠歌も敵の手に落ち、助け出す力を持っているのは手負いの吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアだけ。ただの人間である彩華にはあの黒騎士を打倒する事は不可能だと痛いほどに分かっているからこそ。


「だからこそ、お前の智慧が必要だ」

「……はい!」


 けれど、そこで立ち止まるようならそもそもこの場には居ない。『ウルタールの猫』に、シグルズに、超常存在たちを前にした時点で日常へと逃げ帰っていただろう。


「首なしを見た時に言っていたな。改めて問う、アレは何だ?」

「外見的特徴に一致していたのは二つ。『デュラハン』、『スリーピー・ホロウ』。どちらも外国の一部で語られる民話、都市伝説の一種です」


 部屋に置かれた本棚から二冊の本を抜き取り、それぞれを開いてアイリスに差し出す。見開きで描かれたイメージ画にはどちらも首のない鎧騎士の姿がある。


「まず『デュラハン』。これは首と肉体が分かれた騎士の妖精で、人々に死を告げる存在だとされています」


 死を告げる、と聞いてアイリスの脳裏に過ぎるのは自身の神話に語られる運命の女神たちだ。主神オーディンに死を予言したとされる三姉妹、その内の一人はアイリス自身も知らない仲ではない。


「もう一つは『スリーピー・ホロウ』。これは首のない騎士の霊として語られています。元々は人間の兵士で、それが死して甦ったものだと」


 妖精と死霊。それで納得がいった。もしも神を冠する存在なら、聖剣の柄頭で殴りつけた時点でタダではすまなかっただろう。聖剣という鞘に納まっていても、その神殺しの特性は絶大なのだから。


「でも、どちらも人を取り込むなんて話は聞いた事がありません。それに詠歌君を捕らえた後には首が……」

「語られている事が全てではない。それは私を見て知っているだろう」


 イラストを指でなぞり、あの黒騎士の姿を思い浮かべる。外見だけ絞り込めなくとも、直接相対したからこそ分かる事もある。


「……あの時聞こえた、全てを憎んだような声。あれが首を落とされて、それを探して彷徨う怨霊の声だとしたら……」

「『スリーピー・ホロウ』、か。死した後も対攻神話プレデター・ロアに利用され、海を渡りこの地に至る。成程、底知れぬ怒りと憎悪を抱えていても不思議はない」

「詠歌君……」


 もしも取り込まれた詠歌がその憎悪に晒されていたとしたら、そんな悲観が彩華を襲う。詠歌がアイリスの言う通り勇士に相応しい人物だと信じている、けれど同時に心優しい、普通の青年である事を良く知っているのだ。


「心配するな、とは言わん。心とは脆いものだ、ただの人の子なら尚更な。だから心配し、信じていろ。それしか出来んと嘆く必要はない」


 アイリスの言葉は決して慰めの言葉ではない。何故ならその尊さを知っている。


「絶望の中で差し伸べられるものというのは、存外に輝く救いとなるものだ。たとえそのつもりがなくともな」


 それは実感の籠った、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの本心だった。

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