⑩
俯きながら、ぽつりぽつりとアイネは語り始める。
「私は気付いた時には両親に捨てられていたらしい。そんな私を拾ったのが、
「……」
彩華は何も言わず、アイネの話に耳を傾ける。
「教団と言っても一枚岩ではない。それぞれ信仰する神が居て、それぞれが教団を名乗り、敵対し合う派閥もいる。私を拾ったのは信仰する神に捧げる為だったのか、それとも純粋な慈愛だったのか、それを確かめる術もない。私が覚えているのは、醜悪な匂いとおぞましい景色だけだ」
アイネが記憶する、最も古い記憶。それは凄惨極まる思い出。
「酷く生臭かった。生温い空気が漂っていたのを覚えている。あの空間にある物全てが腐り落ちていくような錯覚があった。アレは神の怒りに触れたのか、それとも神の気まぐれだったのか。信奉者たちは許しを請うように祈りを捧げていた。幼かった私には何が起きているのかも分からず、ただ隠れるだけだった」
語るアイネには何の感情も窺えない。ただ起きた事実だけを無感情に話し続ける。
「暗闇の中から溢れ出た瘴気が一人の信奉者を包み、その姿を変容させた。人間ではない、まして神でもない、ただ醜い化け物だ。神の意思に従ったのか、己の衝動に従ったのか、その化け物は残りの人間たちを殺し始めた。ものの数分の出来事だったのだろうが、私にはそれが何時間にも思えた。教会に響く悲鳴と赤い水音を覚えている」
「っ……」
物語として語られる
「けれど、覚えているのはそこまでだ。……気付いた時には私は、その赤い空間に一人だった。人間も化け物も神も居ない、無人の教会に一人、私は立っていた。手と口許を赤く染めて、唸り声を上げて。この身に人ならぬ耳と尾が生えたのもその時だ。『ウルタールの猫』、そう呼ばれる存在が私の身に宿っていると、司祭様は教えてくれた」
そこで初めて、アイネの表情が変わる。能面のような無表情が崩れ、和らぐ。
「別の派閥に属していた司祭様は連絡の取れない事を不審に思い、尋ねて来たんだ。そこで私を見つけてくれた。……司祭様でなければ私は今頃、異端として葬られるか、他の者に捕らえられていただろう。司祭様は私を守る為に元の派閥を抜けて新たに立ち上げた。平和を望む旧神『クタニド』様を祀る……私の居場所を作って下さった」
「本当にその司祭様の事が好きなんだね」
「……ああ。私にとって司祭様は全てだ。烏滸がましい事だが……父のように思っている」
「そんな事ない。きっとアイネちゃんと司祭様は本当の家族だよ」
アイネにこんな表情をさせられるなら、それはきっとそのはずだ。無性に堪らなくなり、彩華はアイネに抱き着いた。
「っ、何をするっ?」
「私がしたいだけっ。嫌だった、かな?」
「……私は捕えらえた身だ。好きにしろ」
「好きにするー!」
逆らわず、されるがままにアイネはもみくちゃにされる。
(……こんな触れ合いは、したことがなかったな)
自らの内に新たな安らぎが生まれている事に気付かないまま、アイネは身を任せた。
「……大丈夫だよ、詠歌君も一緒だから、乱暴な事にはならないはずだ」
ひとしきり撫でまわした後、彩華が言う。今の話を聞いて、アイネを拘束し続ける罪悪感が強まったのだろう。とはいえその拘束は彩華には解く事は出来ない。
「……心配などしていない。司祭様は私などよりも神の愛を受けるに相応しきお方。
「あはは、詠歌君なら大丈夫。エリュンヒルテ様がついているからね」
「……アレは生まれついての悪性だ」
「そうだとしても、詠歌君がエリュンヒルテ様に会えてよかった。勿論、私もだけどね」
迷いのない彩華の言葉に、アイネが思わず尋ねる。危険な目にあったはずだ。他でもない自分に狙われる事になったはずなのに、と。
「詠歌君は一人で抱え込むタイプだから。私を巻き込まないようにしたのもそう。責任感が強くて、自分で責任が取れない事はしないタイプ。……それは優しさだけど、少し失礼だよね?」
