その異変はシグルズの目には唐突に映った。


『GAAAAAAAAA!?』


 詠歌を呑み込み、異教の聖剣すらも取り込み、今まさに己を喰らわんと肉体が沈み込んでいく最中、『ウルタールの猫』の肉体が爆ぜた。


「な、に……?」


 爆ぜた腹部から伸びる、聖剣を掴む腕。まさか、とシグルズが驚愕する。

 対攻神話プレデター・ロアに呑まれるという事は単純な物理法則から外れる事を意味する。全てを捕食し、侵す。それが対攻神話プレデター・ロアの特性。一度吞まれれば対抗する術はない。それはどんな強大な存在であっても同じ、だからこそ主神すらも対攻神話プレデター・ロアを危惧していた。その成長を促さぬよう、接触を禁じていた。

 ならば何故、聖剣を掴む事が出来る? ならばどうして、シグルズを以てしてもあらがえぬ対攻神話プレデター・ロアから彼女たちが抜け出せるのだと。


「ふはははははっ! 随分と良い格好だな、シグルズ!」


 シグルズの驚愕を他所に彼女は脱出を果たした。自らが認めた、聖剣を携えた勇士と共に。


「はああああっ!」


 アイリスに抱えられ上空へと脱し、其処から『ウルタールの猫』の尾を切断せんと詠歌は自ら離れ、落下しながら聖剣を振り下ろした。

 今までとは違う、現実から目を背ける為の叫びではない。目の前の現実を、打倒すべき『ウルタールの猫』を正面から見据えた雄叫び。


「っ!」


 確かに聖剣の刃は尾を捉えたが、両断には至らない。尾に食い込み、暴れる『ウルタールの猫』に振り落とされ、詠歌は宙を舞う。


「まったく、何の策もなく飛び出すとはな」

「君だって、結局何の手立てもなくて脱出出来たのは偶然じゃないか」


 地面へと叩きつけられる直前、再びアイリスが詠歌を抱えて『ウルタールの猫』の足元から飛び出す。互いに互いの無策を笑いながら、二人は呆然と座り込んでいた彩華の前に着地した。


「え、詠歌君! エリュンヒルテ様!」

「すいません。心配をかけました、会長。それとみっともない所を見せました」

「そんなのいい! 君が無事なら、それだけで……!」


 涙を浮かべ、二人の無事を喜ぶ彩華だが、依然として窮地には違いない。


「やっぱりこの聖剣はもう通じそうにない。アイリス、君が使えばどうにか出来る?」

「聖剣を振るうのは単純な腕力だけではない。お前で無理なら、私でも同様だろうさ」


 打つ手のない最悪な状況にあって、二人に恐怖も諦めもない。詠歌もアイリスも自らが出来る事を探して思考を続けている。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア! 彼らを連れて逃げろ!」

「何?」

「お前も彼らを死なせたくはないのだろう! オレたちとお前は決して相容れる事はない、だがその願いは共通のはずだ!」


 何処までも勇者らしい彼の願いを断ったのはアイリスではなく、詠歌だった。


「断る! あんたに借りを作ったままなのは御免だ!」

「だ、そうだぞ?」

「今度こそ終わらせる、貸し借り全部を清算して、僕はまた生きる! その為にも此処で逃げるなんて出来ない!」


 シグルズの表情が歪む。どうして分かってくれないのか、と。彼は平和を望む勇者エインヘリヤル、本当は誰も争いに巻き込みたくなどない。


「……ならば! 必ず守りぬけ、自らが選んだものを!」


 それに答えるのはアイリスだ。浮かぶ笑みは嘲笑ではない。彼女はシグルズに対して決して消える事のない、魂にまで刻み込まれた恐怖を抱いている。だが憎悪はない。彼女も数多の勇者エインヘリヤルたちに自身の恐怖を刻み込んで来たのだから。それは歓喜の笑み。詠歌という自らが選んだ勇士、その姿を刻み込む事が出来る。その事実が彼女に笑みを浮かばせる。


「お前は其処で見ているがいい! 我らが新たに紡ぐ神話の一篇を!」

『GOAAAAAAAAAAA!』


 その言葉がシグルズに届いたかは分からない。『ウルタールの猫』の咆哮が結界の内部を震わせ、根源的な恐怖を呼び覚まさせるのと同時に完全に『ウルタールの猫』の中へと呑み込まれた。


「……少なくとも聖剣のおかげで僕たちは脱出できた。何処かに聖剣が通じる弱点みたいなものがあるはずだ」

「虱潰しか。であればまずはあの巨体を繋がねばな」


 聖剣を持つ詠歌、恐怖を耐え続けて来たアイリスはそれには屈しない。ただ一人、彩華だけがどうしてもその恐怖に抗えない。立ち向かう術も立ち向かう気力も、今の彩華にはない。


