第2話 どことはどこ

 気が付くと、自分の横が温かくなっている気がする。

「……くん……くん」

 隣の人もなんか音読しているのか、と思ってまた本に意識を戻した。すると、背中を叩かれた。

「佐々木くん」

 自分を呼んでいた。彼女は誰だっけ……。ふと彼女の机の本に目を向けた。あ、これは『こゝろ』か。あ、夏目漱石の研究をしたいとか言ってた人がいたな。

「……中川さん」ちょっと疑問符がついている感じのイントネーションで返事をした。やはり、人の顔と名前を覚えるのは苦手だ。今日は覚えていてよかった。

「あのさ、佐々木くんって英語得意だったよね」

「あ、うん」

「それでね、『こゝろ』の原書と英訳の対照研究をやっているんだけど、先行研究の論文の中でわからないのがあって、教えてほしいの」

 内容は英語の解釈についてだった。正直言って文学には、あまり興味がない。というより、わけがわからない相手の気持ちがどうとか、この文にはこういう作者の意図があるとか、どうして考えられるのかわからない。そもそも、文字を、文章を、読むということでかなりの重労働なのに、書いていないことまで考えるなんて、どれだけ高度な技術なのだろう。だから、日本の文学が素晴らしいのはわかるのだが、それを学問にするなんてよっぽど頭の処理能力が高いか、ただの暇人だと思う。一応『こゝろ』は、読んだことがある。夏目漱石が好きだとかではなく、ただ、受験に小説の読解力が求められているし、社会では教養として読んでいる人が多いから、読んでいた。そのおかげで、出てくる文は解釈できた。

「ありがとう」

「いや、この程度なら全然大丈夫だから」

「そうなんだー。そう言えばお昼って学食で食べるの?」

「そうだね。家ちょっと遠いから学食で食べてる」

「じゃあ、もうお昼だし一緒に学食で食べない?」

「ああ。別にいいよ。パソコン、かばんに片づけるからちょっと待って」

 そして、かばんにパソコンをしまう。誰かと学食でご飯を食べるのはいつぶりだろうか。大学一年の春の最初の最初に学部の同級生と食べて以来だ。それから、誘われることはなかったし、知り合いを学食で見かけたとしてもどう声を掛けていいのかわからないし、いつも一人で食べている。それは別に恥ずかしいことではない。ごくごく当たり前なことである。

 だから、何か緊張する。断っておけば良かった。でも断るってことは悪いことだし。これも付き合いだと割り切るしかないか。なんで付き合いという概念があるのだろう。いつものように食べたいものを食べたいだけトレイに載せていく。いつも以上に手が震える。人前でしかも女性の前で昼食を取るなど、もう逃げ出したい。でも、そんな場合ではない。

 レジを通って、支払いを済ませる。周りを見渡す。考え事をしながら、メニューを取っていったためか、彼女を見失っていた。どこにいるのだろうか。こういう広い場所で特定の人を探すのは無理だ。そもそも顔もはっきり覚えていない。ぶらぶらしていると、彼女から携帯にメッセージが届いていた。

「どこ!」

 どこと聞かれてもどうやって表現すればいいのか。せめて番号でも振ってあればいいのに。なんか目立つもの目立つもの。食器返却口の看板でいいか。

「『食器返却口はこちらです』の看板の下」

「わかった。今行く」

 しばらくして、彼女がやってきた。

「佐々木くん」

「ごめん。どうも人探しが苦手で」

 彼女は一瞬ぽかんとしていた。それから一言。

「まあ、食べようか」

 それから、昼食を食べていく。いつも通り、普通通り食べればいいというわけにはいかない。普通に食べると俺の食べ方はあまりにも汚すぎる。ああ、やっぱり嫌だ。

「そういえばさ、佐々木くんっていつも空きコマにはさっきみたいに文献収集しているの?」

「まあ、空きコマは暇だし。僕文学部のくせして、本読むのに時間かなりかかるから。たくさん時間かけないと」

「なるほどね。じゃあ、本はあまり読まないの?」

「いや、読むよ。一応ドストエフスキーとかシュペルヴィエルとか古典作品は、ちょこちょこかじって」

「シュペルヴィエル!あの人はいいよね。何読んだ?」

「『海に住む少女』とかは読んだよ。本当あの人の作品は短くて内容性があって、なんかぶつかってくるものがあって、それでスーッとした読後感があって。新しい感覚がある」

「そうそう。ねえ、今度一緒に本屋……大黒屋書店とか行かない?」

「いいけど、僕、そんな本知らないよ。文学部に来たのも心理学をやろうと思ったからだし」

「全然いいよ、あんまり文学部の男子と二人っきりでどっかに行くってこともなかったし。今週の土曜日の午前中とかどう?暇?」

「まあ、暇っちゃ暇だけど」

「それなら、大黒屋書店の入り口のエントランスで十時に待ち合わせね」

「……ああ、わかった」

「じゃあ、もう講義だから行くね」

「うん。そしたらね」

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