彩華は頬を膨らませ、分かりやすく怒りを表す。だけど、とすぐに表情を変え、優しく微笑む。
「でもエリュンヒルテ様が居たから、詠歌君は私を巻き込む事も受け入れたんだと思う。エリュンヒルテ様は強いから。自分には無理でも、エリュンヒルテ様が居れば大丈夫だって、きっとそう思ったんだよ。それを無責任と言う人も居るかもしれないけど、詠歌君はもう少し人を素直に信頼すべきだ」
弟を見守る姉のような微笑みを浮かべ、彩華は言う。
「だからきっと、この出会いは良い物だ。いずれ別れるとしても、その頃の詠歌君にはきっと、別れも良い物に出来る」
「……私もそう願おう」
◇◆◇◆
「まずはこの地上において語られる神話について説明しなければならないだろう」
シグルズはアイリスのように勿体ぶる事も、彩華のように妙な抜粋をする事もなく、純然たる事実であろう事だけを述べ始めた。
「オレが語れるのは無数の神話群の中でオレが属し、地上では北欧神話と呼ばれる物だけだが、構わないな?」
「はい。少なくともこれ以上、僕は神話の世界に関わるつもりもありませんから」
臆病と思われても構わない。そう思っての詠歌の発言も、シグルズは否定しなかった。
「北欧神話は元々は太古に
「どうしてあなたたちの主神はそんな事を?」
「この世界で生まれる
異教の神話に対抗する為に生み出されたという
鶏が先か卵が先か、それを理解する事は彩華程どちらにも詳しくない詠歌には不可能だろう。元より超常的存在たちを理解しようとは思ってはいない。ただそういう物だと知れれば良かった。
「……この世界に遺った神話ではあなたの事も語られています。それに劇や叙事詩としても語られている、と」
「そのようだな。長い時の中で予言は無数に分かれた。それも
地上で語られる全てがその通りとは限らないのだろうが、詠歌は己の知る物語の結末を思い、それ以上シグルズについて言及はしなかった。
「でも、僕の勉強不足でなければ、彼女は……」
横目で今も拘束されるアイリスを見る。身動きの一切取れない状態で、しかしその瞳だけが詠歌たちを睨み続けていた。
「……アイリスの、
その瞳から目を逸らし、本題とも言えるそれに触れる。
「当然だ。
「けれど僕の出会った
「それこそが
「……」
詠歌には心当たりはなかったが、彩華が居ればその名を語っただろう。時空を支配せし万物の王、盲目にして白痴の神の名を。
「その加護を受け、或いはその一端に触れ、僅かではあるが
「けれどそれを、アイリスが破った……」
シグルズの話を聞けば聞くほど、アイリスが彼女が語った通りの悪性なのだと再認識する。シグルズの語った事全てを信用し、鵜呑みにするつもりもないが、恐らく真実なのだろう。最初に感じた威圧感は薄れ、その代わりに彼の持つ英雄としての高潔さを感じる今はそう思う。
「……今、僕がこれを訊くのも本来は避けるべき事なんですね」
「否定はしない。だが此処に在った
「僕は自分が善人だとは思っていませんが、あなたたちの害になるような事をするつもりはありません」
ただの人間に、何が出来るとも思えなかった。
「けれどそう言ってくれるなら、聞かせて下さい。……彼女の本来の役目とは、何ですか?」
どうしてそれを聞きたいのか詠歌自身にも分からなかった。北欧神話と
短い間とはいえ関わり、命を救われたアイリスが殺されるという後味の悪い結末も既に回避されている。後はシグルズと共にアイリスが天上へと帰還し、それで終わりだ。詠歌は待ち望んだ日常に回帰出来るはずだ。
それなのに自ら北欧神話として語られる事のなかった、
詠歌しか知りようのない事とはいえ、それを知る事は危険を孕むと分かっているにも関わず、何故。
(僕が『非科学現象証明委員会』だから……?)