「会長、もう少しだけ我慢してください。……アイネもきっと、助けます」


 僅かに躊躇い、それでも詠歌はそう口にした。責任など持てない。今までならば決して口にはしなかった言葉。それでも今は言うべきだと感じた。彩華の為に、そして自分が向き合う為にも。


「僕は勇士なんて柄じゃないです……でも今は、そうありたい」


 それで聖剣が輝くならば、それでこの状況を打破出来るなら。自分に出来るのなら。


「ま、待ってくれ……! 一つだけ、聞いてくれ!」


 そんな詠歌の姿に、彩華も己を奮わせる。自身の無力さは分かっている、だが少しでも二人の力になれればと。


「確証なんてない……私得意の妄想かもしれない!」


 恐怖に怯えながら、必死に彩華は言葉を探す。


「言え、彩華。神話においても輝ける人の知恵を披露すると、お前が言ったんだ」


 尾から伸びる触手をマントから伸ばした鎖で弾き落としながら、アイリスは彩華を促した。


「大丈夫です、会長は絶対に守ります。だから落ち着いて、いつものように、会長の言葉で言って下さい」


 詠歌は膝を着き、彩華の手を握る。彩華が伝えたい事を伝え終わるまで、アイリスがそれを邪魔させる事はしないと信じて。


「詠歌君が呑み込まれた後、『ウルタールの猫』は聖剣まで取り込もうとした……でも出来なかったっ。ずっと考えていたんだ、主神オーディンが恐れたという異教の聖剣、それが何なのか!」


 アイリスによって詠歌に齎された名もない聖剣。アイリスは興味をなくし、詠歌もそれが何なのか知りようがないと諦めていた。だがただ一人、彩華だけはそれを探し続けていた。知恵こそが最大の武器になるとそう信じて。


「膨大な聖剣の中には神すら殺した物もある、それなら北欧の主神が恐れるに値するだろう、でもそこから絞り込む事が出来なかったっ、だけど確かに見たんだ!」


 シグルズですら見逃したその瞬間を、彩華は恐怖に支配されながらも見逃さなかった。せめてこの光景を目に焼き付けなければ、と決して目を逸らさなかった。それが今、実を結ぶ。


「『ウルタールの猫』は聖剣じゃない、そのつかに触れた瞬間にはじけた!」

「柄……?」


 彩華の言葉に聖剣を見るが、その柄はシグルズのグラムのように宝玉が埋められているわけでもなく、煌びやかな装飾が成されているわけでもない。


「『ウルタールの猫』が、神が触れる事の出来ない柄、エリュンヒルテ様が本来扱えないはずの聖剣を扱えた理由は其処しかない! 北欧の主神が恐れたのは聖剣そのものじゃない、そこに埋め込まれた槍の穂先なんだ!」


 それはかつて彩華が語った物語の一つ。世界に散らばる無数の英雄譚の一つ。


「後の信徒が用いた槍、それは救世主の復活の為の祝福された聖槍! だけど異教の者が持てばそれはまさに神の血に染まった魔の槍だ! だから聖剣の特性を持ちながら、エリュンヒルテ様にも扱えた!」


