第三話 遭遇 後編



 どれだけ、走ったのだろうか。

 人声の届かない場所を探して、雑音の聞こえない場所を探して走っているうちに、俺はどうやら街の外れまで来てしまったらしい。夕闇に染まり始めたそこは街中とは異なり、地面がむき出しとなっていた。建物もどこか懐かしい木造。しかし、それらは所々が朽ちてしまっている。


 だけどもそこは、俺にとって癒しとも言えるモノであった。ようやく、あの嫌な反芻から逃れることが出来たのだから。だが代わりに、魔王となってからはついぞ経験していなかった息切れが、心臓を早鐘のように打ち鳴らしていた。


 それでもどうにか呼吸を整え、改めて周囲を見渡す。


「誰も、いない……か」


 そして、再度そのことを確認してから大きくため息をついた。

 逃げ切れたのだ、俺は。あの、吐き気のする、地獄のような場所から。

 そのことを実感すると、少しずつ手足の強張りもほどけていくような気がした。指先の感覚を確認するようにして、ゆっくりと動かす。――うん。もう、きっと大丈夫だ。


 しかし、そうやって平静に立ち返ると次の問題が思い浮かんだ。

 そう。俺はこの街での拠点を自ら手放したのである。と言っても、そのこと自体には後悔はないのだが、現実問題として、生活する場所がないのはいささかキツい。

 まぁ、最悪スライムだった頃のように野宿という手もあるのだが――


「――……俺も、ずいぶんと人間に染まったもんだな」


 それは、どうにも耐え難いように思われた。

 どうしても脳裏によぎるのは、クリムとロマニさんと、三人で囲む温かい食卓の風景だ。そうでなければいけないと、いや違う――それが当たり前だと、そう思えてしまう。だからこそ、俺は今こんなにも心細く感じているのだった。


 宵の闇が迫る中。

 その時に心を支えてくれる存在――それが【家族】なのだ。


「あーあ、アル村に帰りたいなぁ……」


 思わず、そんな弱音が口をついて出てしまった。

 だがしかし、そんなことではいけない。こんな所でホームシックに罹っている場合ではないのだ。俺は、その家族を守るためにここへやってきたのだから。

 気を紛らわせるように、俺は一つ大きく伸びをした。


「さて……っと、ひとまずは歩いてみるかな。そうすれば――」


 ――動かないよりは、何かしら解決できるかもしれない。

 そう考え直して心機一転、その一歩を踏み出そうとした時だった。


「ん? これは――子供の、声?」


 人間の子供がはしゃいでいる、その笑い声が微かに聞こえたのは。

 俺の足は自然とその声のする方へと向かっていた。殺風景とも思えるこのような辺ぴな場所で、どうして子供のそれが聞こえるのだろう。しかも、その声は一つや二つではない。もっと大勢の、和気藹々としたモノであった。


 次第にその音は大きくなっていく。

 そして、ある角を曲がった瞬間。空間が開けて、こじんまりとした広場の風景が視界に飛び込んできた。すると、そこにいたのは――


「あ! マーサくん、いまのはんそくだよぉ!」

「それだったら、そっちだってーっ!」

「はははっ!」

「あははっ!」


 ――十人余りの、思い思いに遊んでいる少年少女たち。

 と、それに加えて。その中でも、俺の目を一際引いたのは――


「アニ姉ちゃん、こっちにも来てよーっ!」

「はははっ、待ってなさい。次はそっちに行ってあげるから」

「えーっ! アニお姉ちゃん、もう行っちゃうの~?」

「ごめんね、シータ。今日はこれでおしまい、ね? 我慢できる?」

「…………うん」

「よし、良い子良い子」

「えへへっ!」



 ――柔らかな表情を浮かべ、踊るように銀髪をなびかせて笑う美女の姿。



 一瞬だが、俺はその舞に見惚れてしまった。

 そのためか、その人物が誰なのか理解――いや。脳がそれを処理するのを拒んだ、とでも表現すればいいのだろうか。だってそこにいるのが、先刻まで俺に鋭い眼差しを向けていた人物と同じだなんて、にわかには信じがたかったのだから。

 だけれども、事実は事実。それにほら、子供たちだってその名を呼んでいる。


 優しく微笑み、純朴な子供たちと戯れている。

 その女性が――あの、アニなのだ、と。


「――――――――――ッ!」

「あっ……――」


 ――と、自然に声が漏れた。

 それは、そこにいる女性と目が合ったからなのか。それとも、優雅な舞が見納めとなってしまったからなのか。はたまた、その女性が俺のよく知るアニの表情に変わってしまったからなのか。この中のどれが正解なのかは、俺自身も分からない。

 ただ言えるのは、非常に残念だったということと。


 ――あ、俺もしかして殺される? と、思ったということ。


 何故なら、顔を噂に聞くプラキアの実のように赤面させ、大股でこちらへと迫りくる美女。その姿には、力量差など関係もなく相手を必ず抹殺するという、そんな意志がありありと見て取れたから――


◆◇◆


 ――そして、現在いまに至るわけである。

 あの日からすでに三日が経過。その間俺は、アニの不在時にこうやって子供たちの遊び相手を務めることとなってしまったのであった。


 とは言うものの、存外に悪くない待遇を受けている。そう思えた。

 何故なら生活する場所や、食事はささやかながらに提供されているし、少なくとも俺の知る限りでの【人間らしい生活】はさせてもらえているのだから。ただ一つ苦労していることと言えば、やっぱり子守りなのだけど――文句を言っては、罰が当たるだろうと思えた。