その一員として、詠歌以上に未知への探究心を持つ
詠歌を危険に晒してまで、これ以上を望む事はないだろう。それに詠歌も彼女を危険に晒したくないからこそ、一度は彼女を拒絶したのだ。
では、どうして。
その疑問に答えは出ないまま、気付けば詠歌は躊躇いなくその問いを口にしていた。
そして、詠歌の内心の疑問を知らないシグルズは、詠歌の望むままにその問いの答えを口にした。
「天上のヴァルハラにおいて、来るべきその時まで永遠に破滅と再生を繰り返す事だ」
「……え?」
その答えに、理解が追いつかなかった。
詠歌の知識が足りない訳ではない。単純にその言葉の意味を理解し、咀嚼するのに時間が掛かっただけだ。
今もまだ、飲み込み切れていない。だがシグルズは言葉を続けた。己の責任を果たす為、詠歌が望んだ通りに。
「北欧神話には
「でも、彼女は、アイリスは確かに……」
振り向けば彼女は其処に居る。拘束され、けれど確かに其処に。
彷徨う詠歌の視線が彼女を捉えた時、その瞳は何かに耐えるように閉じられていた。
「ああ。
その肯定の言葉は詠歌に安堵を齎しはしない。むしろそれはさらなる真実を詠歌へと叩きつける前置きに過ぎない。
期待から鬼胎へ、詠歌の思考は反転する。
「存在しないモノ――有り得ざる、我ら
「倒すべき、象徴……?」
「ヴァルハラにて繰り返される演習。それは
其処まで聞いて、漸くシグルズの言葉を理解する。彼が言おうとしている事を予測してしまう。
「
何の躊躇いも
「君に騙った勇士を選定する役目など、アレには与えられていない。だから安心しろ、君は勇士になどならなくて良い。人として生き、人として死ぬ。この地上ではそれこそが幸福されているのだから」
勇士にならなくていい。それは詠歌が望んでいた言葉。何度も否定し続けていた詠歌を肯定する言葉。だが今は、そんなものはどうでもいい。
「……あなたは、何も感じないのか?」
「……?」
詠歌の言葉に、シグルズは怪訝そうに眉を顰めた。何を言っているのか、その真意を探っているのだろう。
ただの人間である詠歌の言葉を聞き入れ、それに対して思考している。
――ああ、何と慈悲深く、思慮深い英雄だろうか。
知らず噛み締めていた唇から、一筋の血液が顎を伝った。
「アイリスと出会ったあの夜、初めて見た彼女の姿は震えていたんだ」
「……」
顔を伏せた詠歌の言葉に、シグルズは口を挟まなかった。
「彼女と過ごした数日で、それは見間違いだと思うようになった……今でも、それが見間違いでないと証明するものは何もない。僕は彼女の心を代弁できる程、彼女を知らないし、そもそもただの人間の僕にそんな資格はないだろうから……これはただの質問だ」
顔を上げ、シグルズを睨みつけながら詠歌はその問いを口にする。
「……あんたは何も思わないのか? 同じ世界で、同じ言葉を話して、同じに食べて、同じように生きるアイリスを見て、それを装置だとどうして言える……? 伝説の英雄が、なんでそんな事を言えるんだよっ!?」
詠歌自身、今自らを支配する感情が何なのか理解出来ない。怒りか悲しみか、失望か、それが何であるかを考えるよりも先に口が動く。押さえようとは思わない、ただそれを目の前の男に吐き出す事しか考えていない。
「あんたは本物の
既に実力も、立場も、価値観の違いも全て勘定には入っていない。
「……
「それでどうして
詠歌の叫び。それを遮り、シグルズが叫ぶ。
「だが!
「……だったら、なんで」
迷いのないシグルズの言葉。詠歌の語勢が弱まったのは気圧されての事ではない。
今更ながらに理解したのだ。目の前の男と自分は根底から違う生き物だと。価値観、倫理観、およそあらゆる物の見方がずれている。違う生き物なのだからずれていて当然なのだと、今更に。
「
そう理解した詠歌は最早シグルズが言い終わるのを待たなかった。
「ほざけよ、勇者」
気がつけば紅黒の柄を握り、自らの内から生じる敵意と害意の命じるままにその刃を振り下ろしていた。
「……何の真似だ、少年」
シグルズは逆手で引き出したグラムの鍔でその凶刃を受け止め、目つきを変える。
如何に詠歌が力を込めようと、それを押し返す事は出来ない。どんな名剣もどんな不意打ちであっても、詠歌ではグラムとシグルズの虚を突く事など出来はしない。
「言わなきゃ分からないのか」
「君と
「殺されるつもりはない。けど、僕はアイリスに命を救われた。それなら僕の生殺与奪の権利は彼女にある」
「馬鹿な事を――」