 それは十二の勇士の物語において、それを従えた王の剣。歴史において欧州の父とも語られる大帝のつるぎ


「カロリングに語られた陽の象徴! 君も知っているはずだ、詠歌君!」


 知っている。覚えている。その剣のを。


「……ありがとうございます、会長。これで活路が開けた」

「で、でも確証は……」

「十分です」


 詠歌は微笑み、アイリスに並ぶと聖剣を逆手に持ち替え、その柄頭をアイリスに差し出す。


「抜いてくれ、アイリス」

「ほう、聖剣では奴には通じぬ、お前が持っているべきだと思うが?」

「……勇士に魔槍なんて、似合わないだろ」


 視線を逸らしながらの詠歌の発言に、アイリスは笑みを深めた。

 迫る触手の一切を鎖で絡めとり、叩き伏せる。そして差し出された柄に手を添えた。


「陽の象徴。我が勇士に相応しい剣だ。地上へと堕ちた私に陽が沈む事はもうないのだからな」


 聖剣の柄からアイリスの手によってその槍が抜き放たれる。埋め込まれていた槍、その穂先を中心にアイリスの魔力が槍を編んでいく。

 同時に異教の手に堕ち、燻らせていたその輝きに眩い光が甦る。

 自在に色彩を変じさせるというその輝きの色を詠歌は選択した。


「ジュワイユーズ」


 詠歌の呼び掛けに応え、ジュワイユーズの輝きが変わる。それは紅と黒。あの夜見た、そして深淵の中で感じた、彼女の色と同じ。


「お前の決断、見届けた。やはりお前は私の勇士だ」


 魔槍を携え、そこから生じる魔力に包まれながらアイリスは歓喜に震える。力にではない、傍らに立つ勇士の輝きに。


「聞こえるか、天上の戦乙女ヴァルキュリア! 見えているか、正義を謳う勇者エインヘリヤル! 貴様らが声高に叫ぶ愛や正義など私の知る所ではない! だが今! この身を動かすものはなんだ! この内から溢れ出る感情を貴様らは何とする!」


 解き放たれた魔槍と聖剣に『ウルタールの猫』が警戒の唸り声を上げた。


「全てを喰らう対攻神話プレデター・ロア、貴様には分かるか? いいや分かるまい! 神でありながら善悪を弁えぬ貴様には決して!」


 それは違うと『ウルタールの猫』の本能が告げる。己が警戒すべきは槍でも剣でもない。


「我が身は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア、生まれついての悪性なれば! 我が為す事全て、須らく悪である!」


 それを持つ者たちをこそ警戒しなければならない、だが理性を失くした獣には不可能だ。『ウルタールの猫』を支配するのは全てを喰らわんとする捕食者の本能だけ。全てを喰らえば終わりだという決断しか『ウルタールの猫』には下せない。


「貴様が全てを喰らうというのなら、我が悪意を受け止めてみせるがいい!」


 それはアイリス自身にも決して理解出来ないもの。悪性として生まれたが故に、その感情は悪意という一点に終結する。

 だから気付けない。自らに生まれ、己の勇士へと向けられた悪意あいに。それは勇士にも伝わらず、しかし彼女の心を高ぶらせる。

 地上において、かつての煌めきを呼び起こさせる程に。


「――煌鎧装臨ブレイク・アップ


 オーロラを思わせる神秘の輝きと共にアイリスの姿が一変する。

 紅と黒の光の中でアイリスを包むマントが裂けた――否、それは翼の羽ばたき。

 思わず目を覆ってしまう風圧が収まった後、漆黒の羽根が降り注ぐ中でアイリスは煌めく鎧に包まれていた。

 戦乙女ヴァルキュリアにはない紅と黒。鎧というよりは拘束衣のようにも見えるが、自由を象徴するかのように背には二対の翼が広がっている。

 それが吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの戦装束。


『GAAAAAAAAAA!!』


 たとえどんな姿に変じようと『ウルタールの猫』が取る行動は捕食以外にはない。尾だけでなく全身から深淵へと繋がる触手を生み出し、視界に入る生命全てを呑み込まんと捕食行動を再開する。


「詠歌!」

「アイリス!」


 彼らは同時に互いの名を呼び、示し合わしたかのように一人は翼を、一人は足を動かした。


「この剣は地上の太陽、全てを照らす陽の象徴。深淵すらも輝かす光の聖剣」


 聖剣の持つ機能なのか、詠歌には自らがすべき事が見えていた。


「はあッ!」


 神殺しの魔槍、それを抜き放たれた聖剣に陰りはない。触手に触れるまでもなく、ただの一振りでそれら全てを蒸発させるように霧散させた。


「光届かぬ深淵などただの終着、真なる闇とは無ではない。光を背負い、その輝きに陰りを落とす影こそが世界を覆う闇と知れ!」


 跳躍ではなく飛翔。闊歩ではなく飛行。漆黒の翼をはためかせ、聖剣の輝きに影を落とす軌跡。

 見下ろす者と見上げる者は逆転し、彼我の距離は無間となる。魔槍を携えたアイリスが『ウルタールの猫』の鼻先にまで迫り、己を直接喰らわんと開いた顎、それを閉じるように槍を突き刺した。


『GAAAAAAAAAA!?』


 反応は明確だった。不完全な聖剣では断ち切る事すら出来なかったその皮膚を突き破り、ボロボロと剥がれ落ちるようにその黒い毛皮が崩れていく。

 体勢を崩し、『ウルタールの猫』は地面へとその巨体を伏した。そしてアイリスが出現させた魔法陣が四肢を押さえつける。

 しかしそれは拘束の為ではない、それは道だ。自らの勇士の為に誂えた新たな結末へと至る道。


(シグルズ、僕はあなたのような正しさは持ってない)


 深淵の瞳を見つめながら、詠歌は駆ける。


(アイリス、僕は君みたいな強さを持ってない)


 戸惑い、躊躇い、後悔。負の感情がその足を止めようと内から溢れ出て、それでも止まらず一直線に自らの足で駆ける。


「それでも今!」


 階段状に出現した魔法陣、その一歩を踏みしめながら、詠歌は聖剣を振り上げた。


(たとえ強くなくとも、たとえ正しくなくとも。何度も否定を重ねても、それでも君がそう呼ぶのなら、僕の負けだ)


 この瞬間、彼女が紡ぐ神話において、詠歌はただ一人の。


「僕は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア勇士エインヘリアルだッ!」


 振り下ろされた聖剣は焔を上げ、一切の抵抗を許さず『ウルタールの猫』の尾を切断した。


『GAAAAAAAAAA!!』


 本体から離れた尾はジュワイユーズの輝きによって一瞬で消え、取り込まれていたシグルズが姿を現す。


「邪魔をするなよ、シグルズ! 我らの神話において貴様は端役に過ぎん!」


 詠歌によって抱え起こされたシグルズに釘を刺し、アイリスは黒羽を散らしながら舞い上がり、『ウルタールの猫』へと影を落とす。

 今、彼女の背に走るのはぞくぞくとした高揚。あの夜から、いや天上においてもいつからか待ち望んでいた言葉。

 己の悪意の赴くまま、アイリスは天空に魔法陣を描く。結末に相応しく、後々まで語られるようにと。


「見るがいい、天より堕ちし極光が大地を震わし世界に刻む! いずれ終極へと至る前奏、我が神殺しを!」


 天空に描かれた魔法陣、其処から『ウルタールの猫』を結ぶようにさらに無数の魔法陣が重なっていく。


「神の血に濡れた魔槍よ、お前には貪欲なる主神オーディンと我が夜を示す呼び名ケニングをくれてやる」


 右手に携えた槍が弓を引く様に引き絞られる。あの天の裂目で自らを堕としたブリュンヒルテのように。


「――天穿て、夜影の禍槍ヴェルエノート!」


 そして放たれる、アイリスによって新たな呼び名ケニングを得た魔槍。魔法陣を突き破る毎にその速度を増し、再び神を穿たんとその穂先が紅く輝く。


「叫喚を以て我が邪曲を彩れ、狂信すら忘れた愚鈍の獣!」

『GOAAAAAAAAAAAA!』


 耳を塞ぎたくなる醜悪な断末魔。『ウルタールの猫』の額から切断された尾までを一瞬で貫通した夜影の禍槍ヴェルエノートは地面を穿ち、その衝撃の余波が結界を揺らす。


「っ……! やりすぎだっ!?」

「きゃ……!」


 思わず悪態を吐きながら、詠歌は地面に突き立てたジュワイユーズを支えに、彩華は地面に這い蹲るようにして耐える。シグルズただ一人が最後までアイリスと消滅していく『ウルタールの猫』を見つめている。

 光を以て深淵を掻き消すのではない、闇を用い深淵すらも塗り潰すアイリスの一撃。『ウルタールの猫』の原型は残らず、破片のように僅かばかりの黒い残滓が地面のシミとなり、それも消えていく。


「……アイネちゃん!」


 唯一残った人影に気付いたのは彩華だった。穿たれ、クレーターとなった地面に横たわる一人の女。人ならざる耳も尾もない、ただの人。アイネ・ウルタールが其処には居た。


「ふん、我が手を離れればまさしく神の聖槍か。聖魔を行き来する蝙蝠と見れば成程、私に相応しい」


 紅の輝きを失い、しかし聖なる祝福の輝きを放つ槍を見下ろし、それを回収する事もなくアイリスは詠歌の下に降り立つ。


「回収しておけ、あの槍とその聖剣は互いにとって鞘なのだ。抜き身のまま持てば余計な物まで引き寄せるぞ」

「ああ……でも今は、近づけないかな」


 抱き起こしたアイネに必死に呼びかける彩華。『ウルタールの猫』と同化していたならば彼女も無事ではいられないはずだが、心配はなかった。本来、あの槍は異教の救世主に触れた奇跡の槍。それが貫く物を選ばないはずもない、そんな確信があった。それも聖剣が教えてくれたのかは分からない。


(ただ……君が齎した結末はそういうものだと、信じたい)


 そしてもう一つの結末は自身が齎す。そう決断し、詠歌は背後のシグルズに振り向いた。


「今度こそ対攻神話プレデター・ロア、『ウルタールの猫』は消滅した。あなたが斬ろうとしたアイリスの手で」

「……そのようだな」


 最初にシグルズと相対した時のように近づくアイリスを手で制し、詠歌は口を開く。


「シグルズ、北欧の勇者エインヘリヤル、誇り高く、強く正しいあなたに訊きたい。あなたの正義は今もアイリスを認めないのか」

「その前にオレからもお前たちに尋ねよう。少年、真に聖剣を抜き、戦う力を得た者よ。君はその力を誇れるか?」


 その問いに聖剣に目を落とす。紅と黒、聖剣に似つかわしくない輝きを放つそれを眺め、首を振った。


「いいや。だけど……誰かに笑われるようなものでもないと、そう思ってる」


 紅黒こうこくの聖剣、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの勇士として自分を誇れる程、詠歌はまだ彼女を知らない。虚勢の下の彼女をまだ詠歌は知らなすぎる。だがそれでも選んだのだ。それが一つの結末を齎したのなら、決して間違いだけではないと信じている。


「そうか。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア、お前にも問おう。お前のその姿、そして先程の一撃、余力を残していたのか、それとも天上において力を出し惜しんでいたのか」


 シグルズの知るアイリスの力はあれ程ではなかった。不意打ちとはいえ己を捕らえた『ウルタールの猫』を打倒するだけの力など、持ってはいなかった。


「さてな。天上で余力を残す事も、力を出し惜しむ事も考えた事もない。訝しむのなら、自らの剣で確かめてみるか?」

「……いいや」


 アイリスの挑発に首を振り、シグルズは二人を見た。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアとその勇士。地上に伝わる神話には描かれなかった二人を。


「貴様はもう装置として破綻している。貴様を連れ帰った所で、勇者エインヘリヤルたちの相手は務まらん。対攻神話プレデター・ロアとの戦闘の件もある、これ以上オレが地上に留まるのは神々にとっても本意ではないだろう」

「ふん、それで?」

「今は見逃してやろう。だが忘れるな、装置として破綻した貴様は善悪に関わらず、我らの敵であると。……答えよう、少年。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを天上の正義が認める事はない、と」

「そうですか」


 けれどきっと、アイリスとしての彼女の認識をシグルズは変えたのだろう。彼も元は人間だった、善悪に迷い、正しさを探し求める人だったのだから。

 背を向け、以前と同じようにその姿が歪んで消えていく。その背に詠歌は頭を下げた。謝罪と感謝を込めて。


「……これでひとまず、終わったんだね」

「そのようだな。ご苦労だったな、我が勇士」

「……うん」


 苦悩が全て晴れたわけではない。しかし詠歌の心は確かに照らされていた。


「この結末になら納得出来るよ」

「そうか。……詠歌」

「な――」


 返事をするよりも早く、アイリスは詠歌の腰に手を回し、首筋に牙を立てた。


「っ、ちょ……!」


 僅かに痛みが走るが、それよりも突然のアイリスの行動に詠歌は振り解こうともがくが、聖剣を持っていてもただの人間である詠歌にはその力はない。

 味わった事のない感覚、血を吸われているのだと気付いてもそれを止める事は出来なかった。


「んっ……ふむ、満足だ」

「いっ、きなり何!? 食事で血は吸わないんだろ!?」


 離れたアイリスに叫ぶ。心臓が高鳴っているのは血を吸われるという未知の体験だと言い聞かせて。


「ああ。だが食欲ではないこの欲求は何なのだろうな。だがまあ、私の事だ。悪意である事に違いない」

「別に、止めはしないから次からは言ってからにしてくれよ……」

「機会があればそうするとしよう」


 そう言って、アイリスは背の翼を広げた。


「アイリス……?」


 シグルズが去ると同時に結界が消えた今、上空から脱する必要はない。その理由を問おうとするが、アイリスの羽ばたきによる風圧がそれを許さず、彼女は舞い上がった。


「アイリス!」

「ではな詠歌。何、今生の別れというわけでもない。お前は私の勇士だ。いずれまた出逢うだろう」

「一体何で……!」


 アイリスと詠歌、二人の勝ち取った結末。それにこの別れは入っていない。だから詠歌は徐々に高度を上げていくアイリスに向かい声を荒げる。


「それと褒美だ、虚勢を脱いで本心からの言葉を贈ってやろう」

「そんなの今はもういい! 待ってくれ!」


 一際大きな風が詠歌に届く、目を覆ってしまう程に。


「――私の勇士がお前でよかった。私を見つけてくれたのが……あなたでよかった」


 その言葉が届く頃にはもう、彼女の姿はなく、舞い落ちる黒い羽根だけが彼女が居た事を伝えていた。

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