「あっ! アニお姉ちゃんだ!」


 さて。四つん這いも、そろそろ精神的に苦しくなってきた頃合いだ。

 ようやく、ここの主が仕事から帰ってきたらしい。俺に泥団子を差し出していた少女がそう声を上げると、みな一斉に広場の入口へと向かって駆け出した。

 解放された俺は、服に付いた土を払いながら立ち上がる。そして立ち上がり、子供たちの集まる場所へと視線を移した。


 するとそこには、満面の笑みを浮かべるアニの姿。

 彼女は泥だらけの子供たちの頭を順番に、愛おしげに撫でていく。そして、それを終えると今度は俺へと鋭い視線を向けた。――おっかないこと、この上なし。


「大丈夫だって。今日もいつも通り、みんな元気で怪我もないって」

「そうか。ならば、いい」


 俺が無抵抗を示すように諸手を挙げながら言うと、一瞬だけ表情を緩めてアニはそう答えた。だが、それもほんの僅かな時間。すぐにいつものキリッとした顔に戻ると、子供たちの注目を集めるために両手を――パン! と、叩いた。

 そして、こう告げる。


「さぁ、みんな。食事の時間だよ! けど、その前にちゃんとお風呂に入ろうね!」

「「「はーい!!」」」


 すると少年少女たちは、素直にその指示に従ってボロボロの家屋の中に駆け込んでいった。木造の一階建てのそこは、一見すると廃墟のようにも思える。だがよく見ると、みんなで協力したのか所々に修繕が施されていた。明らかに材質の違う壁面に、雨漏りをする屋根。しかし、それでも俺はそこに、何故か温かみを感じていた。


 そう。まるで、アル村のあの家のように――。


「お疲れ、アニ」

「ふんっ……貴様に労われるほど、落ちぶれてなどいない」

「は、ははは……そうですか」

「あぁ、そうだな」

「…………」

「…………」


 ……相違点を挙げるとすれば、ここの関係は冷め切ったまま、という点だが。

 無論、子供たちの前では露骨な対応はしてこない。だがこうやって二人きりとなると、以前同様に淡白かつ突き放すような返事がやってくる。歩み寄って隣に並んでいるというのに、目も合わせない。物理的な距離感以上に、心の距離が大きく開いていた。


 だが、それでも。

 いや、だからこそ俺には疑問があった。

 それを今度こそ、今日こそは訊ねてみようと思う。


「なぁ、アニ――?」

「……なんだ」

「どうして、俺のことを助けたりしたんだ?」


 それは、当然の疑問。

 三日間でよく分かった。ここでの生活は、それほど豊かなモノではない。いや、むしろ毎日がギリギリだ。それだというのに、アニは俺をここに置いてくれている。

 それだけじゃない。この街に来た時だって、俺の手を引いてくれた。心中ではいかに考えていたかは知らないが、俺のことを導こうとしてくれた。


 そしてどの行いも、すべてが誰かのためであることを、俺はこの目で見てきた。

 ともすれば、その理由が気になったりするわけだが――


「………………」


 ――この通り。

 当の本人にそのことを訊ねたら、ダンマリになってしまうのである。

 それは俺がまだ信用されてないのか、はたまたその他の要因か。いずれにせよ、アニはこれまでこの問いにだけは何も言わないのだった。


 そして、それは今日も同じだと――そう思っていた。

 だが、しかし――


「――……それは」


 今日、この時だけは違った。

 突然に吹いた一陣の風が、彼女の長い髪を巻き上げる。それを押さえつつ、強い眼差しで、しかし慈愛に満ちた瞳で、子供たちの駆けて行った方を見つめていた。

 そんな、アニの横顔を見つめる俺は、どんな表情をしていただろう。


 きっと、あの時みたいに惚けた顔をしているに違いない。

 それほどまでに、今の彼女は魅力的だった。


 そして、その時間が永遠に続くように思われた時。

 彼女の口から、言葉が紡ぎ出された。


「あの日、私の頼みを聞き入れてもらったその礼だ。それ以上でも、それ以下でもない。だから、気にする必要はない」


 だがそれは、相も変わらず淡白なモノで。

 でも俺は――


「――……そっか」


 その返答で、十二分に満足してしまった。

 何故なら冷淡な言葉とは裏腹に、その表情には優しさが満ちていたから。こんな顔をする【人間】が、そんな冷酷な、損得勘定だけで動いているとは思えなかった。

 だって、そうだろう? こんな、まるで――


「分かったなら、貴様もすぐに支度をしろ。飯抜きにするぞ」

「はいはい。ごめんなさい、って」

「………………」

「……睨むなよ」


 ――噂に聞く【母親】のような人間が、そんな悪人のはずがない。

 そう、俺は思った。そう感じたのだ。だから――



 ――前とは違う、少し窮屈な生活も。

   それはそれで、よいモノなんだなとそう思えた――



 歩きながら、考える。

 俺はこのルインという街で何を見て、何を感じ、何を残せるのか、と。

 最初は不安しかなかった。それでも今は、きっと何かを見つけられる。そう思えるようになっていた。もちろん、アニの属する組織のことも忘れてはいない。

 でも、それ以外の楽しみが増えた。俺の胸は躍っている。






 だから、明日からまた、一日を一歩ずつ頑張ろう。

 俺は、自然と口元が綻ぶのを感じていた――





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