血迷ったとしか思えない詠歌の発言。事実、詠歌の発言に何の意図もない。ただ内から溢れ出る物を理性によって制御も抑制もせず、零しているだけだ。
「だからッ! それを取り戻す為に僕はあんたを止める!」
血迷っていても、詠歌の動きは合理的だった。止められた刃を戻し、最短最速の突きを以てシグルズの胸を貫く。それが詠歌に出来る最も理想的な動き。
だが、そんな合理も理想も
「愚かな」
「っ!?」
力を緩めてはいない。緩めようとした直前、呆気なく詠歌は聖剣ごとシグルズによって吹き飛ばされた。
「異教の物であろうと祝福されし聖剣。少年よ、君はその剣を持つに値しない。野に咲く花を守る者、死した者の墓を守る者、今を生きる人々を守る者、自らの矜持を守る者。その全てが尊い、希望そのものだ。だが君が守ろうとする
ただの一撃で倒れ伏した詠歌を見下ろし、シグルズが語る。その瞳に宿るのは憐れみだ。あまりにも愚かな詠歌に心を痛める勇者の瞳だ。
「聖剣を置いて立ち去れ。そして学ぶといい、君が本当に守るべきモノを。この地上において、君にとって真に尊い何かを」
カチン、とグラムが鞘に収まる音が詠歌の耳に届く。明確な敵意と害意を向けられながら、今もってシグルズにはその気配はない。
「……僕は、死ねない。こんな所で何も出来ずに死ぬわけには、いかない……だけど」
聖剣を握る手は緩まない。むしろより強く、手の平の傷に血が滲む程に強く握られる。
「今動かなきゃ、生きている意味がない……!」
「……聖剣を取り戻す事がオレの使命。手放さなければその腕諸共、いただく事になる」
「本当、優しい……それなら安心して足掻ける」
どれだけの実力差があれば、あの一瞬の攻防でこれ程痛みと疲労を与えられるのか。詠歌は満足に動かない体を聖剣を杖に、無理矢理に立ち上がらせた。
「――詠歌!」
霞む視界の先、首と手足の拘束を解いたアイリスが詠歌とシグルズの間に割り入った。
「……どいてくれ、アイリス。君が出て来る必要はないよ……」
「戯けが! これは私の問題だ! お前こそ何をやっている!?」
「僕は自分の為にやってる、だけだ……君の命を救わなきゃ、僕は自分を許せない……助けられた借りを、返さなきゃ」
「それはもう済んだ、そう言っただろう!」
ふるふると首を左右に振り、否定する。
「二度も命を救ってもらった借りなんだ……そう簡単には返せない」
震える足で一歩、進む。アイリスの向こう、シグルズへ向かって。
「今更、何を……!」
さらに一歩、アイリスのすぐ傍まで寄って、気付く。霞んだ視界であっても分かった。そして確信する。
(ああ……やっぱり、震えていたんじゃないか)
あの夜。そして今。きっと天上でも。
アイリスはシグルズという脅威を前に、恐怖で震え、足は竦んでいた。
もう一歩。アイリスを抜く。痛みで震えているは詠歌も同じ。そんな詠歌が掛けられる言葉はない。だからせめてと彼女を隠すように左腕を横に広げた。
「あの拘束魔術から抜け出すとは。それに先程の戦い……
そして前へ転がるように、詠歌はシグルズへ向かって再び剣を振り下ろした。
シグルズが何を言っているのか、理解する気もなかった。
「……互いに時間が必要なようだ。君は自らの行動を鑑みる為、オレは天上の判断を仰ぐ為」
詠歌のあまりにも無様な一撃を刃を掴んで受け止めたシグルズがアイリスを見つめて言った。
「剣を納めろ。その聖剣と
「何を……」
そこでようやく詠歌はシグルズの言葉に反応する。既に意識は朦朧とし、思考もまともに出来ていない。ただそこに助かる可能性を感じ取った故の反応だった。
「明日の晩、今度こそオレは自らの使命、役割を果たす。……体を労われ、少年。君も誰かにとって、尊い人なのだから」
剣を引こうとしない詠歌を押し返し、シグルズは背を向けた。その姿はたちまちオーロラのように歪み、何処かへと消えていった。
「詠歌っ!」
何の抵抗もなく背後へと倒れ込む詠歌の体をアイリスが抱き止める。直前まで震えていたアイリスの手足では受け止めきれず、共に地面へ座り込んだ。
「愚か者……! 散々私を拒絶しておきながら、こんな真似を……!」
「ごめん……」
「この大馬鹿め……!」
アイリスの声を遠くに聞きながら、謝罪の言葉を口にして詠歌は意識を手放す。
(……結局、僕には君の震えも止められなかった……)
その震えの理由が変わった事にも、自らの頬にぽつぽつと落ちる滴が何であるかも気付かないままに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます