樹下鬼譚─きのしたのきのはなし─

あまね つかさ

  

​眠陽(三月)

ハルノモリ


 雪深い森を抜けると、そこは唐突に春だった。

「なんだこりゃ」

 隣で狼が素っ頓狂な声を上げるので、怜乱れいらんは驚きの声を上げる機会を失ってしまった。背をかえりみれば、そこは未だ雪に埋もれている。

 さっきまで吹雪いていた空は澄やかに晴れ渡っている。僅かに強い初夏の日差しが柔らかな緑の上に注ぎ、所狭しと群集する花々は風にさやさやさざめきながら、姿と香を誇っている。花の間をひらひらと舞う蝶や小鳥は、いかにも春の歓びに満ちていた。

「そんなところで立ち止まっていないで、こちらにおいでくださいな」

 どんなまやかしだとけわしい顔になった怜乱に、声を掛けるものがいる。そちらに視線を向けると、花畑の中から身を起こす黒い姿と目が合った。

「春の庭へようこそ、旅のひと」

 立ち上がった若い男は、突然の訪問者を歓迎するように両手を広げ、にこりと微笑んだ。

 怜乱は首を傾げながら、その黒い相手に問う。

「ええと、ここは何かな」

「ですから、春の庭、です。あぁ、それにしても久しぶりの客人だ。よかったら、少しゆっくりして行かれませんか。あちらは寒かったでしょう」

 すぐ外の山々のことをあちらと言い切って、男は怜乱たちを手招きする。

 特にこれといった悪意も感じられないので、二人はおとなしく彼の招待に応じることにした。



「ここを見つけられる人間は滅多にいないんですよ」

 男は木陰に客人を招き寄せると、何もない場所で誰かを呼ぶように手を鳴らした。

 幻のように現れた酒席に二人をかけさせると、男は手ずから酒を注いで肴を勧める。

 どこか花の香のする酒を一気に呷って、怜乱は改めて男の姿を眺めた。

 痩身そうしん中背の、三十手前程の男だ。細い首の上に乗っている標準以上に整った容貌の中で、黒目ばかりが印象に残る。肌の色は南国の人々のように浅黒い。

 遠くから見たときは光の加減で髪も着物も真っ黒だとばかり思っていたが、実はそうではないらしい。うらうらとした日差しを受けて頭の上に輪を作る髪は、どこまでも黒に近い群青ぐんじょうをしていた。長い着物はあつらえたように髪と同じ色で、所々青味がかって羽根のような文様が入る。もっとあからさまに羽根を編んで作られているのは朱色の帯で、飾り紐と襟筋から覗く中衣だけが、僅かに白い色を含んでいた。

 どこかで見たような色合いだなと考えながら、怜乱は男に名を尋ねた。

「これは失礼。しかし、私には名がありませんので、つばめとでもお呼びください。人は何かの名をくれたようですが、あれはまた別のものですので」

 言って男は、僅かに寂しそうな表情を浮かべて手の中の酒杯に目を落とす。下げた頭の、天辺の髪がただ一筋赤い。

 なるほどこれは燕の精かと怜乱は半分納得した。

「しかし、どうして燕がこんなところに居るんだ? おまえさんたちはもっと南で暮らしているはずだろう」

 大抵の生き物の住処を知っている狼にはひどく不思議なことなのだろう。怜乱が口を開く前に、不思議そうな顔をした老狼がそれを問いただした。

「あぁ──聞いていただけますか。とてもつまらない話ですけれど」

 燕は、顔を上げて淡く微笑んだ。

 そして客人に酒を勧めると、自分の杯を握って語り出した。


「そう──あれは、私にまだ呼び合う名があった頃の話です。

 あのころの私は、連れ合いと空を駆け海を渡り、春に夏に二巣を掛けてはまた南へ戻るという生活をしておりました。

 どこかで戦火が上がっていたようですが、私が巣を掛けるあたりはまだまだ静かで人々ものんびりしておりましたので、私たちは安心して子供たちを育てておりました。

 しかし、何度目の渡りの季節でしたか。南から北へと猛烈な勢いで吹き抜けた嵐に巻き込まれ、私は連れ合いを亡くしました。私自身は遠く北の地まで吹き飛ばされ、瀕死ひんしの状態である村に落ちました。

 ご存じの通り、ここはほとんど極地と言っても良いところです。あのときは判りませんでしたが、この大陸ををほぼ縦断する形で飛ばされてきたのですね。私は春の終わりから冬のただ中へ、放り込まれたのでした。そのうえ翼も折れていましたから、もうこれでおしまいだろうと思い、私はおとなしく倒れていました。

 辺りは雪に降り込められ、とても寒かったのを覚えています。折れた翼はすぐにかじかんで、私はこのまま翼から凍りながら死ぬのだと観念しておりました。

 ですが、そんな私を見つけた人間がいたのです。

『やあ、これは珍しい。こんな村に燕が迷い込んでくるなんて!』

 まだ若い人間の雄はとても嬉しそうに手を打ち合わせると、折れた翼に触れないように私を拾い上げました。

 彼は、それから三月ほど私を手当てして介抱してくれました。副木そえぎを当てられた翼を引きずる私を、彼はいつも嬉しそうに眺めていました。

 我々は元々、人の生活の一端を借りることで外敵から身を守る暮らしをしています。巣から落ちたこどもを助けてくれるのはいつも人間でしたし──まあ、時折巣を壊されることもありましたが──烏鴉からすを巣から遠ざけてくれるのも彼らしか居ませんでした。

 ですから、私はありがたく彼の好意に甘えました。甲斐甲斐かいがいしく食べ物を運んでくれ、私がちょこちょこと歩くのを見ては喜び、細く裂いた布を替えてくれる人間に助けられて、私は何とか飛べるようになりました。

 私が元気になると、彼は少し心配そうな顔をしながら私を空に帰してくれました。

『元気でな。ここはまだまだ春が遠い。とびたかに捕まるなよ』

 私はとても感謝していましたが、それを彼に伝える方法は知りませんでした。ですから、くるくると何度か彼の周りを飛んで心配ないということを示すと、一散に遙か南の故郷を目指しました。


 ……何がいけなかったのか、今になっては私には見当もつきません。彼に世話になって人への警戒心が薄れすぎていたのか、それとも嵐に巻き込まれた時点ですでにこうなることは決まっていたのか。


 彼のいた村を出て、低い山を越えた所にもう一つの集落がありました。

 久しぶりに長いこと飛んで疲れた私は、その集落の軒先のきさきで夜を明かすことにしました。敵に見つからないような場所を選んで羽を休め、目を閉じたことまでは覚えています。


 ──気がつけば、私はかごの中でした。

 辺りは暗く、頭の中はぼんやりと重く、とてもいやな臭いがしていました。何か訳の分からない音が辺りに充ち満ちており、私はとても不快に感じました。

 ご存じかとは思いますが、我々は辺りが暗いとほとんど何も見えなくなります。真っ暗な視界の中で、大勢の人間たちがごそごそと動くのを気配だけで感じ、私は恐ろしくなりました。何か訳の分からないことに熱心になって団結するものたちは、本当に何をするか判りませんから。

 籠に入れられた私は、真っ暗な中で集団が熱狂する音を、ただふるえながら聞いていました。

 どれくらいの間だったのかは判りません。永遠にも思われたそれがようやく終わったかと思うと、籠には分厚い布が被せられ、私は籠ごとどこかへ連れられていきました。

 長いこと籠の中で揺らされて、私はこの場所へと連れられて来たのです。

 おおいが取り払われ寒さに震える私を、人間は掴んで高くかかげました。そのとき、私は始めて人の狂信を目の当たりにしました。きっとあの集落に住んで居るであろう人々の全てが、この狭い空き地に集まっていました。

