ユウスズミ(下)
ぬるい空気の中には、濃密な興奮の匂いが混じっている。
遠く
きゃらきゃらと笑いながら、足下を子供たちが駆けていく。
少し華やかな着物を着た女たちが、何人か連れだって歩いている。
男たちがあまり見えないのは、きっと何かの行事に没頭しているからだろう。
何の祭りなのか知る由もないが、普段の空気とは違うどこか浮ついた空気は満更でもない。
歩くうちに、だんだんと人の密度が増してくる。
町の中心に近い広場には色とりどりの
建物の中で練習しているのだろう笛の音が聞こえてくる。
出店で砂糖菓子を買い上機嫌で
よくよく注意して見れば、道行く人々の帯には小さな鈴が結わえられ、立木にはいくつもの鈴が下がっている。
吊された鈴は、ほとんどが何の変哲もない単純な作りのものだ。
しかし、中にはなぜここにあるのだろうと首を傾げたくなるような物もある。狼には見当もつかないが、きっと買えば結構な値がつくような細工物だ。
その鈴に興味を引かれ、狼はふらりと人の流れから外れる。
その
かなり高い位置に吊されたせいで何年も忘れられていたのだろう、細かい細工を施された表面を分厚い
良い物だろうに哀れなものだと、狼は上着の袖でごしごしと表面を
手を離すとからころと乾いた音がする。
「何してるの」
綺麗になった鈴を改めて覗き込もうとしていると、ぐいと上着の
どうしたことかと見下ろすと、興味津々といった顔で見上げてくる、五歳くらいの男の子と目が合った。
「ん、迷子か?」
しゃがみ込んで顔を覗き込むと、男の子は嬉しそうに飛び跳ねて質問を繰り返した。
「ちがうけど、そんなかんじ。ねえ、狼さんは何してるの」
「俺か。俺は祭りを眺めに来たんだ。今だけの話をすれば、ここに吊ってある鈴を磨いていた」
彼はちらと狼の指差した方向に目をやったが、どうやら高すぎて見えなかったようだ。さっさと興味を狼に向けてくる。
「そうなんだ。狼さんは背が高いもんね、高いところまでよく見えるでしょう。
あ! ねえねえ、もしかして狼さん、一人なの? ぼくね、おまつりだからあそびにきたけど、人が多すぎて何も見えなかったんだ。一人だったらぼくもつれてってよ!」
邪心のない期待のこもった瞳に、狼は苦笑いした。
頼めば大抵の大人は自分のことを見ていてくれると信じている目だ。
狼自身としては期待されるのは満更でもないし、彼を連れ歩くのもどうということはないのだが、親に見つかって人さらいと間違えられるのは困る。
「俺はかまわんのだが……一人で来たのか? 親兄弟はどうした」
問いかけると、彼は不機嫌そうに口をとがらせた。
「おとうさんもおかあさんも、ことしはいそがしいんだって。だからぼく、一人であそびにきたんだ」
「そうか。だが、俺は人さらいに間違えられるのは
「大丈夫だよ。おまつりの間は、村を出ないかぎり悪い人に間違えられることはないんだ。大人の人はいそがしいし、おまつりの日だけ戻ってくる人もいるから。
だから、ね。狼さん。ぼくといっしょにあそんでよ」
押し寄せてくる人並みを思い出したのだろう、男の子は少し震えて、狼の顔を
老狼は少し思案する振りをして、渋ってみせた。
「そうだなぁ。だが、俺が悪い
「だいじょうぶだよ。狼さん、わるいひとには見えないもん」
彼の言葉に、狼は大仰に頷いて見せた。
「そりゃそうだ。俺は人じゃないからな。だいたい、悪人なんてものは見かけによらんものだ。最初は優しいふりをして、安心したところで無茶苦茶なことをしでかすんだぞ」
「わかった。でも、狼さんは悪い人じゃないでしょ?」
信頼しきった瞳にもう一度苦笑いして、狼はまぁなと頷いた。
*
予想以上に高かった視界に最初は怯えてしがみついていた彼は、だんだんと高さに慣れてきたのか今はひどくはしゃいでいる。
「ねえねえ、狼さん、あっちでまとあてやってるよ! あ、りんごあめだ! おっきいやつ一口で食べられる? ねえねえ」
「ん、俺はそういう遊技の類は苦手なんだ。戻戻がやりたいなら小遣いくらいはやろう。りんご飴……って、あれはさすがに無理だな。大体、一口で
耳元でわいわい騒ぐ子供にいちいち返事をしながら、狼はふと懐かしさを感じた。
──そういえば。昔はよく自分の子供たちと人の祭りに遊びに来たな。
こうやって小さいのを肩に乗せて、大きいのは手を引いて……あいつはいつも隣を歩いていたか。いつもより綺麗な服を着て、俺にもそんな格好をさせようといろいろ頑張っていたような。
祭りのたびに俺が甘いものばかり抱えて帰るものだから、あいつ、妙にむきになって菓子作りの練習をしていたっけ──
「──狼さん、どうしたの?」
不思議そうな子供の声でふと我に返った老狼は、
「……あぁ、すまん。ちと昔を思い出していた」
ぴくりと動いた耳に子供が反応する。
「……狼さん、かなしいの? 元気出して」
戸惑ったように首を傾げて、狼の首をぎゅっと抱きしめてくる。
「あぁ──いや。そういうわけじゃない。ちょっと考え事をしていただけだ」
心配させてしまったことに慌てて首を振ると、子供は肩からずり落ちそうになりながら顔を覗き込んでくる。
「本当に?」
そんな戻戻を押さえながら、狼は首を振った。心持ち背筋を伸ばし、尻尾を一振りして気分を変える。
そうだ、思い悩むのはいつだってできる。今はこいつを楽しませてやらなければ。
「あぁ。ぼうっとしちまって済まなかったな。さて、次はどこに行こうか」
「……うぅん……えーと、あ、あそこの飴細工がほしい!」
戻戻は少し何かを考えるように首を傾げていたが、肩の上に立たせてやると喜んであちこちを見回し始めた。
子供と一緒に祭りを回るのは、なかなか新鮮で面白かった。
見世物にやたらと喜んでみたり、くじで大騒ぎしたり、食べられもしない量の食べ物を買い込んで半べそをかいたり、一時として同じ顔をしていない。
あの小さな躰の何処にそんな力が詰まっているのかと思うほど、興味の対象を変えては狼のことを引っ張り回す。
老狼自身も、それに合わせて遊ぶのに
子供を肩に乗せて──もしくは上着の
それは、普段人形のように表情一つ変えない相棒と付き合ううちに忘れていた何かで、それを思い出してしまえば平静ではいられなくなるということが分かっていたからかもしれない。
祭りの
老狼の肩から降りてううんと大きく伸びをすると、祭りのあとを振り返る。
名残惜しげにどこか閑散とした光景をひとしきり眺めたあと、狼に向かいぺこりと頭を下げた。
「狼さん、きょうはありがとう。おまつりもおわっちゃったし、もうかえらないと」
「──そうだな。何なら家まで送っていってやろうか」
「ううん、ちかいからだいじょうぶ」
老狼の申し出に、彼は首を横に振る。
「そうか。人がいるうちに帰れよ」
しゃがみ込んで頭を撫でてやると、子供は嬉しそうに目を細めた。
「狼さん、きょうは楽しかったよ! ほんとうにありがとう、じゃあね!」
最後にぎゅっと狼の首を抱きしめ首の辺りに頬ずりすると、戻戻は手を振りながら駆けていった。
「あぁ、気をつけてな」
遠ざかっていく背中を見えなくなるまで見送って、老狼は踵を返す。
──そろそろ怜乱が遅いとか何とか文句を言っている頃だろう。
*
「やぁ、お帰り。遅かったね」
戸を開けると、ひやりとした冷気とともに声とごそごそと起き出す音が聞こえてきた。
「あぁ……」
何だ、今まで寝ていたのかと続けかけて、狼はふと口を
どこからか、
それを探すより前に、起き出した怜乱がすたすたと近づいてくる。
ぐるりと周りを歩き回って何かを見つけると、彼は不思議そうな顔で狼を見上げた。
「老狼、これどうしたの」
腰の辺りを指さされて、狼もそれに気がついた。
「これ、この辺りの人が持っている
怜乱は首を傾げながら、狼の帯に結びつけられていた小さな鈴を指先でつついた。
からころと鳴る乾いた音には聞き覚えがあった。
大仰な名で呼ばれたそれをつまみ上げてみると、それは思ったとおり狼が磨いてやった鈴だった。
細かい模様が刻まれた
「? ウツシミタマノスズ? 何だそりゃ」
狼が首を傾げると、怜乱は少し考えてから話し出した。
「──これはね、この辺りの人が手に握って生まれてくるものなんだ。
よく見てごらんよ、音はするけど中に玉が入っていないだろう?
だから本来、この鈴は音が鳴らないものなんだ。本来の持ち主が持っていると結構音がするという話だけれど、それ以外の人が持つとからとも鳴らないらしい。
ただ、例外的に持ち主がどこかで危険な目に遭うと音を発して、危機を知らせてくれるそうだよ。
そんな訳だから、これは普通子供が大きくなるまでは親が持っているものだし、成人してからだって大切な人に預けていることが多い。持っていればその子のお守りになって本人に危機を教えてくれる。
だから、どう考えても老狼がこれを持っているのはおかしいんだよ」
「……そうなのか。だが、これは木に吊してあったぞ。そんなに大切なものなら、ちゃんと取っておくものではないのか」
からころと鈴を振りながら狼が首を傾げると、少年はまじまじとその顔を見つめた。
見つめてから少し中空に視線を
「持ってきた、って訳じゃなさそうだね。
じゃあ、どうして──そうか、続きがあったな。
現霊鈴は普通、持ち主が死ぬと崩れて消えてしまう。
でも、中には例外があって──例えば未練を残して死んだ者の鈴は、思いが成就されるまでその形を留めると言われている。逆に、残されたものが死者へ強い思いを残しすぎている場合なんかも。
そうして形の残った鈴は現世との媒介になって、死者がこちらへ現れるときの手助けをするんだという話。
ただ、あまり無節操に死んだはずの人間に出て来られても困るっていうことで、この時期に死者を迎えるための祭りを催すらしい」
記憶を辿るようにして話しながら、怜乱は狼に鈴を要求する。狼がおとなしく鈴を渡すと、彼は手のひらで鈴を転がしながら真剣な眼差しでそれに見入っていた。
音もなく転がる鈴に目を落としたまま、少年は低い声で呟くように続ける。
「まあ、どこでもそうなんだけどさ。若くして死ぬ人ってそこまで多くないんだよ。年寄りは死んだとしてもそれなりに満足しているし、周りだって天寿だって納得してる。
結局、多いのは幼い子供なんだ。目に入れても痛くないくらいかわいがってた子供とか孫が死んじゃったら、そりゃ誰だって嘆くし、できることなら生き返って欲しいと思うだろう──けど、さ。
流石にここまでするのは異常なんじゃないかな」
怜乱の話を黙って聞いていた狼はおやと思った。怜乱がここまで人の情を口にするのは珍しい。心なしか寂しそうな口調にはどこか
「何が異常なんだ?」
あえてそれには触れずに問いかけると、少年は細い指先で鈴の表面に刻んである複雑な模様をなぞった。
「……この装飾。このあたりの呪術の一種で、死者の魂を現世に留める効果があるとされている模様なんだ。
僕も詳しくは知らないけれど、こういう術の
それに──あぁ、これは」
装飾をなぞっていた指が止まる。
止まった指の先を覗き込むと、装飾に埋もれさせる形の
「きっとこれが彼の名前なんだろう。
生まれる前に死んだか、新しい名を与えられる前に死んだか。どちらにしても、現世に戻ってきてほしい一心でつけられた名前なんだろうね」
「──そう、なのか」
そうして思い出して初めて、狼はあの子供からは鈴の音が聞こえなかったことに気がついた──周りからはひっきりなしに鈴の音が聞こえていたというのに。
あんなに楽しそうにはしゃいでいた子供が、実はもう死んでいたなんて話が信じられるわけがない。
しかし、怜乱は基本的には嘘をつかない。それに名前の一字を取って繰り返すのは子供の愛称としては一般的だ。刻まれた名前は確かにあの子供のものだとしか考えられない。
「いや、しかし、俺はそういうのは見えないはずだぞ」
それでも割り切れない狼は、苦しい問いかけだと分かっていてその言葉を口にする。
「だからさ、そういうお祭りなんだよ、今日は」
「──」
「だから外には出たくなかったんだ」
ふんと鼻を鳴らして、そのまま寝台に寝転がってしまう。
──狼の手に残ったのは古びた細工の鈴が一つ。
きゃらきゃらという笑い声が聞こえてくるような気がして、狼は胸を押さえた。
──────────【ユウスズミ・了】
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