 私を掲げ持つのは祭司であろう姿をした男で、彼は呪文のような言葉を高らかにわめき、私の翼の両端を捕んで無理矢理広げて見せました。つばめだ、とどよめく群衆の目に狂気の影を見たのは、私の気のせいではないと思います。

 それから後のことは、正直なところ良く覚えておりません。とても苦しかったことだけが強く印象に残っています。


 気がつけば、私はこの春の野に一人、ぽつりと取り残されていました。あの冬の野山は消え去り、太陽の見えない初夏の日差しが降り注ぎ、夢のような野原が目の前に広がっていました──今あなたたちがご覧になっているのと同じ景色が。

 なぜだか、今置かれている立場がどのようなものか、何をしなければいけないのかは判っていました。

 そう……私は。無理矢理この地にまつられたのです――」


 男の長い話が終わる。

 花の香りがする酒を杯の中で揺らして、怜乱は低く尋ねた。

「……それ、大体七百年くらい前の話?」

「はい」

 こくりと頷く男に、少年は深い溜息をついた。

 男の話を聞く間に、怜乱は彼が背にする大樹の表面に、ほとんど消えかけた古い文字を見つけていた。

 そこには、環燕かんえん元年ここに巡り来たる祝い神を祀る、と大きく綴られている。それから後の長い文章は読み取ることができなかったが、きっと由来が延々と連ねてあるのだろう。

 環燕とは今上きんじよう帝のごうだ。

 それだけで少年は理解する。

「──あぁ、ここが君のほうむられた場所なのか」

 それだけ呟いて黙り込んだ彼の背中をつついて、狼が何がどうなったんだと聞いてくる。

 怜乱は推測だけどと低く前置きして、狼に答えてやった。

 前の統治者の政治が荒れれば荒れるほど新しい統治者は歓迎されるものだが、例に漏れず環燕帝の前もそれはそれは酷かった。単純に王と呼ばれることも多い大華たーふぁの帝位は、就いたその者の時間を王宮の守護者である仙鳥・ほうが預かる事で成り立っている。

 それは事実上永遠の生を与えられるのと同義であるが、前帝は自身が生きることにすら飽いていたのだろう。国政を顧みずただ漫然と国を荒らし、そして今上帝に討たれた。

 炎では春、特に華乱しがつに興った王朝は栄えると言われている。そして現在の大華の年号は環燕という──要するに、それがかれの災難だったのだろう。

 燕は春を連れてくる鳥だと言われている。

 環燕という元号が公布された直後にやってきた、春を呼び込むくろい鳥。

 毎年のように燕が渡り来る温暖な地ではなく、本来ならその鳥が来るはずもない極地に迷い込んできた燕は、民にはそれこそ神の使いのように見えたはずだ。

 春を運んできた鳥を、この場所に閉じこめてヌシと祀りあげる。とても迷惑な話だが、ありえない話ではない。

 そんな内容を教えてやると、狼は悲しそうに耳を伏せた。

 しばらくの間、何とも言えない沈黙がその場に落ちる。


 元々南の地に棲む彼は、きっとこの偽りの世界にいい加減飽いていることだろう。しかしそれでも、主として封じられてしまえばこの場所を離れることなどできはしない。

 主は管理する土地の龍脈から力の源泉を汲み上げている。管理地内では万能とも言える力を持つが、管理地を遠く離れてしまえば長らえることすら難しいのだった。


 少年や狼が何かなぐさめの言葉を口にする前に、彼はゆっくりと顔を上げた。

「あぁ──でも。帰りたい。帰りたいなぁ、あの南の地へ」空を振り仰ぎ、熱心な声で。

「照りつけるに目と羽をかれながら、あの青い空を駆け回りたいなぁ」

 心はここにないのだろう。黒目がちな目はどこか遠くを見つめている。

 なぜなら、ここは彼が過ごしやすいように整えられた、極上の牢獄なのだ。ここを離れることはできないとすでに判っているはずだ。


 悲しいねと呟いて、二人は偽りの春の野を辞した。


            ──────【ハルノモリ─眠陽─・終】

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